谷川 俊太郎(Shuntaro Tanikawa)

1931年12月15日 生まれ

日本の詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家。

東京府東京市杉並区生まれ。

 

「スイミー」という作品をご存知でしょうか。私が初めて触れた国語の教科書に載っていた谷川さんの翻訳作品です。大好きなスヌーピーが出てくる「ピーナッツ」の翻訳版や「マザー・グースのうた」も谷川さんの作品。大人になってからは「生きる」「二十億光年の孤独」など数々の作品に出会い、母親となった今では息子に「もこもこもこ」を読む毎日です。

平易な言葉でわかりやすく書かれている谷川さんの作品は子どもから大人まで大変人気で、その人気は日本だけでなく、英語、フランス語、ドイツ語、スロバキア語、デンマーク語、中国語、モンゴル語などに訳され、世界中に読者を持つほどです。

現在85歳。老いてもなお現役で執筆・講演活動をされており、また、様々な分野の方たちとのコラボやiPhoneアプリ「谷川」など新しい試みにチャレンジされています。

活動的で多才で多彩な詩人・谷川俊太郎さんは一体どんな方なのか?!数秘で紐解いていきます。

 

 

Birth Number 14-5

(生まれ持った資質・性格・個性・生きる姿勢や才能・その人の潜在能力・深層意識)

 

「5」は変化、自由、多才、機知、破壊、不安定のナンバー。

中学では戦中は軍事教育だったのに戦後から急に民主教育になりコロッと変わった先生がきらいで同じ教室にいるのも嫌で窓から逃げたことも。また、学校で“みんなで一緒に何かやりましょう”というのが嫌、異質な人間同士が協力し合って何かをすることはいいけど、“同質・均質”が嫌だったと谷川さんご本人も語っており、変化と自由を好む5の資質そのものです。高校は不登校、定時制高校に通い真空管ラジオ作りに夢中になっていた頃、文学青年だった友人に「同人誌を作るからお前も何か書け」と言われ、ほとんど書いたことなかったけれども書いてみようと思って書いたのが今日まで行っている作詩のはじまりです。

作詩のはじまりも冒険心と好奇心からというなんとも5らしいエピソードです。

その後も反安保活動、三度の結婚・離婚、突然の活動休止(活動再開まで沈黙の10年と言われている)、作詩だけでなく絵本・翻訳・映画製作・脚本、講演活動など常に新しいことに挑戦しています。若いころから多くの人に自分の作品に触れてほしいという気持ちが強かった谷川さんはどんなメディアでも仕事のオファーがあったら、できることであれば全部受けてきたそうです。それをやれてしまうマルチぶりも「5」ならでは。近年ではさらに活動の場を広げてインターネットから詩を釣るiPhoneアプリ「谷川」や、詩を郵便で毎月読者に送る「谷川俊太郎のポエメール」など、詩の可能性を広げる新しい試みにも挑戦しています。時流に乗り、たくさんの体験をして学び、新たに挑戦していく。いつまでも新しい感性を持ち続ける谷川俊太郎さん。まさに「5」ですね。

 

また、谷川さんはカルミックナンバー14を持っています。

「14」というのは過去生における「自由」の誤用を理解するためのナンバー。家族との協調、家や職の余儀ない変化や危険思想などの体験によって、真の建設的な自由とは何か?を学ぶことになる。異なること、自分の中にないものを合わせます。自分の中にある価値観にこだわり、執着を全て外していくナンバー。

谷川さんは「14」持ちらしく、家族を通して執着を外して自由となっていきます。

法政大学総長の父を持ちインテリの家庭で育った谷川さんは昔ながらの下町付き合いはなく、また、一人っ子で兄弟もいないため、学校へ上がるまで唯一人間とのつながりが母親という密接な母子環境で育ちました。父親は家庭を顧みないでずっと外にいる人だったせいもあり、母親に可愛がられ、とてもマザコンだったそうです。そのせいか、恋愛というものがいつでも自分の母親の願望にすごく染められていて、一夫一妻制を守るためなら浮気も離婚も辞さないと、一夫一妻制を狂信的に信じていました。三度の結婚と離婚で女性に捨てられてマザコンが薄まり、「痛い目にあって、痛い目にあったことを反芻していく過程で、やっと自由になれたようなかんじです」と谷川さん本人がインタビューで語られています。

家族の破壊と不安定といった変化は、つらく苦しいことも多かったかと思いますが、谷川さんが自由となる必要な課程だったのでしょう。

                    

