ザスタのクマさん -2ページ目

ザスタのクマさん

あらゆるアート、デザイン、 特に写真が大好きなクマこと熊谷の作品集。

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敬老の日、感謝の気持ち伝えた?


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今日は敬老の日。
2003年からハッピーマンデー制度(国民の祝日の一部を従来の固定日から
月曜日に移動することで、土日と繋げて3連休を作り、レジャーなどの促進による
経済効果を促進する制度)の施行により、9月第3月曜日に変更となっています。


老年とは、あたかも山に登るに似ている。
一歩を進むごとに、息はしだいに薄くなり、
膝には言いようのない重さが加わる。

若き日のように、軽やかに谷を越え、
岩を踏むことはもはやかなわぬ。

しかも、頂へ近づくほど、
道はいよいよ険しく、風は肌に冷たい。




トーハクにて撮影


だが、そのかわりであろう。高く登った者の目には、
低きにある者の知らぬ眺めがひらけて来る。

麓にいた日には、ただ目の前の草木に
さえぎられていたものが、今は遠い村の煙も、
川の曲がりも、夕空の果ても、

ひとつの静かな景として見えて来る。

人の生もまた同じである。
老いはたしかに肉体を衰えさせる。

だがその衰えのうちに、
かえって歳月のみが与える
広やかな視野が宿るのである。


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今日が良い日となり、

明日がさらに素晴らしい日となりますように晴れ。

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撮影 文  熊谷


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あなたが思う理想の世界は?


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9月21日は「国際平和デー」です。国連は、1981年に、すべての国、
すべての人々にとって共通の理想である国際平和を推進していく日として、
「国際平和デー」を宣言、2002年には国連総会において毎年9月21日を国際平和デーと
することが定められました。以後、停戦と非暴力の日として、この日一日は
すべての国と人々に、敵対行為を停止するよう働きかけています。

そして今日は映画 『ヒンド・ラジャブの声』
9/14日フォローしてるダイヤモンド次郎さんのブログでも
取り上げられていて、とても心に刺さりました。


胸の痛む映画の題材と、軽々しく先端技術を称揚する
高市政権の言葉は、とても同じ時代のものとは思えません。






『ヒンド・ラジャブの声』が突きつけるのは、
国家の暴力に踏み潰される子どもの命の重さだ。
2024年1月29日にガザで助けを求めた
6歳の少女ヒンド・ラジャブの実話をもとに
したこの映画は、その叫びを世界がどう見捨てたかを
描く作品として今!日本でも公開されている。




イスラエルに虐殺された7人家族の車、
救助に向かった2名の救急隊員も殺される。




その直後に重なるのが、小野寺五典氏と
ベンヤミン・ネタニヤフ首相の握手である。

もし小野寺氏が、イスラエルのミサイル防衛や
サイバー、ドローン技術は日本の安全保障政策の
検討に役立つと語ったのだとすれば、それはあまりに冷酷だ。

子どもの悲鳴がまだ世界に残響している最中に、
そこで蓄積された軍事技術を「先端技術」として見学し、
学ぶ価値として持ち帰るのなら、それは安全保障の
研究ではなく、虐殺の実地研修に見える。





AFP通信より



ヒンドの声に耳を傾ける映画と、加害の中心にいる
権力者と笑顔で手を交わす日本の政治家。

この落差は、外交の現実などという
便利な言葉では埋まらない。

命を奪う側の成果を称賛しながら、
奪われた命に哀悼だけを口にするのは、
二重基準ですらない。単なる加担の言い換えだ。





ロイターより





日本の安保3文書改定を念頭にイスラエルを
参考にするという発想そのものが危うい。

そこで学ばれているのが抑止ではなく、
監視、無人化、遠隔攻撃、そして市民の犠牲を
切り捨てる戦争の効率化だからだ。

技術は中立ではない。どんな思想と現場で
磨かれたかまで含めて評価されるべきだ。

ガザの瓦礫と子どもの絶叫を背景に鍛えられた
技術を、日本の未来の手本のように語るなら、
その握手は外交写真ではない。

血の温度を失った政治の記念写真である。








胸の痛む映画の題材、子どもの最期の声を
告発として受け取るべき時に、

軽々しく先端技術を称揚する高市政権の言葉は。
とても同じ時代のものとは思えません。
その冷たさこそ、いま人道の元に最も批判されるべきだ。









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青空と夕空、どちらに惹かれる?


