©深堀瑞穂

 

 

 谷川 俊太郎(Shuntaro Tanikawa)

1931年12月15日 生まれ

日本の詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家。

東京府東京市杉並区生まれ。

 

Birth Number 14-5

(生まれ持った資質・性格・個性・生きる姿勢や才能・その人の潜在能力・深層意識)

Birth Number 14-5

(生まれ持った資質・性格・個性・生きる姿勢や才能・その人の潜在能力・深層意識)

Soul Number 22-4

(1番大切な価値観、優先したいこと、自分の心の奥底にある魂の欲求)

Personal Number 12-3

(社会的な仮面、他者の目に映るその人の表面的人格)

Realization Number 12-3

(今回の人生での可能性や実現性)

 

PART1からの続きとなります。

History

Cycle Number (テーマ)                             50歳~:#14(自由)#5(変化)

*Pinnacle Numbers (状況)                              50歳~:#8(繁栄)

*Challenge Number (あり方)                   50歳~:#2(受容、バランス)

 

50歳以降は自由と変化がテーマ。浮気、母親と父親の死、二度目の離婚、三度目の結婚・離婚、突然の活動休止、そして沈黙の10年からの活動再開など大きな変化を伴い、そこから学んでいきます。より拡大する人脈と様々な分野の人とのコラボレーション、新たな創作活動などから「変化」と「自由」、特に「本当の自由とは?」について、家族を通じて学びんでいきます。

 

50歳から人生が現実的に成功していきます。

現実では53歳(#4)の時に母が死去。55歳(#6)の時にのちに三人目の妻となる作家・佐野洋子と浮気、ギリシャ旅行へ。58歳(#9)の時に父が死去し、父の死後1ヶ月を契機に二度目の離婚。半年後(59歳#10)に三度目の結婚をするも、65歳の時(#7)に離婚。

 

家族内の慶弔事がたくさんありました。マザコンだった谷川さんは母親の願望に染められ、一夫一妻制を守るためなら浮気も離婚も辞さない覚悟でしたが、それが逆に谷川さん自身を自由から遠ざけていたのでしょう。ご両親の死去や三度の結婚と離婚というような家庭の再生と崩壊という変化はつらく苦しいことも多かったかと思いますが、そこからの学びも大きく、現在の自由な谷川さんにとって必要な課程だったのでしょう。

 

また、谷川さんご自身の中でも変化が起こります。60歳を過ぎて自分を変えるということを考え、詩を書かないと言い出し、活動を休止します。活動休止中の65~68歳(#7#8#9#10)くらいは冷静で親切で気配りもしっかりといういつもの谷川さんではなく、いつも内部をのぞいているような感じだったようです。秩父や戸隠などでよく遊び、遊ぶことと内面と向き合うことでご自身のバランス感覚を磨いていったのでしょう。

 

69歳(#11)、「クレーの天使」刊行。71歳(#13)、短い詩「Minimal」刊行。ここから作詩を本格的に再開しました。

 

 

 

以降の活躍はみなさんもご存じの通りめざましく、講演や朗読、脚本、対談など様々な活動を流れに任せて行っています。

 

現在、9サイクル。本当の自分を生きる自己回帰のサイクル。谷川俊太郎展を皮切りに、これまでの全ての経験を糧に、ますます時流に乗り、86歳になってもなお、たくさんの人と体験を通して学び、アウトプットしていき反映していくことでしょう。いつまでも新しい感性を持ち続ける谷川俊太郎さんのこれからが楽しみでワクワクします!

