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 1968年5月25日、イングランド北部の都市、ニューカッスルでの出来事である。労働者階級の町スコッツウッドで、鳩小屋を作る材木を探していた3人の少年が、立ち退きになった空家の2階で幼児の死体を発見した。瓦礫で覆われた床に仰向けで横たわり、口からは血が流れていた。そばには空の薬瓶が転がっており、警察は当初、薬の誤飲が死因ではないかと考えた。目立った外傷は見当たらなかった。
 少年たちは慌てて助けを求めた。近くにいた電気工が、無駄とは思いながらも人工呼吸を施した。少年の1人、ウォルターは吐き気を覚え、窓から顔を出して深呼吸した。窓の下に2人の少女が歩いて来るのが見えた。メアリー・ベル(10)とノーマ・ベル(13)だ。姓は同じだが親類ではない。メアリーの方が云った。
「上にあがってみようか?」
 2人は隣の空家の窓から入って裏庭に出て、壊れた勝手口から現場の空家に入って来た。階段を上ってきたのでウォルターは制止した。
「今は入っちゃダメだ」
「大丈夫よ。おまわりさんだって私がここにいることを知っているんだから」
 メアリーはそう云って、なおも上がろうとしたので、ウォルターは追い出した。

 死んでいたのはマーティン・ブラウン(4)だった。母親のジューンが駆けつけた時には、彼女の姉リタ・フィンレーは既に現場にいた。メアリーたちに教えられたのである。
「私がマーティンを最後に見てからそれほど経たないうちに、誰かがドアを叩くので出てみると、例の2人がいました。メアリーとノーマです。『どうしたの?』と訊くと、メアリーが云いました。『おばさんちの子供が事故にあったよ』。その時はマーティンのことだとは思わず、うちの子のことだと思いました」(リタ・フィンレー)
 リタはメアリーたちの悪い冗談だと思った。ところが、外で近所の人が手招きしている。彼女は半信半疑で表に飛び出した。
「私が現場の裏庭でレンガにつまずくと、小さな子に起されました。メアリーでした。彼女はまた私のそばにいたんです。そして、こう云いました。『場所を教えてあげるわ』と」(リタ・フィンレー)

 検視解剖によってもマーティンの死因を特定することはできなかった。脳に僅かな出血がある以外は問題がなかった。考えられる唯一の死因は窒息だが、首には圧痕がなかった。絞殺の線も否定された。
 マーティンはその日、午後3時15分頃に駄菓子屋で飴を買い、叔母リタの家にあがってパンを食べた。外に出たのは3時20分頃である。そして、3時30分には遺体となって見つかった。あっと云う間に死んでしまったのだ。調べれば調べるほど判らない。警察は頭を抱えた。

「マーティンが死んだ翌日、例の2人が家にやって来ました。そして、うちの子のジョーンを遊びに連れて行ってくれるというのです。4人も子供がいて、てんてこ舞いだった私は親切に思ったものです。ところが、メアリーは『マーティンがいなくなってさびしい?』とか『マーティンがいなくなって泣いたの?』とか、しつこく訊いてくるんです。しかも、ニタニタ笑いながら。私は我慢できなくなって『もう二度と来ないで!』と怒鳴りつけました。私にはどうしてあの子たちがそんなこと訊くのか理解できませんでした」(リタ・フィンレー)

 マーティンが謎の死を遂げた翌日の5月26日は、メアリー・ベルの11歳の誕生日だった。メアリーはノーマ・ベルの妹スーザン(11)を「お誕生日カードをくれなかった」となじった。そして、首を絞めようとした。悲鳴を聞いて駆けつけたスーザンの父親が、メアリーの手を払い除けた。以来、スーザンはメアリーと遊ばなくなった。

 その翌日の5月27日の朝、近所の保育園が何者かに荒らされていた。警察は散乱した教材の中から4枚の紙切れを発見した。それには子供のような筆跡で、なぐり書きがしてあった。


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●第1の紙片
「わたしが ころした。
 だから また やってくる」


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●第2の紙片
「くそったれ。
 わたしたちが ころした。
 きをつけろ。
 おまんことおかまより」


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●第3の紙片
「わたしたちが ころした。
 マータン・ブラウンを。
 くそったれ。
 こしぬけやろう」


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●第4の紙片
「おまえらは まぬけだ。
 なぜなら、
 わたしたちが ころしたのだ。
 マータン・ゴー・ブラウンを。
 きをつけろ。
 またころしがあるぞ。
 おまんことおいぼれたおかまより。
 ポリこうへ」