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我が国の航空は、昭和27年(1952年)の民間航空再開以来半世紀の間に目覚ましい発展を遂げ、

民間航空再開40周年にあたる平成4年(1992年)、より多くの皆様に航空に対するご理解と関心を高めていただくとの趣旨により、9月20日に「空の日」、
9月20日~30日に「空の旬間」が設けられました。

空は地に近かった
雨上がりの空を眺めていると、
雲の動きがいつもより生き生きして見えます。

旅の空を言葉に掬いたい時は、景色そのものより、
胸に残った気配を書くとぐっと深くなります。

空の低い国で

初秋であった。
オーストリアのザルツカンマーグートを、
列車はしずかに走っていた。

雨はたった今あがったばかりで、
窓の外には洗われた草原や、まだ水気を失わぬ森や、
鈍い銀色をした湖が、一続きの夢のように広がっていた。





その時、私の眼をいちばん深く捉えたのは、
山でも湖でもなかった。空である。

その土地は高原のせいであろうか、
空がひどく大地に近かった。
見上げるというよりも、空のほうから野や村へ、
そっと身を寄せて来ているように思われた。

雲は遠い天上のものではなく、
草の匂いのする地上のつづきとして、

峰のあたりから絶えず湧き、
流れ、また重なった。私はそのさまを、
ただ珍しいと云うだけでは済まされぬ心で眺めていた。








光はすでに衰えかけていた。空は晴天の青でもなければ、
華やかな夕焼でもない。ただ淡く、ひややかで、
静かな明るさを残しているばかりであった。

しかもその静けさの中に、雲だけが
生きもののように次々とあらわれる。









後から後から、どこにそれほどの源がある
のかと思うほど、尽きずに湧き出して来る。

その白さも灰色も、決して派手ではない。
けれども、衰えた光を吸い込みながら、
かえって深い陰影を帯び、名も知らぬ
思いを人の胸に落として行くのであった。










私はその車窓に凭れながら、空の美しさは、
青空と夕空にのみ属するものではないと知った。

晴れきった色も、燃えるような茜も確かに心を奪う。
だが、雨上がりの冷えた大気の中で、低く垂れ、
絶えず形を変え、黙って地上に寄り添う空にも、
また別の、もっとひそかな魅力がある。

世界中の空は、それぞれに
その土地の息をしている。

そうして人は旅のさなかに、
ふいに自分の知らない空へ出会う。

だから、今でも記憶の中では、
ザルツカンマーグート大地の
すぐ上に雲が生まれつづけているのだ。







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高市改造内閣の顔ぶれを見て、
政権が人を選ぶというのは、単に数を並べることではない。
何を重んじ、何を切り捨てるかを国民に示す、
政治の最も露骨な文章である。その文章が、
今回はあまりに濁っている。



毎日新聞より


報道では、有罪確定者中司氏の閣僚起用が29年
ぶりの前例とされ、簗氏は2018〜22年の
不記載額が1746万円で2024年に「役職停止6カ月」、
関氏は836万円で「戒告」の処分を受けました。
岸田、石破両政権は関係議員の政府役職への
登用を見送ってきましたが、

高市政権は発足時に副大臣・政務官で
7人を起用し、今回は閣僚の壁も越えた形です。
これを選挙を二回経たからよしとするなら、
選挙とは禊の儀式にすぎないことになる。






だが本来、選挙は免罪符ではない。民意は白紙委任ではなく、
政治家の倫理を自動洗浄する装置でもない。

にもかかわらず、この内閣から漂うのは、説明責任を
果たした者を登用するという筋はなく、

さらに民主党の裏切り者「外様」細野氏重用に透ける 
使える駒はなんでも利用するというこずるい便宜の思想である。






政治の劣化とは、能力の不足以上に、
恥を恥と感じなくなることだ。

もし政権がこの人事で信頼を
回復できると思っているなら、

それは国民感情への鈍感ではなく、
すでに感覚そのものの摩耗である。

強い政権を装うことはできても、傷んだ
判断を気迫で立派に見せることはできない。





いま問われているのは誰を守ったかではなく、
何を壊したかである。壊されたのは、
おそらく統治の体面ではない。

もっと根の深い、政治は最低限の節度で
動くはずだという国民の期待そのものだ。











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つい長電話しちゃう相手は?


