昨日、差別の解消には「慣れが大切」ということを書きました。
その時に、私が発言を引用した方は、このようなことも語っています。
「多様性」を語る多くの方は「多様性を受け入れない多様性」を否定している気がします。
仰るとおり。
「多様性を受け入れない多様性」は認められない、というのが、多様性推進のルールになっています。
これは必要なルールだと思います。
多様性を受け入れないことを認めれば、特定の属性をもつ人(障がい者、LGBT、女性医師など)を受け入れない人がいることで、その属性をもつ人がそうでない人に比べて生きづらさを感じやすくなるでしょう。
そもそも、「多様性を受け入れないこと」は「認められるべき多様性」のひとつになりえないのです。
しかしこの方のように、そこに違和感をもつ人が出てきたら、この点をどう認識し考えていけばいいでしょうか。
私自身は、一部マジョリティが心配するほどマイノリティのわがままが社会で通っているとは思いませんし、マイノリティ側が改善を求められていることも多いと思います。暴力を振るうなとか。
むしろ、一部の排他的な人により、障害のある人が必要な合理的配慮を求めても、「障害を盾にしたわがままの主張」と非難されることもまだまだ多いと思います。
また、マイノリティ当事者には、いくら多様性推進とかバリアフリーとか合理的配慮をしても、なじめずはじき出される人々はいるでしょう。
マイノリティ当事者を受け入れる側が過度な負担を感じないように、また受け入れられた当事者が持続的に過ごせるように、冷静に丁寧に向き合える人が、間に入って調整する仕組みがより整うといいなと思います。第三者機関による障害者の職場への定着支援などがそうですね。
そうしたら、相互不信が緩和されて、「違いを楽しむ」あるいは「違いを気にしなくなる」社会へと進むんじゃないでしょうか。
今後、社会でそういうニーズ(調整役が求められる場面)はますます増えてくると思われます(正直私もそこまでのスキルはないですが)。
その方とは、このような結論で私と意見が一致しました。