 この誤字だらけのなぐり書きを警察は悪質ないたずらだと考えた。


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 その日、メアリー・ベルは学校で日誌を書かされた。

「土曜日はわたしは家にいました。するとママが、ノーマをさそって丘の上まで行ってくればと言ったので、ノーマの家に行きました。私とノーマは丘にのぼり、マーガレット通りまで下ると、古い家のそばに人ごみが見えました。私はなにがおこったのか人にききました。そこには男の子がたおれて死んでいました」

 下には御丁寧にイラストが描かれていた。死体のそばには「錠剤」と書かれていた。これはマーティンのそばに落ちていた薬瓶を意味する。しかし、彼女はそれは見ていない筈だ。ウォルターに追い払われたのだから。

 2日後、メアリー・ベルはブラウン家のドアを叩いた。
「メアリーは『マーティンはいますか?』と訊ねました。『マーティンは死んだのよ』と答えると、あの子はあたりを見回して『死んだのは知ってるわ。あの子が棺に入っているところが見たいのよ』と云ってニヤニヤと笑いました。私はびっくりして口もきけませんでした」(ジューン・ブラウン)

 5月31日、保育園で新しく取り付けた警報装置が作動した。警察が駆けつけると、そこにはメアリーとノーマがいた。2人は取り調べを受けたが、前の不法侵入については否定した。
 それから1週間ほど経った頃、或る少年がこんな光景を目撃している。メアリーが、
「あたしはひとごろしだあ!」
 と叫びながらノーマに飛びかかり、その髪を掴んで顔を蹴りつけ、マーティンが殺された家を指差して、
「あたしがあの家でブラウンを殺したの!」
 少年はさすがに仰天したが、真剣には受け取らなかった。メアリー・ベルは嘘つきで有名だったからである。


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ブライアンの遺体が発見された現場

 事件から2ケ月が経った7月31日、今度は3歳のブライアン・ハウが行方不明になった。もう夕方だというのに帰って来ない。姉のパットが探していると、2人の少女が近づいて来た。云うまでもないだろう。例の2人である。メアリーが云った。
「ブライアンは、あそこのコンクリートブロックの間で遊んでいるかも知れないわ」
 ノーマは強く否定した。
「あの子はあそこには絶対行かないわ」
 そう云って、どこかに遊びに行ってしまった。パットもノーマと同意見だった。メアリーと2人でブライアンが行きそうなところを一通り探して回った。見つかったのは真夜中の午後11時10分。ブライアンはまさにコンクリートブロックの間で冷たくなっていた。

 遺体の上には草や紫色の花がばらまかれていた。口には血の混じった唾液の泡が付着し、首には圧痕があった。鼻にはひっかき傷があり、近くには壊れたハサミが落ちていた。一方の刃は折れ、もう一方は折れ曲がっていた。
 検視の結果、死因は「子供による絞殺」と断定された。大人ならば普通、必要以上の力を加える筈だが、本件ではほとんど力が加えられてないからだ。太ももや陰嚢から見つかった刺し傷も皮膚が裂ける程度の軽微なもので、このことも子供の犯行であることを裏づけていた。鼻のひっかき傷は強くつままれたために出来たものだ。つまり、ブライアンは子供にいびり殺されたのである。
 ドブソン警部は2ケ月前のマーティン・ブラウンの件を思い出した。彼もまた子供に絞め殺されたのではないだろうか? 力が弱いから圧痕が残らなかったのだ。

 警察はスコッツウッドの約1000軒の家庭を訪ね、3歳から15歳までの子供たち約1200人に質問用紙を配付した。子供たちの答には矛盾がいくつも見られたが、特に多かった者が2人いた。云うまでもないだろうが、例の2人である。
 メアリーとノーマは、2人とも昼食後はブライアンを見なかったと云っていたが、午後の行動については訊くたびにころころと変わった。しかも、2人の態度は他の子供たちとは明らかに異なっていた。殺人について訊いているというのに、終始ニヤニヤと笑っていたのである。
 8月2日、警察がメアリーを改めて尋問する
と、彼女は思い出したことがあると云い出した。ブライアンが殺された日の午後、体中に草や紫の花をいっぱいつけた少年が「片方の刃が折れるか曲がるかしたハサミ」で遊んでいた。彼はそのハサミで猫の尻尾を切ろうとしていた。そして、理由もなくブライアンを叩き始めた…。
 現場に残されていたハサミについては一般に公表されていなかった。警察はメアリーの証言を重く見て、早速その少年を尋問したが、彼には確固たるアリバイがあった。そこでメアリーが捜査線上に浮上した。彼女はハサミの存在を知っていたのだ。

