ザスタのクマさん -5ページ目

ザスタのクマさん

あらゆるアート、デザイン、 特に写真が大好きなクマこと熊谷の作品集。

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晩夏の光は、行かなかった海まで
美しく思い出させるから不思議ですね。

潮騒を着る午後

晩夏の午後である。空はまだ明るい。
ただその明るさは、もはや真昼のものではなく、
一日の終りをうすく知っている色で、

夏は音もなく障子の桟の影のように痩せてしまった。
舗道の熱はやわらぎ、風には、ついこの間までの湿った
奔放さがなく、どこか乾いた指先の様な物が混じり始めている。

僕はふと今年とうとう海を見に行かなかったことを、
古い手紙の返事を書きそこねたような気持で思い出していた。






土用波が来るとか、盆を過ぎればクラゲが増えるとか、
人はもっともらしい季節の言い訳を口にする。

その言い訳の襞に身を寄せているうち、
夏はするりと掌をぬけていった。

気がつけば、海はもう現実の行先ではなく、
記憶と歌の中にだけ開ける遠景になっていた。

そんな時、島崎藤村のあの歌が、胸の奥でふと鳴る。特に三番の、
「椰子の実を胸にあて、漂泊の憂いが新しく身にしみる」あたりは、
ただ懐かしいというだけではない。遠い浜から来たものに、
自分の行きそびれた夏、自分の帰りそびれた何かまで託してしまう。





あのほのかな痛みがある。歌とは不思議なもので、
ひとつの午後を異郷に変え、見慣れた街路樹の影さえ、
波に洗われる旅の岸辺にしてしまう。

もし叶うなら僕はこの午後、
ハワイの浜辺をあてもなく歩きたい。

椰子の葉の影が白い砂にゆれ、
素足で夕映への波打ち際を歩く
鼻歌はなんと、古い日本の歌である。

その取り合わせの少しちぐはぐな
ところにこそ、旅情は宿るのではないだろうか。







遠い南の海と、文語のひびきと、海に行けなかった
今年の僕とが、ひととき胸の内で静かに触れあう。

そのかすかな波立ちが、夏の名残よりもいっそう
切実に、旅というものの正体を知らせる。

海を見に行けなかった夏も、失われてはいない。
行かなかった浜辺のぶんまで、
心だけが潮の匂いを探している。

ただ一つの歌と、午後の光と、まだ見ぬ浜辺の
想像があれば、季節は遅れてちゃんとこちらへ。

僕は西麻布の事務所でそう信じながら、
窓辺に寄る。遠い島から来た椰子の実のように、

遅れて届く思いもまた、静かな漂泊で、ひとつの旅情なのだ。






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夏の終わりの酒には、陽気さよりも、
胸の底に沈んでいたものをそっと
浮かび上がらせる力がありますね。

八月二十四日を愛酒の日と呼ぶそうである。
酒を愛した歌人若山牧水の誕生日にちなむという。
牧水は明治十八年八月二十四日に生まれ、
酒を友とし、旅を友とし、また寂しさを
友とした人であったらしい。
そう思うと、この記念日はただ盃を重ねて
興を競う日のようには思われぬ。

むしろ一滴の酒のうちに、
人の胸の底へ沈んだものを
そっと映してみる日のようである。






夏の末の空には、言いようのない白さが残っている。
入道雲はもう勢いを失ったはずなのに、
昼の熱だけはなお地上に居残って、庭の草も、
軒の影も、どこか疲れたように見える。

こういう夕べ、ふと硝子の杯を手に取ると、
酒は舌の上で燃えるのでなく、胸の奥の静かな
場所へ落ちてゆく。人は酔うために飲むのではない。
忘れるためでもない。忘れたと思っていたものの輪郭を、
かえって薄明かりのうちに見出すために飲むのである。







遠い日の声、去っていった人の背、言葉にならなかった悔い、
そういうものは昼の光の下では姿を見せぬ。
だが、夜気がわずかに庭木を鳴らし、盃のふちに口を
寄せるころになると、胸の底の沈黙がかすかに目をさます。

その沈黙は悲しみというほど重くはなく、
歓びというにはあまりに淡い。ただ人がひとりで
生きていることの、どうにもならぬ余情である。
酒はその余情に名をつけず、ただ寄り添う。

愛酒の日とは、酔態を誇る日のことではあるまい。
一杯の向こうに漂う、記憶と寂寥とを、
静かに味わう日のことであろう。

夏の果てにこそ、人はようやく心の微かな物音を聴く。
その物音に、酒はまことによく似合うのである。




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昨夜のヒルズ・10番の熱気は、ただ暑いだけではなく、
街そのものが巨大な夢を見ているようしたね。

群衆天国地獄涼月夜行
(六本人音頭と十番の汗にまぎれて老いの影を見たる事)