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初秋のけだるさには、するりと
喉を落ちる蕎麦の気配が、
たしかに似合いますよね。
初秋である。夏の名残はまだ障子の桟に
薄く貼りついてゐるが、朝夕の風ばかりは、
どこか知らぬ顔をして、すでに秋の側へ
歩み去つたやうである。

かういふ頃、人はふと食欲を失ふ。
昨日まで恋しかつた油気も、今日はただ重たく、
箸の先にさへ倦怠が宿る。

さうして心ばかりが、何か淡く、
冷たく、清らかなものを欲しがる。

その時、蕎麦である。白磁の小鉢に、つるりと
小分けにされた細身の蕎麦が、いかにも控へめに、
しかし確かな慰めを湛へてゐる。

大仰ではない。むしろ、足りるか足りぬかほどがよい。
人の弱つた胃の腑には、盛大な一山よりも、
慎ましいひと掬ひの方がやさしいのである。






薬味に刻み葱を少し、山葵をほんの涙ほど添へる。
つゆは濃からず薄からず、蕎麦の香を損なはぬほどに浸し、
口へ運べば、秋の水のやうな涼しさが舌に触れる。

噛むほどに、畑の匂ひとも、山の影とも
つかぬ、あのかすかな実直の香がひろがる。

豪奢ではないが、ここには疲れた身を
立て直すだけの、ひそかな力がある。

人は弱ると、却つて簡素なものに救はれる。
蕎麦とはさういふ食べ物かも知れぬ。

夏を越えて少しくくたびれた心身に、
黙して寄り添ふ、細く静かな一筋である。



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かいわれ大根の美味しい食べ方は?


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最近かわいいと思った瞬間は?


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作詞家・作曲家・プロデューサーの中村泰士(なかむら たいじ、1939~2020年)氏が制定。
日付は「キュー(9)ト(10)な(7)」と読む語呂合わせから。

中村氏は「キュートな大人」「粋な大人」「いつまでも若々しさを失わない愛すべき大人」を「キュートナー」と呼ぶことを提唱していた。

『微笑の惜景モナリザ』

今日はキュートな日・キュートナーの日と呼ぶらしい。
なるほど、可愛らしさというものは、花の色や菓子の
甘さのように、ただ目に見えるだけのものではない。
時にそれは、長い歳月の底を静かに沈み、
ふいに人の心の水面へ浮かび上がって来る。