 8月4日、警察はノーマを改めて尋問した。当初は事件への関与を否定していたノーマだったが、やがて「お父さんのいないところで話したい」と泣き出した。
「ブライアンが死んだ日、私はメアリーとあのコンクリートブロックのところに行きました。そして、何かにつまづきました。見下ろすと、それはブライアンの頭でした。彼は死んでいました。するとメアリーが『あたしが殺したの。誰にも云っちゃダメよ』と云いました」
「どうして死んでいるのが判ったのかね?」
「唇が紫色でした。メアリーは指で唇をなぞって『面白かった』って…」
「ブライアンのそばには何かあったかい?」
「いいえ。でも、メアリーがカミソリの刃を私に見せて、それでお腹を切ったと云いました。彼のシャツをまくりあげて、お腹の上の小さな切り傷を見せました。そして、彼女はカミソリの刃をブロックの下に隠しました」
 彼女の証言通り、ブロックの下からカミソリの刃が発見された。

 その直後、ドブソン警部はメアリーを連行した。既に午前0時を回っていたが、寝ているところを起こされたメアリーは実に落ち着いていた。まるで予期していたかのようだった。当然のことながら、ノーマの証言を完全否定した。そして、立ち上がってこう云った。
「弁護士に電話するわ。ここから出してもらうの。これは洗脳だわ」
 彼女は明らかにテレビの刑事ドラマから影響を受けていた。
 とにかく、何も知らないの一点張りだった。埒が明かないので、その日は家に送り返した。

 翌日、ノーマが証言を変えた。彼女はメアリーがブライアンの首を絞めるのを見ていたというのだ。そして、メアリーがどうやってブライアンの腹にカミソリの刃を当てたかを説明し、傷の場所を図で示した。ドブソン警部が遺体を確認すると、たしかにM字型の5つの傷が確認された。腐敗が始まるまで見えなかったということは、傷がつけられたのは死後と推測された。

 8月7日、ブライアン・ハウが埋葬された。ドブソン警部はその時の模様をこう語る。
「棺が運び出された時、メアリーはハウ家の正面に立っていました。私は彼女を観察していました。そして、もう一日も無駄にできないと思いました。あの子は笑っていました。手を叩かんばかりに笑っていたのです。彼女を早く捕まえなければ、また別の幼児が殺される。私はそう思いました」
 その日の午後4時30分、11歳の殺人者は逮捕された。


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メアリー・ベルが住んでいた家

 逮捕されたメアリーは供述を一転させた。殺人への関与は認めたが、すべてノーマがしたことだと云い出したのである。
「メアリーには感情というものがありませんでした」
 取り調べに付き添った看護婦は語る。
「彼女は、自分たちが犯した恐るべき事を詳細に語りました。その語彙は豊富で、とても子供とは思えません。頭のいい子でした。でも、何も感じていないのです」
 拘置所での監視役を務めた婦人警官も戸惑いを覚えた。
「拘置初日の夜、ベッドの中で突然、歌い出したんです。それも、とてもいい声で…。あんな幼い子が拘置所であんな歌を歌うなんて…」

 あ~あ おまえはよごれはててさ~
 ゴミばこのふたみたいだよ~
 おまえのしたこと とうちゃんがきいたら~
 ベルトでおまえをひっぱたくよ~

 メアリー・ベルとノーマ・ベルの裁判は1968年12月5日に始まった。終始落ち着きがなく、しばしば涙を流したノーマとは対照的に、メアリーは毅然としていた。専門的な証言にも耳を傾け、常に審理に集中していた。
 傍聴席にいた女性がメアリーに微笑みかけたことがある。しかし、彼女は微笑み返さなかった。
「だって、もし笑ったりしたら、陪審はいい印象を受けないと思うわ」
 これがメアリーの云い分だった。とても11歳とは思えない利発さである。しかし、何かが間違っている。