 

 

1981年50歳#10:長男賢作が結婚。テレビ番組「カラヤンとベルリンフィル」の企画・構成に参加。入院している母の介護から発した問題が夫婦の間に危機をもたらしていた。

 

1982年51歳#11:写真集『SOLO』を刊行。ギャラリー・ワタリでその写真展を開き、会場で病床の母を撮ったビデオ作品『Mozart, Mozart!』を公開。

 

1983年52歳#3:前年の詩集『日々の地図』で読売文学賞受賞。初の子ども向けの詩集『どきん』刊行。寺山修司死去。最期を看取る。弔詩を読む。寺山修司と交わした『ビデオ・レター』完成。演劇集団円のために台本『どんどこどん』を執筆、上演。

 

1984年53歳#4:母 多喜子死去。大岡信との往復書簡『詩と世界の間で』刊行。アメリカ各地で詩の朗読旅行。寺山との「ビデオ・レター』を引き継ぐ形で楠かつのりとビデオ雑誌『いまじん』創刊。日本語の豊かな土壌を求めて試みた引用だけの詩「日本語のカタログ」を収めた同名の詩集を刊行。佐野洋子と再会。

 

1985年54歳#5:福音館書店が始めた学習絵本の新シリーズ「たくさんのふしぎ」の第1冊目を堀内誠一と共に担当。『よしなしうた』刊行、現代詩花椿賞受賞。北欧旅行。ニュー ヨークの国際詩委員会に招かれ、吉増剛造らと朗読旅行。

 

1986年55歳#6:『いつだって今だもん』を演劇集団円が上演。佐野洋子と共にギリシャ旅行。父 徹三とパリ、アムステルダム、バルセロナを旅する。 "COCA-COLA LESSONNS"をPrescott Street Press より刊行。

 

1987年56歳#7:自作ビデオ『NUHS・AV』の市販開始。前年の『いつだって今だもん』 で斎田喬戯曲賞受賞。谷川詩の英訳者でもあるW・I・エリオットや川村和夫らとニューヨークで朗読会。その後、西ベルリンで大岡信らと連詩創作に参加。チューリヒで朗読会。

 

1988年57歳#8:『いちねんせい』刊行、小学館文学賞受賞。演劇集団円が『アノニム』を上演。何年か教師たちの研究合宿に参加してきた成果として、『子どもが生きることばが生きる 詩の授業』刊行。『はだか』刊行、 野間児童文芸賞受賞。『メランコリーの川下り』を思潮社とPrescott Street Pressから日米同時刊行。

 

1989年58歳#9:連詩『ファザーネン通りの縄ばしご』刊行。父 徹三死去。妻 知子と離婚。この年から実際の授業をビデオに撮って、様々な分野の専門家が 批評し合う『シリーズ授業』の研究会が始まり、精勤。教育学者や教師たちと交流を深めていく。

 

 

1990年59歳#10:佐野洋子と結婚。企画の発案者でもある編著『声でたのしむ美しい日本の詩』刊行。朗読者の選定や技術・進行面について協力を惜しまなかった。作家同盟の招きで高良留美子らとロシア、エストニアを旅行。引き続き、フラ ンス、モロッコを旅行。

 

1991年60歳#11:マガジンハウス本社で『女に』の発表朗読会。ホノルルとニューヨークに滞在。国際比較文学会で連詩創作に参加。白石かずこらとイングランド、ウェールズ、スコットランドの各地で朗読と連詩創作。この年に『シリーズ授業』の刊行が始まったが、各巻の討議ではかつての不登校児として、教師の現実と教育制度への厳しい批判を展開した。

 

1992年61歳#12:前年の『女に』で丸山豊記念現代詩賞を受賞。ロッテルダム国際詩祭に参加。ダブリン朗読会に参加。その後、南仏を旅行。

 

1993年62歳#4:エルサレム国際詩祭に参加。ロンドンで詩朗読会に参加。『世間知ラズ』刊行、この詩集で第1回萩原朔太郎賞受賞。チューリッヒ日本祭の一環として大岡信とスイスの詩人たちと連詩。フランスのヴァル ト・ドゥ・マルヌ国際詩ビエンナーレに佐々木幹郎らと参加。

 

1994年63歳#5:バリ島旅行。ネパール観光旅行。トロント国際作家祭に参加。

 