ルネサンスの昔、ひとりの画家がひとりの女を
描いた。世にいうモナ・リザである。

その微笑は、笑っているとも、
何かを忍んでいるとも見える。

母のようでもあり、恋人のようでもあり、
また、手の届かぬ夢そのもののようでもある。

だからこそ人は、その顔の前に立つたび、
見知らぬ懐かしさに胸を打たれるのであろう。

レオナルドが終生この作品を手放さなかったのも、
その一枚のうちに、彼自身の憧れと孤独とが
棲んでいたからかもしれない。






そこで私は、現代に生きるひとりのモデルを前に、
その古い微笑の影を写してみた。

もちろん、同じにはならない。
手の組み方も違えば、光の当たり方も違う。

けれども、違うということが、
むしろ面白いのである。

完全な模倣は標本にすぎぬが、
少し崩れたところに、今を生きる
人間の息づかいが宿る。

そこに私の癖があり、
私らしさがあり、愛嬌がある。






絵の中の女は沈黙している。だが、写真の中の人は、
もっとこちらの時代の空気を吸っている。

そのまなざしには、名画への敬意と、遊び心と、
ほんの少しの反抗とがある。

古典は遠いものではない。ただ額縁の内に
閉じこめるから遠く見えるだけだ。

こうして真似てみれば、五百年の時間は
一枚のシャッターの音にまで縮まる。

キュートとは幼さではない。
人を惹きつけてやまぬ、
静かな魔力のことである。

もしモナ・リザが今もなお美術史の奥で
微笑んでいるとすれば、

その微笑の理由はただ一つ、人が時代を越えてなお、
美しい謎を愛してやまぬからであろう。

私はシャッターの向こうに、その余白の一瞬を見た。
世界で最も有名な微笑には及ばずとも、
今、ここに生きる誰かの顔にもまた、

ひそかなルネサンスはあるのであるのだと。









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馬券買ったことある?


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今日は競馬の日。
1954年(昭和29年)のこの日、日本中央競馬会(Japan Racing Association:JRA)が
農林省(現:農林水産省)の監督の下で発足した。
これにより民営競馬がスタートした。それまでは農林省蓄産部が運営する国営競馬だった。
日本中央競馬会は日本中央競馬会法に基づく特殊法人で、公共性の強い法人で
農林水産大臣の監督下に置かれている。


史上最高のオークス
9月になったのに、まだ感動で泣けてくる。
確実に2026年最高のレース

五月の東京は、空の青さまで張りつめていた。
ひかりは硝子のように薄く、風はまだ春の名残を
指先にひそませ、それでも府中の芝だけは、
燃える前の心臓みたいに静かに脈を打っていた。

そこへ、ひとりの若い騎手が出ていった。
今村聖奈。二十二歳。デビュー五年目。
けれどその背に積もっていた歳月は、
たった五年などというやわらかな数では量れなかった。

夢は、最初から祝福だけでできていたわけではない。
騎手になりたいと願った幼い日の声は、近くにいる人に
さえ届かず、むしろ痛みとしてはね返ってきた。憧れは遠く、
現実は固く、鞭より先に胸が打たれる日ばかりだった。

それでも彼女は、あきらめることを覚える前に、
走ることを覚えてしまった子どもだった。

だから傷つくたび、深く沈むたび、なお馬上へ帰っていった。
勝てた日より勝てない日のほうが多く、
拍手より沈黙のほうが長く、口をつけば「もうやめたい」と
こぼれる夜さえあった。その言葉は弱さではない。

砕けそうな心でなお朝を迎えた
者だけが吐ける、血のにじんだ本音である。







関西を離れ、見知らぬ地で己を鍛えなおす決断は、
敗北ではなかった。それは、消えかけた火が、
自分の身を焼いてでももう一度燃えあがろうとする祈りだった。

誰にも見えない場所で泣き、誰にも届かぬ場所で耐え、
その果てに迎えた二〇二六年五月二十四日、オークス。

歴史は、選ばれた人間にだけ扉を開くのではない。
叩いて、叩いて、拳の骨が砕けてもなお叩きつづけた
者の前で、ある日突然、裂けるように開くのである。




デイリースポーツ


ジュウリョクピエロ。
名のどこか弱々しく、どこか可笑しい
その馬は、きっと彼女にこう囁いていた。
「きみが落とした涙の分、今日はぼくが走リ捲る。」

聖奈は応えたはずだ。
「ピエちゃん、さあ行こう。負け続けた昨日を、全部置いていこう」
そして二つの命は、府中の長い直線で、
祈りより速く、願いより麗しく、
運命そのものを追い抜いた。






「やばい、勝ってもうた・・・!」
22歳の等身大の感情がそのまま
溢れた感じが眩しすぎる。

いや、勝っただけではない。
壊れそうな夢を最後まで
抱きしめた者だけが見られる朝へ、
ついに辿り着いたのである。



エモグラム


勝利のあと、彼女は言った。
「やっとジョッキーになれた」
その一言は、歓喜ではなく、
魂の深い場所からこぼれた救済だった。

なるほど人は、夢を叶えた日に泣くのではない。
夢に見捨てられなかったと知る日に、
初めて泣くのだ。



日刊スポーツ



青い五月の光の中で、少女はようやく騎手になった。
そして一頭の馬は、愛らしい名のまま、誰よりも勇ましく、
その魂をゴールまで運び切った。

「ヤッターピエちゃん!今みんなあんたのこと見てるで~格好いいね~
ありがとうね〜」「「夢見たみたいやなぁ、夢見たみたいや」
聖奈が運動会で1位になった子供ピエに声かける母親みたいで、