Destiny Number 7

(表面意識・与えられた才能・個性をどう活かしていくか・人生における目的・使命・何を実現していくか)

 

「7」は知性、内省、独創性、分析力と直観力のナンバー。

谷川さんは「詩というのは書いた以上他人のもの」と公言しており、この発言だけ切り取ると「作品に愛がないのかしら!?」というクールな印象ですが、実際は自分の詩を起点に詩を連ねていくプロジェクトを喜んでおり、会得した智慧(詩や言葉)を世に広め、人々の心を豊かにするという「7」のミッションを果たしています。

作品からわかるように独特の世界観・価値観をお持ちです。母親との関係から、人間のつながりが希薄だったため、子どもの頃から、友達に相談することなく、ひとりで悩んできました。ゆえに、一般的な10代後半の悩みはなく、世界観は宇宙へ。そして「20億光年の孤独」が誕生しました。人間社会を超えた、場所や時間に自分を規定して書いたそうです。

 

「7」らしい独創的な世界観と知性溢れたこの詩は今もファンがたくさんいます。

宇宙の話なのにどこか温かみがあるのも親しみやすさや柔和な温かさ、平和的な面を持つ「7」ならではです。

また、独特で少し辛口の「7」をお持ちの谷川さんらしいエピソードをひとつご紹介させてください。

不登校新聞2001年1月1日65号のインタビューの最後の質問「21世紀と子どもについて一言お願いします」に対して、谷川さんはこう答えています。

「そういうのは拒否したいですね。「全然いつもと変わらない新年じゃん。どこがちがうんだよぉ」ってなほうがいいんじゃない?  メディアは騒いでいるけど、不登校新聞くらいはそういうのやらないで、「いつもと同じ繰り返しで、でも波には同じ繰り返しはないんだ」っていう矛盾したことを言うのが一番いいんじゃないかなぁ(笑)。」

このような考え方もある、みんなと一緒がよいという風潮に迎合しなくてもよいと考える人もいる事をインタビューで語り活字として世に出すことでホッとする人もいます。安心は心の豊かさにつながりますので、十分に才能を活かしている谷川さんなのです。

 

 

Soul Number 22-4

(1番大切な価値観、優先したいこと、自分の心の奥底にある魂の欲求)

 

「4」は規律、秩序、現実、信頼、安定のナンバー。

魂が安定を求めている谷川さん。三度も結婚・離婚されていますが、谷川さんご自身は生き方についてアンチ・クライマックス派でドラマティックになるのは照れくさいのでドラマを避けるそうです。秩序、安定を求めて結婚・離婚をされたのかもしれませんね。独り身の現在は倒れて人に迷惑をかけないように健康管理に気を付け、一日一食規則正しく、平凡な生活とのこと。「日常生活の中のリアリズム」を大切にしています。

作詩においても宇宙などの大きな話になっても自分のところへ戻ってくるように意識されているとのこと。前述した「二億光年の孤独」。講演会で谷川さんは「地球や火星人や宇宙が出てきた最後に「くしゃみ」を入れる。くしゃみによって現実に、日常生活に戻ってくるようにした」と語っていました。谷川さんは日常生活、現実をとても大切にしているというエピソードの一つです。

また、谷川さんは「22」の「4」。

「22」は創造性、偉業、インスピレーションのナンバーです。

波乱万丈でいろんなことをしてくナンバー。よりよい世界を創るために仕事をします。まさに谷川さんですよね!

 

谷川さんは自我が薄いと自覚されています。

自己主張はあるがギリギリまで詰められて出てくるくらいで、そこへ行くまでは自我が薄く、人を喜ばせたいという谷川さん。

その自我の薄さと詩を書くことについて、こうも語っています。

「詩を書くには自我がないということが一つの条件としてあるんだと僕は思っています。自分を空っぽにして言葉を呼び込むのが詩の書き方だと思ってるの。だから自分は自我が薄いというのは詩に向いてるって思ってますね。ぼくはやっぱり、詩人は巫女みたいなもんだっていう比喩は、正しいと思うんですよ。巫女って自分の言葉は語らないでしょ?人の言葉を語って、みんなが寄ってっちゃう。」

谷川さんの自我が薄いからこそ、インスピレーションで素晴らしい言葉が紡がれていくことをどこか感じられているのかもしれません。

波乱万丈な人生を歩んでいるのに「生活にエピソードがない、見えない」と言われるそうですが、それも巫女・谷川さんの自我が薄く空っぽにして呼び込んだ言葉が作品として世に出ているからなのではないでしょうか。