夜の六本木ヒルズは、もはや街ではなかった。
熱を孕んだ巨大な器であった。

ヒルズでは2026年8月21日から23日まで盆踊りが催され、
やぐらを囲んで人々は「六本人音頭」に身をゆだね、
また「楽劇 六本木楽」も披かれている。



2025度



麻布十番納涼まつりも22日と23日の開催で、
下町の情と異国の匂いとが、狭い路地の間で溶け合ってる。
どちらもたしかに同じ東京の夜でありながら、
片やステンレスと硝子と光の楼閣、
片や人いきれを湛えた古い軒先で、
まるで二つの夢が隣り合っているようである。




写真はイメージ



私は帰宅の途上、ただ通り過ぎるつもりで
その縁に触れたにすぎぬ。だが祭りというものは、
こちらの分別など容易に押し流す。

提灯の色は汗に滲み、屋台の煙は
記憶の襞にまとわりつき、四方から
押し寄せる人波は、もはや群衆というより
ひとつの巨大な生き物の呼吸であった。

外国の言葉も江戸の名残も、笑い声の中では
皆おなじ調子に溶け、十番とはかくも雑多なる物を
一夜のうちに祝祭へ仕立てる都であったかと、
今さらのように思わされた。




写真はイメージ



しかし年を経るとは、歓楽を拒むことではなく、
その代価を先に身体が計算することかもしれない。

若い人々にはこの混雑もまた天国の門に似て
見えようが、こちらには熱気さえ少々過剰で、
立ち止まるたびに魂まで蒸される心地がした。

それでも、きつい、もう十分だと思いながら、
なお目を離しがたかったのは、祭りの中心に
あるものが快楽ではなく、儚さであるからだ。

今夜かぎりの灯、今夜かぎりの群れ、
そして過ぎればただの路地の舗道へ戻る道。

人はその消えやすさを惜しんで、哀れを知り、
あれほどまでに集まるのかもしれない。

祭りとは、晩夏の夜が夢みるそれは、
束の間の壮麗な虚構なのである。






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「真珠の耳飾りの少女」「青いターバンの少女」
14年ぶりに海を渡って来た少女、
大阪中之島美術館の静かな灯の下に掛けられた
その顔は、昔と少しも変わらぬようでいて、
見る者の歳月ばかりをあらわにする。

フェルメールの筆は、ひとの頬に触れる光を
留めながら、時のほうを絵の外へ追いやったらしい。

ゆえに老いるのはいつも鑑賞者であり、
絵はつねに遅れて来た青春のように、
こちらを振り向いている。







前回2012年の来日に重ねて、その姿を模倣した。
青の布を巻き、真珠めいたひかりを垂らし、
口もとに言いかけてやめた言葉の気配を置く。

けれども、出来上がった写真を前にすると、
模したはずの名画よりも、むしろこちらの方が
少女であるという、少し可笑しく、少し淋しい
事実に気づかされる。絵の中の人は完成されているが、
写真の中の私は未完成のまま残っていた。






とりわけ目から下である。眼差しは借りる事が出来ても、
頬の張り、口元のあどけなさ、顎に宿るためらいは、
どうも絵の少女より私のほうに多く残っている。

人は年を重ねるごとに幼さを失うとは限らず、
むしろ別の場所へ押し下げて隠し持つものかもしれぬ。
眼は経験を帯びても、口元にはなお言い尽くされぬ
若さが残る。そこに写真の不思議がある。

絵より少女らしいといふ可笑しみは、
勝利ではない。古典の前に立つ者がひと時与へられる、
淡い錯覚にすぎぬ。されどその錯覚のうちに、
人はまだ失はれぬ何ものかを見出す。
麗とは、似せることの果てに露はれる相違のことである。





展覧会より私にはその一枚をまねた午後の、
わずかに乾いた光のほうが切実であった。

名画は完成している。だが再現する者は
未完成のまま写る。その未完成こそが、
私の側の大事な告白であった。

かすかな笑みと見えるものは、たぶん微笑ではない。
言いかけて、やめた言葉の名残である。

フェルメールの少女がそうであるように、
私の写真にもまた、言葉にならなかった
内心だけが、薄い真珠のように残った。

私はその一枚の中で、絵の少女を借りながら、
ようやく自分の沈黙を写したのである。






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献血したことある?