彼女がが泣いたぶんだけ、見ていた者の胸にも
また、遅れて涙があふれたのである。

あの日、東京の空は、
ひとりの少女が騎手になるために

流した幾千の涙を、
ようやく空へ返すために青かったに違いない。







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国際民主主義デーは、毎年9月15日に世界で記念される国連の国際デーです。
民主主義の原則を守り、高めることを目的としています。

秋雨前線下の国際民主主義デー
秋雨前線、蒼鉛色の雲は、
まるで誰かが世界じゅうの空に薄墨を流したようで、
街も人も、その下で少しずつ声を低くしている。

九月十五日。国際民主主義デーであるという。
人民の声を礎にせよと、遠い国連の言葉は、
濡れた広告紙の上で、いかにも端然として見えた。


Yahoo!ニュースより

けれども端然としているのは、たいてい標語だけである。
現実は、傘の骨のように幾本もねじれ、しかもその折れ目を、
為政者はたいそう器用にリボンで飾る。



朝日新聞より

海の向こうでは、地球の熱に背を向ける大国の指導者が、
国際協調よりも己の声の大きさを信じ戦争を始め、
まるで自らのデマ法螺、そのものが正義であるかの様に振舞う。




隷属したこちらの島国では、ことばは政策を
照らす灯ではなく、しばしば鏡に向けた化粧刷毛である。




巨額の広告費は、民意に耳を澄ますためでなく、
民意の耳に綿を詰めるために使われるのでは
ないかと、疑う者の胸には冷たい雨が降る。



Yahoo!ニュースより


地方へ目を移せば、議場は自治の広間というより、
湿った帳場のようでもある。数字は整い、礼は
尽くされ、議事は粛々と進む。しかるにその床下では、
古い水が澱み、見えぬところから腐った匂いが立ち、
締めは対決より解決のタイタニックごっこだ。




日経新聞より



選挙は終わり、勝者は万歳に迎えられる。
だが圧勝という文字が、必ずしも清冽を
意味しない事を、私たちはもう知っている。

多数はしばしば真実の衣ではなく、
利権に上手に仕立てられた制服にすぎぬ。

民主主義とは、晴天の制度ではない。
むしろ、このような陰鬱な空の下でこそ、
なお破れた傘を差しつづける辛抱の名ではあるまいか。



TABIZINEより



雨はやまぬ。されど、黙って濡れているだけでは、
いつか雨そのものが法律になる。ゆえに人は、
ときに震えながらでも言葉を持たねばならぬ。

曇天の九月十五日とは、そのことを忘れぬための、
ひそかな記念日なのである。








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何色の花が好き?


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コスモスの日は、恋人同士がコスモスを添えて贈り物を交換し、
愛情を確かめ合う日とされる記念日です。

秋の野に咲くあの淡い花を思うと、そこへそっと人の心の影がさしこむ。
コスモスとは、まるで風に身を貸しながら、それでも折れまいとする
小さな祈りのような花である。

『一輪の秋桜』
異国の民泊の、雨あがりの窓辺に、その一輪はあった。
濡れた硝子はまだ空の涙をうっすらと宿し、

くもりの向こうの街は、水に溶いた絵具のように
ぼんやりとしていた。粗末な瓶に挿された
薄紅の秋桜は、すでに盛りを過ぎ、
葉の端をかすかに縮らせていたけれど、

それでもなお、消えかけの燭火が
最後のあかりを守るように、静かに咲いていた。






民泊の大家の老母が飾ったものかもしれない。
名も知らぬ老女の、言葉にならぬやさしさが、
その細い茎にしみこんでいるようで、

旅の身にはひどくあたたかく見えた。
花とは、ときに家そのものの心になる。


またある夕方、道を歩いていると、
道路の割れ目に咲く一輪の薄紅の秋桜を見た。
そこは土と呼ぶにはあまりに乏しく、
石と乾きと踏まれる運命とが寄り
集まったような場所であった。