 

「書くこと=推敲」とも谷川さんは言います。よりよい詩にするために何度も考え作り直しているのでしょう。よりよい世界を創るためによりよい詩を作る。とても22-4らしい作詩をされているのでしょうね。

 

 

Personal Number 12-3

(社会的な仮面、他者の目に映るその人の表面的人格)

 

「3」は表現、生産、開放、楽観のナンバー。

他者からはおちゃめな遊び人、アイデアマン、多趣味多忙、人を癒し引き付ける人と見られます。世間から見た谷川さんは確かに笑顔がかわいらしいちょっとおちゃめなおじいさん。また、詩だけでなくインタビューなども拝見すると、何とも人を癒し引きつけられますよね。他人からどう見えるかというところを無意識に自然と活用しているのでしょう。

 

 

Realization Number 12-3

(今回の人生での可能性や実現性)

Personal Numberと同じ、12-3です。今回の人生での可能性も実現性もたくさんの経験を経て可能にして、形にして、実現させている谷川さんです。もう85歳の谷川さんにさらなる可能性を感じてワクワクさえしてきます。

 

History】

*Cycle Number (テーマ)                           0-31歳:#12(コラボレーション) -#3(創造)

*Pinnacle Numbers (状況)                       0-31歳:#9(精神的成長へ、才能の開花)

*Challenge Number (あり方)    0-31歳:#3(創造)

 

  

31歳までは詩を書くことなどの創造活動、詩人として活動していくためにコツコツ続けることがテーマ。結婚、離婚、のちに一緒に活動していく長男の誕生など、家族の創造もテーマとなります。また、コラボレーションナンバー#12がありますので「誰と組むか?」ということも重要です。

 

31歳までずっと2桁のYear Cycleが続いており、また、戦争もあり、疎開や学校生活に馴染めないなど現実面でも大変な時期でした。生涯の仕事であり自己表現でもある詩を書くことを友人がきっかけで17歳(#22)の時に始めます。父 徹三から三好達治へ詩が渡り、詩人としての第一歩を歩み、様々な友人たちと交流・コラボレーションしてくことでどんどん才能を開花していきます。20代後半には作詩だけでは食べて行けず、歌の作詞・翻訳・脚本・エッセイの執筆など何でも引き受け、内面的不安定さと仕事をこなすきつさと内面的な不安定さも伴いましたが、どんどん仕事をしていくことでさらなる創造の幅を広げ、また、精神的にも学ぶことが多く成長していきます。

現在のマルチな才能はこの頃がベースになっているのでしょう。

また、プライベートでは31歳までに一度目の結婚・離婚、二度目の結婚を果たし、長男が誕生し、父親として人としても精神的に成長していきます。

 

1931年0歳 #23:12月15日東京慶応病院で生まれる。

1936年5歳#19:ミッションスクール系の聖心学園入園。天国・地獄行きを決める善悪のはかりの掛け図が生々しく心に残っている。幼時から夏はほとんど 北軽井沢で過ごす。

 

1938年7歳#21: 杉並第二小学校入学。何度も級長を務めたが、学校が楽しかったという記憶なし。音楽学校出身の母からピアノを学ぶ。模型飛行機づくりや鉱石ラジオ などの機械いじりを好んだ。

 

1940年9歳#23:3年生の時、同級生の男の子に生まれて初めて往復ビンタされる。手を繋ぎたくない子と手を繋がされるのが嫌だった。当時は自分でも気づかずに強いエリート意識を持っていたようである。

 

1942年11歳#25:3月、作文「A-1型」、詩「模型飛行機」を書く。

 

1945年14歳#19:東京山の手大空襲。友人と自転車で近所の焼け跡へ行き、焼死体を見る。母と京都府に疎開。京都府立桃山中学校に転学。京都の友人になじめず、学校には行かずに木津川べりをぶらぶらしたりした。

 

1946年15歳#20:東京へ帰り、府立豊多摩中学 (のち都立豊多摩高校)に復学。ベートーベンの音楽に感激して夢中で聴き始めた。

 

1948年17歳#22:クラスメートの影響で、詩を書き始める。校友会誌『豊多摩』 に「青蛙」「つばめ」「教室にて」「あるもの」の4篇を発表。『金平糖』(ガリ版刷りの詩誌)に「かぎ」と「白から黒へ」の8行詩2篇を発表。

 

1949年18歳#23:ノートに詩を書きつけはじめた。この日からはじめて3冊のノートに書きためた詩が文壇デビューの契機となる。

 