1995年64歳#6:前橋文学館で「谷川俊太郎展」開催。1人でハワイ旅行。初めて戸隠を訪問し、以後地元の人々との交流が深まっていく。『ふたつの夏』刊行。娘 志野に会いにロサンゼルス観光旅行。この旅行からワープロで日記をつけ始めた。

 

1996年65歳#7:朝日賞受賞。親友 武満徹が死去。長男賢作のバンドDiva の演奏・歌唱活動と共に詩の朗読を行う。以後、DiVa と共に積極的に朗読活動を継続していく。詩作については、なるべく書かないという方針をしばらく続ける。ニューカレドニアに観光旅行。佐野洋子と離婚。秩父を訪れて、ログハウスの改修やツリーハウスの建築を手伝うようになる。カトマンズで佐々木幹郎とともに地元の詩人たちと朗読会。

 

 

1997年66歳#8:オーストラリア西部のバースへ旅行。河合隼雄が新築した研究所を見に京都旅行。河合隼雄が長瀬のログハウスに泊まりに来て一緒に荒 川河畔で小音楽会を開いた。Diva と共に九州、関西、北海道でコン サートツアー。

 

1998年67歳#9:DiVa とアメリカ東海岸でコンサートツアーとレコーディング。ホームステイが面白かった。シドニー作家祭に参加。上海、蘇州、北京を旅行。ロンドン国際詩祭、アルダバラ詩祭に参加。英語版の選詩集でイギリスのSasakawa 財団翻訳賞受賞。リング上で自作詩と即興詩の朗読を競い合う「詩のボクシング」で初代チャンピオンのねじめ正一を下して、2代目チャンピオンとなる。

 

1999年68歳#10:初めてのインド旅行。運命を生きている人々の姿に感慨。田原の案で藩陽、北京、重慶、昆明、上海など中国各地を巡り、詩人たちと交流。日中詩の交流に努めた。河合隼雄とピアニストの河野美砂子と共に戸隠で第1回「お話と朗読と音楽の夕べ」を開催。毎年楽しみにするイベントとなって河合が倒れる2006年まで8回続いた。

 

2000年69歳#11:東京でダライ・ラマの講演を聴く。活字では絶対に伝わることのないものがあると感じる。デンマーク語訳選詩集の刊行を機として、コペンハーゲン 朗読。翻訳者スザンヌの父であるアスガー・ヨーンの絵をユトランド半島 ケボーという町で見る。マルメ国際詩祭に参加。大岡信、高橋順子らとロッテルダ ムでの日蘭連詩発表に参加。

 

2001年70歳#12:大連、北京、上海で中国の詩人たちと交流。蘇州の道教の寺ではとびきり運勢のいいおみくじを引いた。アメリカ旅行。タングルウッド音楽祭を訪れる。日本の詩全体の見取り図を書いた『詩ってなんだろう』刊行。

 

2002年71歳#13:『詩集 谷川俊太郎』刊行。『谷川俊太郎詩集』『谷川俊太郎詩集 続』に続く、6つの詩集を集めた思潮社からの3冊目の全集的な選「詩集」。南アフリカのダーバンで行われた「ポエトリー・ アフリカ」に参加。田原訳の『谷川俊太郎詩選』を中国の作家出版社より刊行。北京大学で開かれた「谷川俊太郎詩歌シンポジウム」に参加。その後、昆明、上海などの各地の詩人たちと交流。『minimal』刊行。この少ないことばの詩群から、詩作が本格的に再開された。大岡信らと静岡連詩に参加。

 

2003年72歳#5:国際交流基金の招きで、賢作とともにケルン、ベルリン、リガ、パリで朗読演奏旅行。池袋ジュンク堂で「谷川俊太郎書店」のコーナーを設け、店長を務める。

2004年73歳#6:2冊目の中国語版『谷川俊太郎詩選』を河北教育出版社より刊行。この年「信じる」が松下耕作作曲の合唱曲となり、NHK全国学校音楽コンクールの中学校の部の課題曲となった。

 

