人気ブログランキング参加中です、クリックお願いします。

人気ブログランキングへ

日付は「よ(4)い(1)こ(5)」(よい子)と読み、いじめない、いじめに負けない
「よい子」にエールを送ることを意味している。
毎年この日に音楽やエンターテインメントのイベントを開催し「生き抜く力、勇気」を
伝えていく。
記念日は2019年(平成31年)に一般社団法人・日本記念日協会により
認定・登録された。
良い子の日というには、私はずいぶん年を取り過ぎたのだが、思い出の1枚を
「楽園への歩み」

W. ユージン スミス。
そう言えば、今、ユージンの写真展もやっている。
W. ユージン・スミスとニューヨーク ロフトの時代
会場:東京都写真美術館
会期:2026年3月17日(火)〜6月7日(日) (artscape.jp)
内容:
ユージン・スミスが雑誌「ライフ」を辞めた後、ニューヨーク・マンハッタンの
「ロフト」で撮影した作品を中心に、ジャズミュージシャンや画家、
写真家たちが集った場の様子をおさめた写真が展示されています。
僕の思い出。
「楽園への歩み」という題を、僕はずっと写真の裏表紙に貼りついたままの
祈りのように覚えている。戦後のある日、暗がりから差し込む光に向かって、
小さな背中がふたつ並んで歩いてゆく。ユージンの子供達だと聞かされた時、
僕はその影の輪郭に、自分の将来までも約束されてる気がした。
あれから幾つかの春が過ぎ、学生だった僕は、卒業制作という名目を手に、
水俣という土地へ向かった。名目というのは、往々にして方便である。
先生の言葉を借りれば、「君の写真に必要なのは、題材ではなく覚悟だ」
列車の窓に映る自分の顔は、覚悟というにはいささか頼りなく、
むしろ観光客と大差ない表情をしていた。
水俣の海は、おそろしく静かだった。波は声を潜め、港に浮かぶ船は、
ひそひそ話をしているように見えた。僕はカメラを提げて、しかしシャッターを
切ることを躊躇した。撮るという行為が、あまりにも軽く、
こちらの無知を白日の下にさらしてしまうように思えたからである。
ユージンとアイリーンに初めて会ったのは、
そんな臆病さを持て余していた頃だった。
彼らは、すでに水俣の風景の一部になりつつあった。
外国人というよりは、ここに長く暮らす、少し変わった隣人といった風情である。
ユージンは大きな身体を少し丸め、ファインダーの向こう側に、
僕には見えない何かをじっと見ていた。アイリーンは、その横で、
患者さんの話に耳を傾けながら、時折短い日本語を挟んでいた。
「手伝うか」
そう声をかけられたとき、僕は、その「手伝う」という言葉の中身を、
ろくに理解していなかった。フィルムを替えたり、機材を運んだり、
そうした物理的な作業を想像していたのだが、実際には、
それよりもずっと静かで、重たい時間が待っていた。
僕の役目の多くは、ただそこに立ち会うことだった。患者さんの家にうかがい、
話を聞き、沈黙に居合わせる。ユージンがシャッターを切るときも、
切らないときも、その場の空気を乱さないように、しかし逃げ出さないように、
所在なげな日本の若者としてそこに居続けること。
それが、彼の言う「手伝い」だった。
ある日、帰り道の坂道で、ユージンは唐突に立ち止まった。
遠くで子どもの笑い声がしていた。海風に乗って、甲高い声が転がってくる。
彼はしばらく耳を傾けていたが、やがて小さくつぶやいた。
「楽園は、いつも少しだけ遠い」
英語で言われたその言葉を、僕は完全には聞き取れなかった。
ただ、「パラダイス」という単語だけが、妙に鮮やかに耳に残った。
後になって、写真集の「The Walk to Paradise Garden」を見返したとき、
僕はあの坂道の風景を思い出し、ようやく、彼が言おうとしたことの
輪郭に触れたような気がした。
アイリーンは、僕にとって、もう一つのレンズだった。彼女は時折、
ユージンの言葉を日本語に訳しながらも、訳しきれない部分を、
自分自身の表情と沈黙で補っていた。撮影の合間、台所の隅で、
お茶をすすりながら、彼女はぽつりと言った。
「写真は、声が小さい。でも、小さい声を聞ける人が増えたら、
世界は少し変わると思う」
当時の僕は、その言葉の正しさよりも、そのかすかな希望に救われた。
学生である僕の存在も、もしかすると、彼らの言う「小さい声」の一つとして、
どこかで数えられているのかもしれない、と。
卒業制作の提出日は容赦なくやって来た。水俣で撮ったネガを暗室で洗いながら、
僕は、自分の写真が、ユージンやアイリーンの見ていたものの足元にも及ばない
ことを痛感していた。だが同時に、あの日々がなければ、自分はカメラを
持ち続ける理由さえ見つけられなかっただろうとも思った。
フィルムを乾かすためにぶら下げた紐の下で、水俣の海、患者さんの手、
雨上がりの路地、笑う子どもたちが、モノクロームの世界から徐々に
浮かび上がってくる。その一枚一枚が、僕に問いを投げかけていた。
「おまえは、これからどこへ歩いていくのだ」と。
あれから、ずいぶん時間が経った。今日が「良い子の日」だと、誰かが呑気に
語呂合わせをしている。だが、大人になり損ねた良い子たちは、
今もどこかで、見えない毒に蝕まれているのかもしれない。
僕は、自分があの土地にいた時間の短さと、その短い時間が
与えた影響の大きさに、奇妙な眩暈を覚える。
それでも、僕はまだ写真を撮っている。
シャッターを切るたびに、あの背中ふたつが、光へ向かって
歩いていく光景が、心のどこかでうっすらと再生される。
僕にとっての「楽園への歩み」とは、結局のところ、過去に向かって
歩き続けることなのかもしれない。忘れてはならない場所へ、
忘れてはならない人々のもとへ、何度でも心を送り返す、
そのささやかな往復運動こそが、僕の原点であり、そしておそらくは、
僕に許された唯一の贅沢な旅路、最後までやり直しのきかない
『一枚のネガなのだ。』
最後までご覧頂きありがとう。
今日が良い日となり、
明日がさらに素晴らしい日となりますように
。
インスタフォロー宜しくお願いします↓↓↓
https://www.instagram.com/naoo_kumagai/
文 熊谷
ランキングの順位、毎日の励みになっています。
ほんとうにありがとうございます。
良かったら、下のランキングをクリックお願いします。