 間違っているといえば、彼女の母親も人として相当間違っていた。厚化粧の上にだらしないブロンドのかつらを被り、しばしば感情的に泣き叫び、何度も裁判を妨げた。「この親にしてこの子あり」と誰もが思ったことだろう。とにかく、母親の振る舞いはあまりにも痛かった。「ノーマ=無罪。メアリー=有罪」の心証が形成されて行った。
 象徴的なのは、裁判が開廷された時のことである。かつらを被った裁判官が入廷すると、ノーマは不安そうに両親の方を振り返ったが、メアリーはかつらに興味を示したのである。この時点で結論は見えていたといっていいだろう。

 判決は12月17日に下された。大方の予想の通り、ノーマには無罪、メアリーには2件の殺人で有罪が下された。メアリーの数々の言動から察するに、彼女に真に必要なのは精神的な治療だろう。しかし、メアリーを受け入れてくれる精神病院は見つからず、結局、通常の矯正施設に送られることとなった。


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釈放されたメアリー・ベル

 大嘘つきで感情を持たない少女、メアリー・ベル。看護婦になりたい理由を訊かれて「だって、人に注射針を刺せるもの」と答えたメアリー・ベル。いったいどうしてこのような怪物が生まれてしまったのだろうか? その正確な原因は判らないが、家庭に問題があったことはまず間違いない。
 まず、前述の通り、母親のベティが相当の変わり者である。17歳の時、未婚のままにメアリーを産んだ時、「早くそれを片付けてちょうだい」という、人とは思えない科白を吐いたと伝えられている。職業は売春婦で、メアリーに愛情を注いだ形跡はまるでない。それどころか、幼いメアリーは母親の常用するドラッグを口に入れ、何度も生死をさまよっている。
 血が繋がっていない父親のビリー・ベルは、要するにベティのヒモだった。窃盗の常習犯で、ベティの稼ぎと生活保護に頼って暮らしていた。メアリーはビリーのことを「叔父」と呼ぶように教育されていた。ベティと夫婦であることがバレると、生活保護が減らされてしまうからだ。
 初めてメアリーの家を訪問した刑事によれば、
「『家』という感じがまったくしない、まるで空家のような家でした。生きていると感じられたのは、大きな犬が吠えていることだけでした」

 矯正施設に入れられたメアリーは、1970年に職員の1人から性的虐待を受けたとして訴え出た。しかし、裁判官はメアリーのでっち上げだとして却下している。
 1977年9月、20歳になったメアリーは仲間のアネット・プリーストと共に脱走し、3日後に逮捕された。その間にメアリーは処女を捨てた。『リトル・ダーリング』という処女捨て競争の映画があったが、あれの脱獄版という感じもしなくはない。
 そして、その2年8ケ月後の1980年5月14日、メアリー・ベルは名前を変えて釈放された。驚くなかれ、この怪物は治療されぬままに娑婆に放たれたのだ。1998年には自らの事件を振り返った『魂の叫び』を出版し、再びセンセーションを巻き起こしたが、その内容については真実であるかどうかは判らない。なにしろ彼女は大嘘つきなのだから。


事件の概要

当時2歳児のジェームス・パトリック・バルガー(James Patrick Bulger/1990年 3月16日-1993年 2月12日)がマージーサイド 州で当時10歳の少年J.ヴェナブレス(1982年 12月8日生まれ)とR.トンプソン(1982年 8月23日生まれ)の2人に誘拐され殺害された。

10歳の少年2人による2歳児殺害事件は英国社会に大きな衝撃を与え、その反応はリバプール とその周辺で特に大きかった。

裁判所は加害少年2人は長い間、世間から隔離されなければならないと判断し、非常に短期間で裁判は結審した。タイラー卿ガスフォース裁判長は、2人は最低でも10年は刑務所 に収監されなければならないとの裁きを下したが、それは2003年 までに釈放されることを意味していた。この裁きに対して一部マスコミが猛反発し、大衆紙ザ・サン は加害少年2人を終身刑にするよう求める署名30万人分をマイケル・ハワード 法務大臣 に届けた。

1995年 、加害少年2人は刑期を最低でも15年に延ばされ、それは2008年 、彼らが26歳になるまで釈放されないことを意味した。しかしながら1997年高等法院 はマイケル・ハワード法相の決定を違憲 と判断し、彼が変更した刑期は却下され、加害少年2人は18歳になった時点で釈放されることになった。

釈放とその影響

J.ヴェナブレスとR.トンプソンは少年院 内での態度の良さが認められ、新しい身分が与えられて2001年 に釈放された。釈放の際、イギリス全土で抗議運動が起こったが、裁判所は2人にこの先一生リバプール周辺には絶対に立ち入らない、週に1回保護監察官 の面接を受ける義務を課し、マスコミ に対しては2人についての報道を行わないように緘口令 を敷いた。

