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4月9日 大仏の日。
752年4月9日に、奈良・東大寺の大仏(通称「奈良の大仏」)が
完成しました。 その際に行われた開眼供養会日と考えられています。
🌸 桜と大仏
奈良の春は、どこか硝子細工のように脆く澄んでいて、桜が咲きみちた。
東大寺の甍のうえに、淡い花びらの影が、朝の光といっしょに散ってゆく。
天平四年四月九日という年月日は、歴史の教科書では一行で片づけられてしまう。
しかし、その一行の裏には、幾千という手と、幾万という祈りと、
そして数えきれない欲と諦めとが、まるで金箔の下に塗りこめられた
漆のように折り重なっているに違いない。
大仏殿の前に立つと、まず風が先にこちらを一瞥します。杉と土のにおいを連れて、
八世紀の埃をほんの少しだけ混ぜながら。人々はその風に気づかないふりをして、
スマートフォンの画面ばかりを見つめています。

🛕 眼をひらくもの
開眼供養のとき、僧の読経は、さぞ騒がしいものであったろう。
だが、その騒がしさも、今となっては、ただ「目を開けよ」というひとつの命令。
人は仏の目を開かせたつもりでいるが、実のところ、あの日から
目を離せなくなったのは、むしろ人間の側なのかもしれない。
今、花びらは肩におち、膝におち、やがて大仏の掌にもおちて、
そこで時間を忘れたように静まる。
大仏の表情は、どこか退屈そうである。滅びるものにも、祈るものにも、
等しく頓着しないような、あの半眼のまなざし。そこには慈悲というより、
世界そのものへの静かな倦怠が宿っている。それは悠長な無関心に近く、
私たちの一代の悲喜など、畳の埃ほどにも思ってはいないだろう。
結局のところ、大仏のあの途方もないスケールの沈黙に、
そっと結びつけて、人々はなぜか安堵を覚えてる。

堂を出ると、阿形と吽形の像が、門の左右に立ちはだかってます。
一方は口を開け、一方は口を閉じているだけの話ですが、
人はその単純さに、宇宙の入口と出口を見出そうとする。
最も、現代の子どもたちは、その前でアイスクリームを落としたり、
写真にピースサインを添えたりすることに忙しいのですが、
門前の阿形と吽形は、相も変わらず無口である。
片方は口を開き、片方は口を結んで、千二百余年間、行きかう人々を見送ってきた。
阿ははじめの息であり、吽はおわりの息だと、だれかが説明していたが、
そのどちらの息も、春の風にまぎれて、今日はさほど区別がつかない。

🌤 きょうという一日
七五二年の四月九日も、きっとこんな風に少しばかり晴れて、人々が遠くから
埃を上げて集まってきた。祈りと権力と迷信と、わずかな信仰心とが
ないまぜになって、巨大な仏の前を波のように往復したに違いありません。
そのざわめきは、今では誰の耳にも残っていませんが、石段の角や、
阿形と吽形のひびの中で、まだ小さく反響しているようにも思われる。
観光客のカメラが光るたび、阿吽像の胸のあたりで、
見えない微笑がかすかに揺れる。
今日が何の日かを知る人も、知らない人も、同じ石段を登り、同じ桜の下を。
ただ、大仏の瞳だけが、七五二年の朝から今日まで、一つ瞬きをしたかどうか、
自分でもはっきり覚えていないらしい。
そして眼を開いたのは、果たして大仏なのか、それとも人間のほうなのか。
阿と吽とのあいだから吹きこんで来る、わずかな春の気配だけが、
その問いに曖昧な相槌を打っていると・・・
そんな気がしてならないのである。
最後までご覧頂きありがとう。
今日が良い日となり、
明日がさらに素晴らしい日となりますように
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熊谷
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4月9日 大仏の日。
752年4月9日に、奈良・東大寺の大仏(通称「奈良の大仏」)が
完成しました。 その際に行われた開眼供養会日と考えられています。
🌸 桜と大仏
奈良の春は、どこか硝子細工のように脆く澄んでいて、桜が咲きみちた。
東大寺の甍のうえに、淡い花びらの影が、朝の光といっしょに散ってゆく。
天平四年四月九日という年月日は、歴史の教科書では一行で片づけられてしまう。
しかし、その一行の裏には、幾千という手と、幾万という祈りと、
そして数えきれない欲と諦めとが、まるで金箔の下に塗りこめられた
漆のように折り重なっているに違いない。
大仏殿の前に立つと、まず風が先にこちらを一瞥します。杉と土のにおいを連れて、
八世紀の埃をほんの少しだけ混ぜながら。人々はその風に気づかないふりをして、
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🛕 眼をひらくもの
開眼供養のとき、僧の読経は、さぞ騒がしいものであったろう。
だが、その騒がしさも、今となっては、ただ「目を開けよ」というひとつの命令。
人は仏の目を開かせたつもりでいるが、実のところ、あの日から
目を離せなくなったのは、むしろ人間の側なのかもしれない。
今、花びらは肩におち、膝におち、やがて大仏の掌にもおちて、
そこで時間を忘れたように静まる。
大仏の表情は、どこか退屈そうである。滅びるものにも、祈るものにも、
等しく頓着しないような、あの半眼のまなざし。そこには慈悲というより、
世界そのものへの静かな倦怠が宿っている。それは悠長な無関心に近く、
私たちの一代の悲喜など、畳の埃ほどにも思ってはいないだろう。
結局のところ、大仏のあの途方もないスケールの沈黙に、
そっと結びつけて、人々はなぜか安堵を覚えてる。

堂を出ると、阿形と吽形の像が、門の左右に立ちはだかってます。
一方は口を開け、一方は口を閉じているだけの話ですが、
人はその単純さに、宇宙の入口と出口を見出そうとする。
最も、現代の子どもたちは、その前でアイスクリームを落としたり、
写真にピースサインを添えたりすることに忙しいのですが、
門前の阿形と吽形は、相も変わらず無口である。
片方は口を開き、片方は口を結んで、千二百余年間、行きかう人々を見送ってきた。
阿ははじめの息であり、吽はおわりの息だと、だれかが説明していたが、
そのどちらの息も、春の風にまぎれて、今日はさほど区別がつかない。

🌤 きょうという一日
七五二年の四月九日も、きっとこんな風に少しばかり晴れて、人々が遠くから
埃を上げて集まってきた。祈りと権力と迷信と、わずかな信仰心とが
ないまぜになって、巨大な仏の前を波のように往復したに違いありません。
そのざわめきは、今では誰の耳にも残っていませんが、石段の角や、
阿形と吽形のひびの中で、まだ小さく反響しているようにも思われる。
観光客のカメラが光るたび、阿吽像の胸のあたりで、
見えない微笑がかすかに揺れる。
今日が何の日かを知る人も、知らない人も、同じ石段を登り、同じ桜の下を。
ただ、大仏の瞳だけが、七五二年の朝から今日まで、一つ瞬きをしたかどうか、
自分でもはっきり覚えていないらしい。
そして眼を開いたのは、果たして大仏なのか、それとも人間のほうなのか。
阿と吽とのあいだから吹きこんで来る、わずかな春の気配だけが、
その問いに曖昧な相槌を打っていると・・・
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