人気ブログランキングへ

最近、褒められてる?
▼本日限定!ブログスタンプ
日付は「よ(4)い(1)こ(5)」(よい子)と読み、いじめない、いじめに負けない
「よい子」にエールを送ることを意味している。
毎年この日に音楽やエンターテインメントのイベントを開催し「生き抜く力、勇気」を
伝えていく。
記念日は2019年(平成31年)に一般社団法人・日本記念日協会により
認定・登録された。
良い子の日というには、私はずいぶん年を取り過ぎたのだが、思い出の1枚を
「楽園への歩み」

W. ユージン スミス。
そう言えば、今、ユージンの写真展もやっている。
W. ユージン・スミスとニューヨーク ロフトの時代
会場:東京都写真美術館
会期:2026年3月17日(火)〜6月7日(日) (artscape.jp)
内容:
ユージン・スミスが雑誌「ライフ」を辞めた後、ニューヨーク・マンハッタンの
「ロフト」で撮影した作品を中心に、ジャズミュージシャンや画家、
写真家たちが集った場の様子をおさめた写真が展示されています。
僕の思い出。
「楽園への歩み」という題を、僕はずっと写真の裏表紙に貼りついたままの
祈りのように覚えている。戦後のある日、暗がりから差し込む光に向かって、
小さな背中がふたつ並んで歩いてゆく。ユージンの子供達だと聞かされた時、
僕はその影の輪郭に、自分の将来までも約束されてる気がした。
あれから幾つかの春が過ぎ、学生だった僕は、卒業制作という名目を手に、
水俣という土地へ向かった。名目というのは、往々にして方便である。
先生の言葉を借りれば、「君の写真に必要なのは、題材ではなく覚悟だ」
列車の窓に映る自分の顔は、覚悟というにはいささか頼りなく、
むしろ観光客と大差ない表情をしていた。
水俣の海は、おそろしく静かだった。波は声を潜め、港に浮かぶ船は、
ひそひそ話をしているように見えた。僕はカメラを提げて、しかしシャッターを
切ることを躊躇した。撮るという行為が、あまりにも軽く、
こちらの無知を白日の下にさらしてしまうように思えたからである。
ユージンとアイリーンに初めて会ったのは、
そんな臆病さを持て余していた頃だった。
彼らは、すでに水俣の風景の一部になりつつあった。
外国人というよりは、ここに長く暮らす、少し変わった隣人といった風情である。
ユージンは大きな身体を少し丸め、ファインダーの向こう側に、
僕には見えない何かをじっと見ていた。アイリーンは、その横で、
患者さんの話に耳を傾けながら、時折短い日本語を挟んでいた。
「手伝うか」
そう声をかけられたとき、僕は、その「手伝う」という言葉の中身を、
ろくに理解していなかった。フィルムを替えたり、機材を運んだり、
そうした物理的な作業を想像していたのだが、実際には、
それよりもずっと静かで、重たい時間が待っていた。
僕の役目の多くは、ただそこに立ち会うことだった。患者さんの家にうかがい、
話を聞き、沈黙に居合わせる。ユージンがシャッターを切るときも、
切らないときも、その場の空気を乱さないように、しかし逃げ出さないように、
所在なげな日本の若者としてそこに居続けること。