にもかかわらず、その花は夕映えの中でかすかに揺れ、
壊れやすい小鳥の胸のように頼りなく見えながら、

じつは驚くほど強かった。





人はしばしば、力を大きさで量ろうとする。
けれど命のほんとうの強さは、こうした細いもの、
やわらかいもの、誰にも顧みられぬもののうちに、
かえって深く隠れているのではあるまいか。

その薄紅は、秋の光に透けながら、沈みゆく一日の果てで
なお、世界に向かって小さく生きていた。

窓辺の花も、道ばたの花も、どちらも同じように
か弱く見えて、実は人の心を支える見えない柱。

その一輪に、命のすごさと尊さと、
そして言葉より先に、胸へ届く優しさを見る。

命とは、華やかに栄えることではなく、
折れそうな場所でなお自らを開く事なのだと。

コスモスは風の花であるより先に、
沈黙の中で立ち尽くす勇気の花なのだと想う。






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レタッチ  文   熊谷



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前文
なぜ海外の写真が多いのか?
今でこそ携帯で誰でも自由に写真を撮れる様になったが。
デビューしたばかりのころ、新しいレンズを買うたび、
私は近所へ光の試し撮りに出た。

すると、町は風景を返すより早く、猜疑の影をこちらへ投げた。
ある日など、パトカーが2、3台押し寄せ、警察は令状もなく
玄関を越えようとし、私は狭い敷居の上で、かろうじて
自分の沈黙を守った。そういうことが幾度か重なるうち、

国内の街路は次第に曇り、私の写真だけが海を渡った。
異国の空は遠かったが、特にヨーロッパの人の眼差しは
日本より幾分やわらかかった。


『雨のマテーラ』 
マテーラはイタリア南部の洞窟住居群で知られる古都です。
そして、雨の気配が長く続く季節には、
こういう湿り気を帯びたブログがよく似合う。

ちょっと前の事である、
マテーラの街角に立つと、石灰の町は
白亜というより、曇天の下ではむしろ
古い骨の色をして、静かに乾いた歳月を積み上げている。

空はまだ沈黙を守ってゐながら、遠い丘の教会の
かなたから黒い雲が徐々に押し寄せて来てゐた。

石の家々は乾いた光をわづかに宿しつつも、
すでにその色の底に薄い翳りを含み、ほどなく来る
ものの気配を静かに受け入れてゐるやうであつた。






路地は狭く、壁は古く、しかもその古びやうは衰へではなく、
永い歳月に磨かれた気品のやうに見える。

私はその角に立ちながら、晴れと雨との境が、
かうもひそやかに町を包んでゆくのを眺めてゐた。

そして次の日、雨はためらふことなく降り出した。
昨日まで空の奥にとどまつてゐた灰色は、
今や街の上へ低く垂れこめ、石畳もしつとりと濡れ、
白い町並みはいつさう深い陰影を帯びた。

その静かな画面の中央に、ただ一台、紅い車が走り抜けていく。







ささやかなその紅が、雨に沈む景色のなかで
不意に人の世のぬくみを思はせ、

古い石の都にひとしづくの
現在を灯してゐるやうである。

雨は町を曇らせるのでなく、むしろその輪郭を
やはらかに浮かび上がらせる。

マテーラの雨景は、寂しさのうちに
ほのかな艶をひそませ、旅人の胸に静かな余韻を残した。

しかしその後は、雨脚のために、
ほとんどの写真があえなく焦点を失った。

旅には惜しまず金を費やしながら、
撮影機材の新陳代謝が疎かであった。

帰国してから私は、雨に強いレンズを探し、買い求めた。

今にして思えば、あのぼやけた失敗もまた、
旅の記憶そのものには似つかわしいかも知れない。

明晰に捉え得なかったからこそ、雨のマテーラは、
なおさら仄暗く、美しく、心の底に残っている。



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