被害者の母親に対しては政府から7,500ポンド の見舞金が支払われたが、後に夫妻は破局し、事件後すぐに離婚した。今ではそれぞれ別の配偶者 と再婚している。

殺害

1993年 2 月12日、J.ヴェナブレスとR.トンプソンの2人は学校を無断欠席した。その日2人はストランド・ショッピングセンターを訪れ、食肉店の外で母親を待っていた被害者を誘いショッピングセンターの外に連れ出した。母親が買い物も終わって店の外に出た時には、被害者は既に連れ去られており、母親はすぐさま警備員に相談した。

その日被害者は近郊の都市カークビー(Kirkby)から母親と共に買い物にストランド・ショッピングセンターを訪れていた。バルガー夫人は息子に店の外で立って待っているように言った。母親が買い物をしている数分間にJ.ヴェナブレスとR.トンプソンの2人は被害者の手を引いてショッピングセンターの外に連れ出した。その様子は警備カメラに15時39分に記録されていた。

J.ヴェナブレスとR.トンプソンの2人は被害者を連れて2マイル半(約4km)歩いた。2人は人気(ひとけ)のない水路で被害者の頭部と顔面に激しい暴行を加え、頭を地面に叩きつけた。後に名乗り出た目撃者は、1人の少年が幼児の胸部を蹴っていたと証言した。

被害者を連れて2人が歩いている所は合計38人に目撃され、その内の何人かは被害者が負傷している事に気づいていた。だがその他の目撃者は被害者が少年らと嬉しそうに歩き、時折笑っていたと証言し、少年2人が後に被害者に暴力をふるうとは思わなかったと述べている。目撃者のうち何人かは2人に声を掛けたが、2人はこれから怪我をした弟を警察に連れて行くところだと言った。最終的に2人は瀕死の被害者をマージーサイド 州ウォルトンの線路上に放置した。

被害者の口には乾電池が詰め込まれ、顔には青いペンキが塗られた。更に加害少年2人は重さ22ポンド (約10kg)の鉄の棒で殴る蹴るの暴行を加えた。遺体を線路に直角に横たわるように放置したのは、事故死と偽装するためだった。これらのことは後の裁判で明らかになった。

警察の調べで、加害少年は2人とも、被害者の顔面に塗られたものと同じ青ペンキが服に付着しており、靴にも血痕が付着していたことが判明した。その血痕をDNA鑑定 したところ、それは明らかに被害者の血液だった。

失踪から2日後の日曜日、遺体が発見されたが、その上を列車が知らずに通過したため、発見された時点では上半身と下半身が轢断された状態になっていた。

この事件を教訓として公共の場に警備カメラの設置が相次いでいる。

裁判

J.ヴェナブレスとR.トンプソンの2名が殺害の容疑で逮捕されると、マスコミはこぞって報道合戦を開始した。その時点で、R.トンプソンは「子供A」('Child A')、J.ヴェナブレスは「子供B」('Child B')と表記された。

しかし裁判が近づくと英国法務省 は事件が世間に与えた重大性や世間の要求を鑑みて、J.ヴェナブレスとR.トンプソン両名の顔写真・経歴・本名の公開を許可し、裁判が終わると加害少年2名の警察に逮捕された直後に撮影される写真まで公開した。

この決定と報道に対して世間の人々は、こんなにも残酷な事件をまだ10歳の子供が犯した事に衝撃を受けた。

マスコミを含めて多くの人々が南セフトン治安判事裁判所周辺に集まり、J.ヴェナブレスとR.トンプソン両名の親族は自治体からの支援を受け、新しい身分と共に他の都市に移住した。

J.ヴェナブレスとR.トンプソン両名の裁判は全てランカシャー州 プレストン 刑事法院で行われ、成人と同じ手続きで裁判が行われた。他の未成年触法者を裁く裁判のように両親の隣に座ることは許されず、1人で被告人席に座ることになった。J.ヴェナブレスとR.トンプソンの2人は、成人の裁判と同じように被告人席から裁判所内にいる人全員が見えるように座らされたが、脇にはソーシャルワーカーが待機していた。