1950年19歳#24:学校嫌いが激しくなり、度々教師に反抗。成績は低下し、定時制に転学、かろうじて卒業した。この時期にノートの詩が最も精力的に書かれた。ノート3冊が父 徹三から三好達治に渡され、三好達治の推薦で『文学界』に「ネロ他五篇」と題された6篇の詩が掲載された。すぐに単行本化が決定。雑誌『詩学』9月号の投稿欄に茨木のり子、友竹辰と共に詩が掲載された。保富康午の詩もあり、彼から手紙をもらってつき合いが始まる。

 

1951年20歳#25:『詩学』の推薦詩人の欄に「山荘だより1・2・3」が掲載。

 

1952年21歳#26:処女詩集『二十億光年の孤独』刊行。夏、幼なじみ の岸田衿子とのつき合いが始まる。ハワード・ホークス監督の西部劇映画『赤い河』を観て、強い印象をもった。以来、西部劇を人間の実存のドラマとして見るようになる。『二十億光年の孤独』を読んでくれた作曲家の湯浅譲二や佐藤慶 次郎、福島和夫などに、慶応病院に入院中の武満徹を紹介されて知り合いとなる。

 

1953年22歳#18:家を出て独身生活を始める。岸田衿子の家に近く、近所には詩人の保富康午もいて、親しくつき合っていた。川崎洋と茨木のり子の 誘いで雑誌『櫂』の同人に参加。第二詩集の『六十二のソネット』刊行。1953年4月から53年8月までの間に書いた100ほどのソネット形式の詩から選んだものである。

 

1954年23歳#19:詩人の鮎川信夫と共に『文章倶楽部』の詩の選評を担当。1956年1月まで続く。岸田衿子と結婚し、谷中の岸田家の持ち家に住む。新居は時に『櫂』の同人の集合場所となり、詩劇などについて活発な議論が交わされた。

 

1955年24歳#20:『大きな栗の木』(作・演出 谷川俊太郎)を文学座で大久保知子が演じた。結婚生活から逃げて、保富康午の家に数日泊めてもらった。岸田と別居して、四畳半のアパートに転居。一人っ子 で銭湯に馴染めず、実家に風呂に入りに帰った。早稲田大学「緑の詩祭」 で寺山修司の戯曲第一作『失われた領分』を見て感心、ちょうどアパートのそば の病院にネフローゼで入院中だった寺山を見舞って親しくなった。ラジオドラマ を書き始めた。退院した寺山とも一緒に書き飛ばしたりした。

 

1956年25歳#21:友人の北川幸比古がはじめた的場書房から写真と詩で構成された『絵本』刊行。写真は自ら撮り、北川と共に手づくり感覚で本を制作し、販売した。岸田衿子と離婚。岸田が肺病で療養中であった富士見高原のサナトリウムを訪れ、離婚届に捺印。仲人の三好達治に結婚の失敗を報告し涙をこぼされた。この年に、憧れの自動車免許証取得。

 

1957年26歳#22:大久保知子と再婚。港区青山の崖下にある四畳半二間の家を借りて住む。外には郵便貯金をはたいて買った質流れのシトロエン2CVが置かれた。初の エッセイ集『愛のパンセ』刊行。『櫂』の同人たちの作品に寺山修司の作品を加え た『羅詩劇作品集』刊行。鎌倉に住む武満徹をよく訪ねては、もっぱらポーカーを楽しんだ。

 

1958年27歳#23:父の借地の片隅に18坪強の玄関のないユニークな小さな家を建てる。

 

1959年28歳#24:『三田文学』主催のシンポジウム「発言」に参加。参加者は浅利慶太、 石原慎太郎、大江健三郎、城山三郎、武満徹、谷川俊太郎、羽仁進、吉田直哉。 日本の「怒れる若者たち」の発言とされた。毎日新聞で大江健三郎らと対談。

 

1960年29歳#25:長男賢作が誕生。三幕喜劇『お芝居はおしまい』を書く。集計用紙に注文内容と締め切りを書き、済むと消していくことをやっていた。メディアの中で注文仕事をこなさないと食べていけないきつさがあり、相当生活に疲れていた。内面も不安定であったように思われる。この頃から子どもの歌と校歌の歌詞を書き始めた。

 

1962年31歳#27:『週刊朝日』に時事風刺詩の連載開始。初の現代詩的な詩集『3』刊行。エッセイ集『アダムとイブの対話』刊行。「月火水木金土日の歌」でレコード大賞作詞賞受賞。

 