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黄の血を越えて

八月二十一日という日付には、
夏の光だけではない、うすい翳りが
宿っている。人のいのちを救うはずの
血が、かつては貧しさの色を帯びて
売り買いされ、黄ばんだ時代があった。

昭和三十九年八月二十一日、日本政府は
輸血用血液を献血で確保すると閣議決定した。

そこへ至るまでには、同年三月の
ライシャワー駐日米大使の輸血後肝炎、
学生たちの黄色い血を退けようとする声、
そして報道の灯が重なっていた。

毎年八月二十一日が献血の日とされるのは、
その転換を忘れぬためである。







血とは不思議な物で、身体の奥を流れながら、
時に社会の倫理まで映してしまう。

売られる血には生活の窮迫がにじみ、
差し出される血には見知らぬ
他者への静かな信が宿る。

献血とは、声高な善意ではなく、
名も告げず手渡す小さな連帯なのだろう。

針の先に託されるのは、赤い液ではない。
まだ会ったことのない誰かが、

明日を失わずにすむようにという、
人間の控えめな祈りである。


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モネマネ。

模したのはモネの一枚である。
1886年、クロード・モネ四十五歳の頃に
描かれた、あの2枚目の『日傘の女』である。
そこにいるのはカミーユではなく、
後に妻となるアリスの娘シュザンヌだとされてる。

しかもその顔は、先のカミーユの像ほど明らかではない。
輪郭は風にほどけ、表情は光の中へ逃げている。

モネは人物を描いたのか、追憶を描いたのか。





モネは一人の少女を描きながら、
実はもう戻らぬ誰かを見ていた。
そう思うと、絵画とは姿を写すものではなく、
喪失の余白を残すもののように思われくる。

次が私の作品。

スタジオの床にひろげた緑は、ほんとうの野ではない。
けれど灯りがひとたび射せば、葉は風の記憶を持ち、
布は空の気配を帯びる。

私はそこに立ち、モネのまねをしたというより、
むしろモネが追った一瞬の息づかいを、
写真の器に移そうとしたのである。










モデルは日傘をさして立った。が、
その姿は立つというより、むしろ淡い季節の中へ
置かれたと言う方が近い。白のひだはひそかに明るみ、
傘の影は頬にほのかな翳を添え、こちらの眼には
一人の女というより、夏の日の記憶そのものだ。

私はレンズを覗きながら、眼前の作りものである草原が、
いつか本ものの感傷へ変わってゆくのを感じた。

写真とは奇妙なものである。偽の草も、計られた光も、
ひとたび沈黙の中に収まれば、容易に真実の顔をする。
この一枚にも、作為の奥にだけ宿る自然があった。

女を撮るというより、女のまわりに
漂う束の間の季節を、そっと留めたかったのである。

シャッターの一瞬には、他人の記憶と私の姿とが、
ひそかに同じ風の中へ立っていた。


残暑中、お見舞い申し上げます雪の結晶





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今の気持ちを俳句で綴ってみよう!


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今日は俳句の日。著名ない一句を紹介します。
松尾芭蕉の詠んだ句『閑さや岩にしみ入る蝉の声』

石段を踏むたび、歳月は足裏からかすかに鳴った。
十数年ほど前に訪ねた山寺は、宝珠山立石寺という
厳めしい正式の名を持ちながら、私の記憶の中では
ただ簡潔に、山の静けさそのものとして在る。

貞観二年に慈覚大師円仁が開いた古刹であり、
のちに芭蕉が曾良を伴って立ち寄り、

あの一句を置いていった寺である。
今なお人はその句を知識としてではなく、
耳の底の体験として思い出す。





堂は岩に凭れ、岩は木々の影をまとい、
木々はまた風の気配だけを通していた。
華やかさはない。けれども、華やかならぬもの
だけが持つ峻厳な美しさが、そこにはあった。

人の声さえ遠のく高みで、
ふいに蝉の声が降ってくると、

それは耳に届くより先に、あたり一面の
黙へ吸いこまれてゆくようであった。

芭蕉の句は自然を写したというより、
沈黙が音を呑みこむ、
その一瞬の深さを掬ったのであろう。






旅とは景色を見ることではなく、景色に
こちらの心を見透かされることかもしれぬ。

あの日の私もまた、石と蝉と青葉のあいだで、
言葉になる前の思いをしばらく預けていた。

いま写真をひらくと、写っているのは
堂塔や山肌であるのに、本当にに立ちのぼるのは、

あの時、確かに
身のうちへしみ入った静けさなのである。





詳細 立石寺
住所/山形県山形市山寺4456-1
TEL/023-695-2843
アクセス/山形駅より自動車で30分、JR仙山線で20分

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好きなごはんのお供は?