裁判中J.ヴェナブレスとR.トンプソンの2人は両親から引き離され、何日か数時間だけ一緒に過ごすことが許された。裁判の様子は毎日、新聞の一面を写真付きで飾った。

裁判後2人の公的な身分は女王陛下の意向に基づき (at Her Majesty's pleasure) 完全に抹消された。この裁判を担当したモーランド裁判官はJ.ヴェナブレスとR.トンプソンの2人の刑期を最低8年と決めた。決定は後に世論の動きと意見に後押しされる形でタイラー卿ガスフォース大法官 (当時)によって最低15年に変更されたが、2000年 にハリー・ウルフ大法官 (当時)によって8年間に戻された。

家庭環境

法廷ではJ.ヴェナブレスとR.トンプソンの家庭環境から情状酌量は認められなかったが、両名とも悲惨な環境で生まれ育っていた。R.トンプソンは7人兄弟の末子であり、未婚の母であったその母親は重度のアルコール依存症 だった。父親も同じようにアルコール中毒で、母親や子供達に暴行・性的虐待を繰り返していたが、R.トンプソンが5歳の時に蒸発した。R.トンプソンは年上の兄弟からもたびたび暴行を受け、一時期児童保護施設に収容されていた。

R.トンプソンの父親は事件の5年前に家族を捨てて蒸発しており、自宅は事件の1週間前に全焼していた。R.トンプソンの母親A.トンプソンは極度のアルコール中毒で、彼女が7人の子供の面倒を見ることは不可能だった。作家のブレイク・モリソン は、 R.トンプソンの家族について「ぞっとする、この家では子供達は親に傷つけられ、お互いを苦しめている」と表現した。事実、R.トンプソンの兄弟で3番目のP.トンプソンは兄をナイフで脅して警察に通報された記録がある。P.トンプソンは一時期里子に出され、戻ってきてからアスピリン で自殺未遂をしている。また、その騒動で母親ともども病院に収容されている。

J.ヴェナブレスの両親もまた離婚していた。J.ヴェナブレスの母親が病を患った間、J.ヴェナブレスの兄弟姉妹は学習障害から特殊学級への通学を余儀なくされた。J.ヴェナブレスは学級内で孤立したため、注目を集めようとして壁に何度も頭を打ちつける癖があった。しかし教師もクラスメートもJ. ヴェナブレスに注意を払わなかった。

J.ヴェナブレスの両親は離婚していたが、お互い簡単に行き来できる所に住み、J.ヴェナブレスは1週間のうち2日は父親の家で過ごしていた。J.ヴェナブレスの2人の兄と1人の妹は全員学習障害 を抱え、普通学級で学習することは困難だった。

J.ヴェナブレス自身は異常なまでに活発で、他の男子児童とよく殴り合いの喧嘩をした。母親のS.ヴェナブレスは3歳・5歳・7歳の子供を家に残したまま出掛け、保護責任遺棄容疑で警察から呼び出しを受けている。

この件について警察では、S.ヴェナブレスはうつ の兆候が認められ自殺の危険性が高いと記録している。

一部のマスコミ、特に地元の「リバプール・エコー 」紙はJ.ヴェナブレスとR.トンプソン両名の家庭環境は、イギリス国内でも貧困層が多い地域では珍しいものではないと断じ、情状酌量の材料にはならないと報道した。事件後J.ヴェナブレスの母親S.ヴェナブレスとR.トンプソンの母親A.トンプソンの2人は往来でマスコミから集中砲火を浴びた。


釈放

1999年 、弁護人は欧州人権裁判所 にJ.ヴェナブレスとR.トンプソンの2人を釈放するように働きかけた。なぜ成人と同じように裁かれなければならないのか自分で理解できるほどこの2人は成長しておらず、公正に裁かれてもいないと弁護人は訴えた。

欧州人権裁判所大法官 の交代を促し、J.ヴェナブレスとR.トンプソンの2人を未成年者として刑期を15年から8年に短縮させた。

2001年 6月、刑期が8年に戻された半年後、仮釈放委員会はJ.ヴェナブレスとR.トンプソンの2人が再び社会の脅威になることはないと判断し、釈放できると断定した。デイヴィット・ブランケット 法務大臣 (当時)は2001年の夏に釈放を決定した。

釈放に際してJ.ヴェナブレスとR.トンプソンには新しい身分が与えられる事になった。2人の釈放と新しい人生の構築に関連して4億ポンドの公費を要した。

内通者を抱き込んでいた「マンチェスター・イーヴニング・ニューズ 」紙はJ.ヴェナブレスとR.トンプソンの釈放と新しい身分を公開し、後にこれには3万ポンドの罰金を支払うよう裁判所命令が下った。

