ハラスメント報道についての葛藤 当事者側に立つか社会の側に立つか | 艶(あで)やかに派手やかに

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「女性」✕「発達障害」✕「アラサー」×「グローバル」の立場からダイバーシティ(多様性)について発信しています。

職業柄、職場のPCでも家でもテレビのニュースは付けっぱなしですが、困ることがあります。
それはニュースの内容。セクハラ・パワハラ・差別・虐待のニュースが入ってきた時です。
こうしたニュースは、マイノリティ当事者と、そうでない・よく知らない人で反応が分かれやすいです。

マイノリティ当事者は往々にして、つらい体験から当事者視点で「こんなにひどいめにあってきた」「親や会社や社会はもっと私たちにこうしてくれるべきだ」と糾弾の言葉をとうとうと述べるということになりがちです。発達障害である私もそうでした。
しかし、TEAM挑戦やココライフ女子部の活動などで多様な人々からのぬくもりを知り、当事者だけの立場から「どうしたら生きづらさをなくせるかを多様な人と混じって考えていこう」と社会の視点で考える段階に最近ようやく進めました。

それなのに、セクハラ・パワハラ・差別・虐待のニュースが入ってきたら、その瞬間に当事者視点で不満ばかりだった過去の生きづらさの世界にタイムスリップで引き戻されそうな感覚が来るのです。それはとても苦しい。

ハラスメントのニュースは、当事者側に近づけば近づくするほど「被害者がいかに虐げられているか、加害者がいかに悪質か、社会がいかに無関心か」を糾弾する内容になります。それはストレートに問題提起してるので、ニュースとしては目を引き説得力を強めます。
マイノリティ当事者なら、それを「よく伝えてくれた」と思う一方、副作用もあります。社会をひどいところだと過剰に考えるようになることがある。

財務省の女性へのセクハラ事件。被害者への侮辱的な対応や発言が繰り返し伝えられる。女性なら男性への憎しみと社会への絶望感をかきたてられ「加害者であることを認識して反省しろ!」「そうだ、そうだ」と声高に叫んでもむしろおかしくないと思います。
相模原の障害者施設での障害者への殺傷事件もそうです。加害者の障害者否定発言が繰り返し伝えられる。障害のある人なら健常者への猜疑心と社会への絶望感をかき立てられてもおかしくありません。事件直後はニュースの影響で体調を崩した障害のある人もいたようです。これから裁判になればそういう局面が出てくるでしょう。(犯人は自己愛性パーソナリティ障害と伝えられ、健常者とは言えない人物でしたが…)

私はココライフ女子部では女性×障害の当事者としての取材や発信を大切にしてきましたし、本業でもそうしていきたいです。
しかしながら、そこにはジレンマも。特にハラスメント・差別・虐待といったテーマでは、当事者視点に近付けば近付くほど糾弾になりがち。被害者や加害者のショッキングな言葉をクローズアップとか、「これが今の社会を象徴する出来事です」的なコメントとか。
あれには大パニックに発展しかねない。しかし、過去のフラッシュバックとタイムスリップが起きてしまうのと闘いながら発信しています。当事者だからこそ、一層知らせて社会を動かしていかなければ! という使命感もあります。

糾弾だけでは問題は解決しないとわかってはいますが、冷静に解決方法を探そうという姿勢を打ち出すのもなかなか難しい。
当事者側に戻るか社会の側にとどまるかの激しい葛藤が私のなかにあります。当事者視点も絶対正しいわけではなく、同じ属性の当事者の主張をそのまま流すのが必ずしもいいとは言い切れないのですが。一体どこで嫌われる勇気を発揮していくか。