41~49歳:#11(霊性、直感) -#2(受容、バランス)

*Challenge Number (あり方)     32~40歳:#1(開拓、新生)

41~49歳:#2(受容、バランス)

*Cycle Number (テーマ)                           32~49歳:#15(成功) -#6(調和)

*Pinnacle Numbers (状況)                       32~40歳:#11(霊性、直感) -#2(受容、バランス)

 

0歳から続いていた2桁のYear Cycleが42歳で終わります。

49歳までこれまでの作詩だけでなく朗読や絵本執筆、翻訳、脚本など新しい世界へも進出していきます。社会的な成功がテーマで、様々な文化や人々に触れ、ものごとの本質への理解を深め、理想と寛容について学んでいきます。長女の留学、母親の介護問題を気に発する夫婦問題など家族の問題に向き合うことや自分の内面的なの調和もテーマとなります。

 

33歳からさらに様々な世界を体験していきます。

映画、絵本の世界へ進出し、36歳(#23)の時に初の訳書「あしながおじさん」を出版。

プライベートでは長女が誕生しました。

絵本、「スイミー」や「ピーナッツ」など翻訳の世界へも進出しました。

新しいことを受け容れ挑戦しながら、世界への進出も果たします。Birth Number#5らしく外国へ行き異文化交流も活発に行なっていきます。人と文化と触れ合うことで、自らの考えが深くなり、気づきやひらめきが研ぎ澄まされていきます。どんどん研ぎ澄まされていく感覚・感性が作品へ反映され、ますます作品に谷川さんらしさが加わっていきます。世界中にファンが増えていきます。

仕事での人間関係拡大、今日まで続く仕事の調和と成功の礎となったCycleでした。

が、一方で48歳(#8)の時、母親が植物状態になり、介護の問題で夫婦不和に陥ります。

 

 

1963年32歳#19:長女志野誕生。リオデジャネイロに謝肉祭を見物に行く。この年に、市川崑、和田夏十夫妻と知り合い、夏十のまっすぐな目の強さが心に残る。

 

1964年33歳#20:東京オリンピックの記録映画制作に脚本家の一人として参加。開会式ではカメラも回した。市川崑監督に助監督にならないかと勧められた。『平凡八)于』創刊。

 

1965年34歳#21:私家版の絵本『しりとり』刊行。さらに、長男賢作の「けん」をタイトルに入れた初の童話『けんはへっちゃら』刊行。子どもを読者とした出版の嚆矢とした。『日本語のおけいこ』と合わせて、子どもに向けての仕事が本格的に開始。また、詩「鳥羽」シリーズの連載を『現代詩手帖」に開始。

 

1966年35歳#22:ジャパン・ソサエティー・フェローとして妻と共に西ヨーロッパ、 アメリカ合衆国へ9ヶ月に渡る長期旅行。ハンブルクでビートルを買い、計1万2000キロを走破。パリの回顧展で初めてフェルメールの絵を観て感銘を受けた。フィラデルフィアではワイエス を観た。フェルメールには陶酔。ワイエスには陶酔できないところにその現代性を感じた。冬にニューヨークでいくつかのポエトリー・リーディング (詩人の自作朗読)を聴き、詩を声で語ることに強い関心を持つように。ニューヨークでは高層アパート27階に住む。画家の元永定正夫妻と上下階の部屋で暮らす。

 

1967年36歳#23:外国旅行より帰る。この長旅は全て休暇と考え、詩は一行も書かなかった。記録映画『京』の脚本を書く。絵本『あおくんときいろちゃん』を見て絵本の概念が一気に広がった。物語的ではない、自分に合った絵本の創作を考え始める。

 

1968年37歳#24:東京日劇でグループサウンズの「新春ウェスタンカーニバル」を観た。 歌詞は聴き取れなかったが、歌い手と聴き手の完璧な交流に感動。

 

1969年38歳#25:レオ・レオニ作の『スイミー』『せかいいちおおきなうち』『フレデリック』が刊行され、絵本の翻訳依頼を積極的に受けるようになる。長女 志野の名前をタイトルに入れた童話『しのはきょろきょろ』刊行。マンガ『ピーナツ・ブックス』の翻訳を開始。大阪万博の政府館やみどり館などの企画・制作に参加。

 

 

