今日は地図の日。(立体の日本地図) | ザスタのクマさん

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そう言えば、6年程前立体の日本地図を撮影した事があった。

🗾 富士より伊豆を望む
卓上の日本列島は、プラスチックの海からそびえ立つ玩具の富士山である。
富士の南側に、短く張り出した半島がある。伊豆半島である。
教科書では温泉と火山の名所として紹介されるこの土地も、
立体地図の上では、湯気ひとつ立てない、黙りこくった突起物にすぎない。

私は指先で、その小さな半島をそっと撫でてみる。
すると、教科書の余白に書き足された、修学旅行の落書きのような
記憶が、じわじわとにじみ出してくる。

上から見る伊豆は、たしかに「地形」である。しかし下から見上げたとき、
私たちに迫ってきたのは、水平線の向こうまで続く「旅への口実」だった。

地図の上で半島は、ただ海に突き出しているだけである。
けれども旅人にとって、突き出しているのは、
きまって自分の物好きな心の方であった。










⛰ フォッサマグナと黒部

日本列島の真ん中に、器用な誰かが墨をこぼしたような溝がある。
学者はそれをフォッサマグナと呼び、少年にはただ「境い目」と説明する。
立体地図を斜めから覗き込むと、その境い目は思いのほか浅く、却って
不気味に見える。世界を分ける傷にしては、いささか控えめすぎるからだ。

一方、黒部の谷はどうだろう。こちらはむしろ、人間の側が傷口を広げた。
岩盤をくり抜き、ダムを築き、アルペンルートと名付けて、観光客を標高の
高みに押し上げる。立体地図の上で黒部を眺めると、その深さは誇張にも
戯画にも見える。谷はまるで、山岳を題材とした一枚の銅版画の上に、
黒々とした影を彫りこまれた挿絵のようだ。

思えば、日本地図というものは、礼儀正しすぎる。
フォッサマグナを、まるで上品な仕切り線のように描いてみせるが、
その実態は、国土が真ん中から「性格の違う岩同士」で喧嘩をした、
その古傷にほかならない。黒部の断崖もまた、その喧嘩の飛び火である。

地質学者は、フォッサマグナを語るときに詩人めいた口調になる。
数百万年の時間を相手にするには、学問だけでは少し心細いのだろう。

電力会社の技師は、黒部を語るときに寡黙になる。あまりに具体的な
苦労は、言葉にすればかえって安くなると知っているからである。

しかし、地図の上では、両者はただの凹凸にすぎない。フォッサマグナも
黒部峡谷も、指先でなぞれば、同じような谷筋としてすべり落ちてゆく。

立体地図というものは、世界を三次元にしながら、その実は
四次元目の時間を巧みに削り取ってしまう装置であるらしい。











🏯 京都という迷路

京都を上空から眺めれば、碁盤の目の整然たる街である。立体地図においてさえ、
その秩序は揺るがない。東西南北まっすぐに走る通りは、まるで古代の役人たちが、
巨大な定規を振り下ろして引いた跡のようだ。

ところが、いざ人間の背丈で歩き出すと、この街はたちまち迷路に変わる。
寺の山門に吸い込まれれば時間を失い、路地の提灯に誘われれば財布を失い、
川べりの桟敷に上がれば慎ましい決心を失う。

京都とは、失われたものの総量によって、かろうじて輪郭を保ってい都市である。

地図はその京都を、冷静な顔つきで俯瞰している。寺社のアイコンを並べ、
世界遺産に印を付け、標高差を几帳面に彩色する。だが、祇園の角を曲がった
時にふと胸を刺す、見知らぬ花の匂いを記号にすることは出来ない。
鴨川の水音に紛れて聞こえてくる、別れ話の一言を凡例に載せるこ事も出来ない。

地形的にみれば、京都は、山と川と盆地が、渋々折り合いをつけた結果できた、
ささやかな平地でしかない。ところが人間は、そのささやかな平地に、
政治と宗教と文学と陰謀を、これでもかと詰め込んできた。

その結果、立体地図の上では平らな盆地が、歴史の教科書の中では、
やたらと凹凸の激しい地名になってしまったのである。

私は、立体地図の京都のあたりに目を落としながら、ふと、そこに置かれた
都市そのものが、一種の「余白」ではなかったかと思う。

山と山の間の余白、権力と権力の間の余白、そして、過去と現在の間に、
なんとか挟み込まれた、あやうい静けさの余白である。

立体地図の京都は、北の山々が、控えめに市街地を抱きこみ、
東山がほんの少しだけ、街路に影を落としている。

そのささやかな起伏が、平面地図では伝わらない
「囲まれている感覚」を、不器用な手つきでなぞっているように思えた。

私はその模型の上に、そっと掌をかざす。もしもこの地図が、千年前の
都人の溜息を、ほんの一つでも吸い込んでくれているならば、京都という
迷路も、少しは歩きやすくなるのかも知れないと、根拠のない事を考えながら。











三枚の写真を並べてみる。
富士から伊豆を眺める写真。
フォッサマグナから黒部をなぞる写真。
そして、京都近辺を切り取った写真。

どれも同じ日本列島の一部であるはずなのに、見れば見るほど、
それぞれが別の物語を勝手に語り始める。

そのせいか、日本全体を俯瞰しようとすると、かえって、
どこにも足場がなくなるような心細さを覚える。

地図とは、本来、世界を掌に載せて安心するための道具であったはずである。
ところが、この立体の日本地図を眺めていると、落ち着きなく身じろぎをする
列島を、なだめすかしているような気持ちになり、
ほんの少しだけ敬語を使いたくなるのである。


最後までご覧頂きありがとう。

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明日がさらに素晴らしい日となりますように晴れ

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撮影  文  熊谷

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