それが、彼の言う「手伝い」だった。
ある日、帰り道の坂道で、ユージンは唐突に立ち止まった。
遠くで子どもの笑い声がしていた。海風に乗って、甲高い声が転がってくる。
彼はしばらく耳を傾けていたが、やがて小さくつぶやいた。
「楽園は、いつも少しだけ遠い」
英語で言われたその言葉を、僕は完全には聞き取れなかった。
ただ、「パラダイス」という単語だけが、妙に鮮やかに耳に残った。
後になって、写真集の「The Walk to Paradise Garden」を見返したとき、
僕はあの坂道の風景を思い出し、ようやく、彼が言おうとしたことの
輪郭に触れたような気がした。
アイリーンは、僕にとって、もう一つのレンズだった。彼女は時折、
ユージンの言葉を日本語に訳しながらも、訳しきれない部分を、
自分自身の表情と沈黙で補っていた。撮影の合間、台所の隅で、
お茶をすすりながら、彼女はぽつりと言った。
「写真は、声が小さい。でも、小さい声を聞ける人が増えたら、
世界は少し変わると思う」
当時の僕は、その言葉の正しさよりも、そのかすかな希望に救われた。
学生である僕の存在も、もしかすると、彼らの言う「小さい声」の一つとして、
どこかで数えられているのかもしれない、と。
卒業制作の提出日は容赦なくやって来た。水俣で撮ったネガを暗室で洗いながら、
僕は、自分の写真が、ユージンやアイリーンの見ていたものの足元にも及ばない
ことを痛感していた。だが同時に、あの日々がなければ、自分はカメラを
持ち続ける理由さえ見つけられなかっただろうとも思った。
フィルムを乾かすためにぶら下げた紐の下で、水俣の海、患者さんの手、
雨上がりの路地、笑う子どもたちが、モノクロームの世界から徐々に
浮かび上がってくる。その一枚一枚が、僕に問いを投げかけていた。
「おまえは、これからどこへ歩いていくのだ」と。
あれから、ずいぶん時間が経った。今日が「良い子の日」だと、誰かが呑気に
語呂合わせをしている。だが、大人になり損ねた良い子たちは、
今もどこかで、見えない毒に蝕まれているのかもしれない。
僕は、自分があの土地にいた時間の短さと、その短い時間が
与えた影響の大きさに、奇妙な眩暈を覚える。
それでも、僕はまだ写真を撮っている。
シャッターを切るたびに、あの背中ふたつが、光へ向かって
歩いていく光景が、心のどこかでうっすらと再生される。
僕にとっての「楽園への歩み」とは、結局のところ、過去に向かって
歩き続けることなのかもしれない。忘れてはならない場所へ、
忘れてはならない人々のもとへ、何度でも心を送り返す、
そのささやかな往復運動こそが、僕の原点であり、そしておそらくは、
僕に許された唯一の贅沢な旅路、最後までやり直しのきかない
『一枚のネガなのだ。』
最後までご覧頂きありがとう。
今日が良い日となり、
明日がさらに素晴らしい日となりますように
インスタフォロー宜しくお願いします↓↓↓
https://www.instagram.com/naoo_kumagai/
文 熊谷
ランキングの順位、毎日の励みになっています。
ほんとうにありがとうございます。
良かったら、下のランキングをクリックお願いします。