1970年39歳#26:招かれてアメリカ国会図書館主催の国際詩祭に参加。詩祭の捧尾を飾って「ビリイ・ザ・キッド」「月のめぐり」「夜のジャズ」「愛・ポール・クレーに」などを45分間に渡って朗読。その詩祭より谷川詩の翻訳者であるハロルド・ライトとその仲間の者たちと過ごしたオハイオ州コロンバスでの経験の方が心に残る。ベトナム 戦争を担う反体制者たちの自然へと帰属しようとする心の動きを感じた。福音館書店の月刊雑誌『母の友』に「私のことばあそび」の連載を開始、ひらがな詩の本格的な試みが始まる。

 

1971年40歳#27:アカデミー・オブ・アメリカン・ポエッツの招待により田村隆一、片桐ユズルらと共にアメリカ各地で詩の朗読旅行。家族とヨーロッパ旅行。『櫂』の同人たちと連詩の創作を開始。

 

1972年41歳#28:初の創作絵本『こっぷ』刊行。ここで認識絵本的な自らの創作絵本のスタイルを見つけた。ミュンヘンオリンピックを観に行き、オムニバス記録映画『時よとまれ君は美しい』の市川崑監督部分の脚本を書く。ミュンヘンでは、野外劇『走れメロス』を公演していた寺山修司と会った。思潮社の小田久郎の依頼で雑誌『現代詩手帖』に詩論「発語の根はどこにあるのか」を書く。さらにこの年「仮に勘と呼ぶ曖昧なものについて」「詩の現場がどこかにあるはずだ」など質の高い刺激的な詩論をいくつか書いた。詩に対する考えを深める年となった。

 

1973年42歳#2:映画『股旅』(市川崑監督)の脚本執筆に参加。雑誌『母の友』に連載した「私のことばあそび」の詩を単行本『ことばあそびうた』として刊行。「時間」をテーマに想を温めていた創作絵本『とき』を制作。『ユリイカ』の臨時増刊「谷川俊太郎による谷川俊太郎の世界」刊行。編集を任され、この企画の目玉の1つとして吉田健一に「近代詩抄」と題する小アンソロジーの選を依頼。

 

1974年43歳#3:将来の移住を考えて、北軽井沢の別荘地内に家を建てた。移住は結局、両親や伯母の介護などで実現せず。渋谷ジァンジァンで、粟津潔や林光などの友人と翌年にかけて9回に渡って続く対談を開始。

 

1975年44歳#4:初の英訳詩集"WITH SILENNCE MY COMPANION"(W・I・エリオッ トと川村和夫訳)をPrescott Street Press から刊行。『定義』と『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』という全く書き方が違う2つの詩群を並行して書き、同時刊行。2つの異なる詩を書く事の評価を知りたいと思っていた。秋 にロイヤルシェイクスピアカンパニーによる2つのアンソロジー「ホロウ・クラウン」と「プレジャー・アンド・リペンタンス」を観た。『マザー・グースのうた1・2・3』の翻訳で日本翻訳文化賞受賞。

 

1976年45歳#5:小室等とLP『いま生きているということ』を制作。絵本『わたし」、『あな』を刊行し、創作絵本制作への意欲を示した。前年の2つの詩集『定義』と『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』に与えられた高見順賞を辞退。

 

1977年46歳#6:街路樹が綿毛を散らすロッテルダムでの「ポエトリー・インターナショナル77」に参加。寛いだ雰囲気の中で異なる言語という壁と共に、それを超えようとする柔軟な試みも感じとった。詩祭の後、パリ在住の堀内誠一と画家の安野光雅と3人でロマネスク建築を見ようとノルマンディ地方をドライブ旅行。パリでは寺山修司にクスクスをご馳走になった。波瀬満子らと「ことばあそびの会」設立に参加。

 

1978年47歳#7:長女 志野がアメリカへ留学。フジテレビ番組「ルーブル美術館」の脚本を書く。波瀬満子の朗読によるLP『ことばとあそぼう』を監修。

 

1979年48歳#8:河合隼雄との対談『魂にメスはいらない』刊行。前年の対談から始まった2人の信頼関係は以後深まっていく。母 多喜子の入院。母はほとんど植物状態となっていて介護の問題が夫婦の仲に影を落とし始める。安野光雅・ 大岡信・松居直との共著で『にほんご』という文部省の学習指導要領に準拠しない小学1年生のための国語教科書を刊行。

1980年49歳#9:駐日イタリア大使館が主催したディナーでレオ・レオニに会う。少年のように若々しく明るかった。カリフォルニアに「スヌーピー」の作者 チャールズ・シュルツを訪問。12月から1981年6月にかけて『スヌー ピー全集』が刊行された。

 

 

 

 

その2に続きます。