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今日は米の日だという。
米という字を割れば八十八になるなどという話は、
いかにも誰かのこしらえた由来めいていながら、
それでも白い飯の湯気を前にすると、
妙にもっともらしく思われてくる。

実際、よい米は炊いている時からもう違う。
まだ口に入れぬ先に、香りだけでこちらの
心を古い家へ連れ戻してしまう。








私は飯の友なら佃煮がいちばん好きだ。
あの黒く小さく、いかにも地味なものが、
白い飯の上にのると急に威厳を帯びる。

若い人はあまり食べぬ、と人は言う。
たしかに佃煮には流行の匂いがない。
洒落た皿よりも、少し欠けた小鉢のほうが似合う。

祖母の家で、黙って差し出される
朝の膳に、そういうものはよくあった。



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けれども私は思う。佃煮が古いのではない。
古い記憶を連れてくるから、古く見えるだけだ。

甘辛い味は保存の知恵であると同時に、
暮しの時間そのものでもある。

湯気の立つ飯に箸を入れ、
少しの佃煮で一椀を食べる。

その慎ましさの中に、
日本の食卓の叙情は、いまもまだ静かに残っている。



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パイン入りの酢豚はあり?なし?


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八月十七日、酢豚の皿に灯る南の火

八月十七日。暦のうえではただの一日でも、
台所にひとつパイナップルが置かれるだけで、
そこへ小さな祝日が生まれる。

株式会社ドールが「パイナップルの日」とは、
「パ 8、イ 1、ナ 7」の軽やかな語呂に、
この果実の陽気な美味しさを託したかったからだ。

日本記念日協会にも認定されたその名は、
どこか玩具めいて愛らしい。けれど、
包丁を入れた瞬間に立つ香りは、

子どもの語呂合わせではすまない、
もっと成熟した夏の気配である。






黄色い果肉は、甘いだけではない。
舌に触れれば酸味がひそやかに追い、
南国の陽ざしの奥に、一筋の影を覗かせる。
その明暗が、ことさらに肉とよく似合う。

パイナップルにはたんぱく質を分ける
酵素があり、生のまま肉に寄り添わせると、
繊維をゆるめてやわらかくするという。

だから酢豚にそれがあるのは、
気まぐれでも悪戯でもない。
理にかなった、しかもどこか詩的な出会いなのだ。

甘酢の照りのなかで豚は丸くほどけ、
果肉は肉の重さをすこしだけ空へ返す。









世の中には、酢豚のパインを疑う人がいる。
その気持ちもわかる。だが私は、あの
唐突な金色をむしろ愛したい。

茶や黒のあいだに置かれた黄は、
一皿の景色を急に遠くまで連れてゆく。
食卓とは、ときに異国への最短距離である。

暑さに倦んだ夕べ、ひと口の酸味が胸の
内側を洗い、甘みがそのあとへ静かに残る。

あれは料理というより、
去りぎわの夏が置いていく短い手紙なのかもしれない。


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あなたが健康を願う人はだれ?


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今日夏の京都の夜空を飾る「京都五山送り火」は、祇園祭とともに夏の京都を代表するイベントではないでしょうか。午後8時に点火され、炎で大文字、妙・法、船形、左大文字、鳥居形、の5つの形が次々に浮かび上がります。東から西に向かって次々に点火される送り火は約1時間静かに燃え続け、京都市内は幻想的な雰囲気に包まれます。

夏の尽きぎわには、にぎわいよりも、
去ってゆくものの気配のほうが深く身にしみますよね。

冥灯抄

暮色が京都の空を薄い墨で塗りつぶす頃、
五山のいただきには、まだ火の気もない
静かな闇が伏していた。

町は昼の熱を失いかけながら、
なお皮膚の奥に微熱を宿している。

盆の果てとは、かくもあえかなものかと私は思う。
つい昨日まで此岸へ近々と寄っていたものが、

今夜はふたたび彼岸へ退いてゆく。
その境のしるしとして、山は炎の文字をひらくのである。



京都市観光協会(DMO KYOTO)提供



やがて一点の火が生まれる。
それは花の蕊のように柔らかくはなく、
むしろ刃の先にともる金の冷光に似ていた。

闇は深い。だが深ければ深いほど、
火は妖しく冴える。黒々とした山の肌に、
大の字は血を持たぬ巨人の骨格のように浮かび、
またたくあいだ、都の夜を支配する。

光は祝祭であるより、むしろ死者への最後の
寵愛であった。暗黒の乳房に唇を寄せるように、
炎は山肌へしどけなく吸いつき、
燃えながら、消滅の美を誇っていた。



京都市観光協会(DMO KYOTO)提供



夏は蝉声とともに去るのではない。
かかる燦然たる滅びを一夜に掲げ、
灰の匂いを残して去るのである。

人はその下で黙し、ただ眼の底に赤い残像を抱く。
その残像こそ、おそらくは季節の遺書である。

五山の送り火とは、光が闇に勝つ儀ではない。
光が闇へ身を投げ、しかもなお高貴であるのを
示す、痛ましくも艶なる別離の式なのである。

夏が終わるとは、光が秋の闇に呑まれながら、
はじめてその鮮烈を知ることにほかならぬ。




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