同社は弁護士を立てて法廷で争ったが敗訴し、最終的には12万ポンドの罰金を支払うことになった。

J.ヴェナブレスとR.トンプソン両名の釈放に関してマスコミは英国 ウェールズ に住んでいる点のみの報道が許可されている。他国のマスコミも同様である。

2001年6月、J.ヴェナブレスの母親は「ニューズ・オブ・ワールド 」誌上で、息子は釈放されてから数週間以内に暴徒に殺されるだろうと発言しているが、彼女の弁護人はマスコミ監視委員(Press Complaints Commission)にこのような発言はないと公式に抗議し、マスコミが世間からの注目を引くために行なった捏造だと断じたが、最終的に母親の(ものとされる)発言は世間からの注目を集める結果となった。

2007年の時点で自警団はJ.ヴェナブレスとR.トンプソンについての現在の動向を知る権利を手に入れたが、それにも拘らずデニーズ・ファーガスさん(被害者の母親)には匿名でR.トンプソンの現在の状況が知らされていた。

彼女は確かに現在のR.トンプソンを見たが、憎しみのあまりその場で麻痺したと語り、どんな方法であっても彼とは一切関わり合いを持たないとしている。

2006年 6月、「サンデイ・ミラー 」紙はR.トンプソンが過去を隠してガールフレンドと結婚したと報じた。

同紙によるとR.トンプソンは釈放後に何度もヘロイン を使用し、万引きで何度も逮捕されたが、今はホワイトカラー の勤労者としてオフィスで勤務しているという。

2010年 ジョン・ヴェナブレスは児童ポルノ規正法違反で逮捕された。ジャック・ストロー英司法相(当時)は”時期尚早な情報公開は刑事司法制度の整合性を損ないかねない”と逮捕された事件の詳細を明らかにしていない。

「風呂長い」おじ殴り死なせる…18歳少年を逮捕

深夜の長風呂を巡って、少年がおじに殴る蹴るの暴行を働き、死なせてしまった。

 15日午前2時過ぎ、東京都江戸川区の住宅から「人が倒れている」と119番通報があった。無職男性(54)が室内で倒れており、近くにいた高校生の甥(18)が暴行を認めたため、警視庁葛西署は傷害容疑で逮捕した。

 男性は病院に運ばれたが、午前3時27分に死亡が確認された。同署は傷害致死容疑に切り替え、捜査を進めている。

 同署によると、少年があまりにもおじの風呂が長いので呼びに行き、そこで口論に。怒りに任せ、風呂に入っていたおじを殴打したという。「腹や顔を殴ったり蹴ったりした」と少年。風呂場の中だけでなく、洗い場などでも殴りかかったという。

 少年とおじは、同じ敷地内で別の家に住んでいたが、おじが自分の家の風呂が故障したため、少年宅に“間借り”していたという。



「ゲーム音うるさい」と弟が大学生の兄刺す 殺人未遂容疑で逮捕

 神奈川県警厚木署は15日、殺人未遂の現行犯で、厚木市の無職の少年(18)を逮捕した。同署によると、容疑を認めている。

 逮捕容疑は15日午後1時5分ごろ、厚木市内の自宅の自室で大学生の兄(20)の左腕などを果物ナイフで刺したとしている。兄は病院に搬送されたが、命に別条はないという。

 同署によると、少年の部屋のゲームの音がうるさいと兄が壁をたたくなどしたところ口論になり、少年が腹を刺そうとしたという。


陸自で行き過ぎ体罰 尻にアイロン、股間に洗濯バサミ


 北海道旭川市の陸上自衛隊第2師団は15日、陸曹になる前に実施する教育課程で昨年9月、22~30歳の陸士長11人に暴行を加えたとして、中心となった2等陸曹(33)を停職60日、1等陸尉(40)を停職16日の懲戒処分にするなど、5人を処分した。悪ふざけ半分の体罰がエスカレートしたもので第2師団は「お恥ずかしい限り。今回のような事件を起こしたことを遺憾に思う」としている。

 自衛隊屈指といわれる精鋭部隊で、悪質な体罰が明らかになった。旭川市にある陸自第2師団は、東日本大震災の援助活動でも奮闘した部隊で、真っ先に海外へと派遣されることが多い。訓練がひときわ厳しい師団としても知られているが、その厳しさを履き違えたような行為が起こってしまった。