2005年74歳#7:中国において、2002年刊の『谷川俊太郎詩選』で3世紀鼎釣双年文学賞受賞。北京で行われた授賞式に出席。コロンビアのメデジンで の国際詩祭に参加。

2006年75歳#8:太田大八との対談が始まり、12月刊の『詩人と絵描き』にまとまる。この本が機縁となって『詩人の墓』も刊行。戸隠で第8回「お話と朗読と音楽の夕べ」開催。これが最後の会になる。河合隼雄、脳梗塞で倒れ意識不明に。

2007年76歳#9:河合隼雄死去。戸隠で「河合隼雄さんを偲ぶ会」を開催。弔詩「来 てくれる河合隼雄さんに」を朗読。『私』刊行。

 

 

 

 

2008年77歳#10:覚和歌子との共同脚本・監督の写真映画『ヤーチャイカ』上映。前年刊行の『私』が詩歌文学館賞受賞。国際アンデルセン賞に日本からノミネート。

2009年78歳#11:雑誌『Coyote』の特集のためにアラスカを7日間旅する。『子どもたちの遺言』では平易なことばを生かした語りかける詩の表現に、また『トロムソコラー ジュ」では長編と物語性というこれまでにはなかった詩の表現方法に新境地を感じさせた。

2010年79歳#12:写真映画『ヤーチャイカ』DVD発売。『トロムソコラージュ』で第1回鮎川信夫賞受賞。「いのち」が鈴木輝昭作曲の合唱曲となり、NHK全国学校音楽コンクールの高校の部の課題曲となる。

 

2011年80歳#13:詩を釣る携帯アプリ『谷川』リリース。

2012年81歳#14:郵便で詩を送る「ポエメール」スタート。「谷川俊太郎.com」開設。

2014年83歳#7:ドキュメンタリー映画『谷川さん、詩をひとつ作ってください。』出演。

2018年86歳#10:「広辞苑」第7版の刊行にあたり、「広辞苑大学」の講師として登壇。谷川俊太郎展を開催。

 

 

 

 

** リーディングを終えて **

リーディングする方を決めかねて悩んでいた頃、自宅の片付けをしていたら、以前、当選した谷川俊太郎さんのサイン入りTシャツがでてきました。そのすぐ後に、キャンセル待ちしていた谷川さんの講演会に行けることになり、谷川さんの数字を出してみました。出してみてびっくり。コアナンバーが似ているだけでなく、谷川さんのサイクル表と私のサイクル表の数字が全く同じでした。これは谷川さん以外に考えられないと思い、卒業レポートに谷川さんを選びました。

谷川さんは本当に驚くほど、冒険と挑戦の方で、出版ペースも他の仕事のペースもハイペース。人ともたくさん交流され、様々なところで出かけています。家庭も人生も順風満帆というよりは波瀾万丈。それでも全ての経験から様々なことを学び、自分の一部となり、現在につながっています。

 

私の人生も波瀾万丈で、いろんな事に手を出し、様々な人たちと交流してきました。そのことに少なからず疑問に感じたり、よかったのだろうか、一体何をしていたのだろうかと後悔したり、しながら今まで過ごしてきました。今回、谷川さんをリーディングして、私のそれらの経験も全て学びがあり、一見無駄に思えることも全てこれからにつながっていくのだと思うようになり、徐々に確信が深まってきました。私は私の道を生きていけばよいのだと思いますし、これまでの私のしてきたことにおかしさと共に愛おしさも感じています。

 

苦しいことも悲しいことも笑えることも全て生きているからこそ経験できることです。私はこれからもたくさんの経験と体感を味わっていくと思いますし、いきたいとも思います。私自身のこれからが楽しみになりました。また、谷川俊太郎さんのことがますます好きになりましたし、谷川さんのこれからもどうなっていくのか楽しみです。

 

谷川さんのリーディングを通して、私自身のこれまでとこれからの生き方を見直すことができました。どうもありがとうございました。

 

Reported by 

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