本棚と読書 その壱
こんな本持ってたっけ?こんな本いつ読んだっけ?学生時代に読んだ(であろう)本棚に並んだそれらしき文学作品を見てしばらく考え込んでいた。文学と言えば、中学高校くらいの時に、夏休みの読書感想の課題などで強引に読まされ、泣く泣く読んだ記憶があるが、そもそも、現代の中高生に文学など理解できるわけがない。時代背景が違いすぎるのである。不自由な環境下で、人生の悩みと葛藤を哲学した時代の文章の感性を、いろんな意味で自由に自分を表現できる現代の中高生が理解できるわけがない。かく言う僕自身、文学をようやく読めるようになったのは20歳以降の大学生時代である。つまり、ある程度の人生経験がないと、(古典)文学の崇高さは現代人には奥が深すぎて理解できないのである。さて、最近は電車の中を眺めると、本を読んでいる人よりプレステやDSに興じている人のほうが多い。今や、岩波の売行きそれ自体は風前の灯であり、図書館への販売でなんとか売上を維持している状態らしい。僕の高校くらいの頃は、誰しもが、小林秀雄の文章なんかと四苦八苦して格闘したりして、岩波程度は月に最低一冊くらいは読んでいたんじゃなかろうか?岩波でも軽いものから、専門性の高いもの、高度なもの、様々あるが、今でも軽いものなら電車の中で(往復40分)4日もあれば読んでしまう。小説ならその世界観に入ってしまえばもっと早い。楽しむ読書と予防の読書、僕の読書は二種類にわけられている。読書力の低下は、即、脳の劣化につながるので、できるだけ難しめの本を早く熟読するという矛盾した課題を課すことで劣化予防を推進しているわけである。一方で、大量の本を読んで大量の情報を得なけらばならない、さらにそれをアウトプットして実践に役立てるようにしなければならない、という矛盾もあったりする。もっともそれはそれで、ややなし崩し的ではあるが、やりくりする方法がある。それは『全部読まないこと』。つまり、楽しむ読書と予防の読書のさらに上位に、読む読書と(全部は)読まない読書というカテゴライズがあるわけである。実はその上にはさらにもっと大きなカテゴライズがあるんだけれでも・・・今日はこれくらいにしとこう・・・