 第2師団によると、2等陸曹は集合時間に遅れた陸士長の左太ももを蹴り、3週間のけがを負わせたほか、6人に人間ピラミッドを組ませた上で余熱のあるアイロンを尻に当てたりした。このとき、ピラミッドの台座になった陸士は、足を痛めて通院していたという。また、1等陸尉は、陸士長2人に対し、下着の上から洗濯ばさみで股間を挟んで引っ張るなどした。

 他にも、3等陸曹(29)が、教育課程の時間外に激辛のペッパーソースを付けたポテトチップスを女性陸士長ら2人に食べさせるなど、あきれた体罰体質が明らかになった。この3等陸曹と、暴行を黙認した3等陸曹2人には1~7日の停職処分が下された。

 教育課程は、陸曹になる陸士長を対象に約3週間実施される。精神面、共通士気、国防意識の向上が目的で、基本教練、斥候訓練、戦闘訓練なども行う。次に陸曹教育隊への入隊を経て、3等陸曹に昇進する。

 訓練生11人全員の陸士長が、教育課程修了4日前の9月26日にそろって上部組織にあたる第2後方支援連隊本部に報告し、理不尽な体罰が明らかになった。第2師団の広報担当者は「悪ふざけが私的制裁に発展してしまった。お恥ずかしい限りです。再発防止に努めたい」と話した。処分を受けた5人も反省しているという。

1997年、神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件で、腹部を刺され重傷を負った当時小学3年の女児が、看護師の道を歩んでいる。

24歳になった女性は神戸新聞社に初めて手記を寄せ、この15年を振り返るとともに、加害男性に対し、「あなたは更生したのですか」と問い掛ける。(長谷部崇、中部 剛)


 女性は97年3月16日、自宅近くの路上で、すれ違いざま腹部を刺された。ナイフは胃を貫通し、深さ8センチにも達する重傷。

神戸市内の病院の集中治療室(ICU)に搬送され、一命を取り留めた。この時、優しく介抱され、「看護師になる」と幼心に刻んだ。

 男性が医療少年院を仮退院した2004年、謝罪の手紙が届いたが、以来、男性からの連絡は途絶えたまま。女性は手記の中で「あなたは今どこで何をしているのですか」「償いの気持ちはあるのですか」と問う。加害男性の近況が分からない不快感、不安感をにじませる。

 女性は今でも、テレビドラマで人が刺されるシーンを直視できないという。一時期は、10代くらいの少年を見掛けると、刺された時の恐怖がよみがえり、足がすくんだ。

 友人に傷を見られるのが嫌で、修学旅行に行くのを渋ったこともあった。「あの時の腹部の傷もまだ残っています。身も心も傷つきました」と手記に記す。

 つらいことはたくさんあったが、「看護師になる」と決めた15年前の思いを大切にしてきた。受験勉強でくじけそうにもなったが、家族に支えられ、昨春から兵庫県内の病院で看護師として働き始めた。

まだまだ新米だが、「重症の人が元気になって、退院していく姿を見るとうれしい」と笑顔を見せる。

 女性の両親は、これまで加害男性の両親と5回ほど面会したという。

女性は「15年間、事件にも負けず生きてきました。私の気持ちがやっと伝えられるときが来たと思います」と手記に記し、次の機会には一緒に会うつもりだ。

 「自分の言葉で被害者の思いを伝えさせたい」と母親(51)。男性の両親の15年を思い、「成長したこの子の姿が、男性の両親にとって救いになるかもしれない」と、複雑な心境ものぞかせる。

 女性は「つらい経験も絶対無駄にはしません。仕事に誇りを持って生涯生きていきます」と手記を締めくくっている。


【神戸連続児童殺傷事件】 1997年2~5月、神戸市須磨区で小学生5人が相次いで襲われた。3月16日、小学4年の山下彩花ちゃん=当時(10)=が金づちで頭を殴られ死亡、小3女児が腹をナイフで刺され重傷。5月24日には小6の土師(はせ)淳君=当時(11)=が殺害された。兵庫県警は6月28日、殺人などの容疑で中学3年の少年=当時(14)=を逮捕した。


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そうとうでかい

 飼い主よりもそうとう大きい、室内で飼うにはあまりにも無謀すぎる巨大なペット犬たちの画像が特集されていたよ。もともと大きい犬種なのだろうけど、その中でも特に大きい子たちみたいだね。




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