受容されやすい社会を選ぶ | 艶(あで)やかに派手やかに

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「女性」✕「発達障害」✕「アラサー」×「グローバル」の立場からダイバーシティ(多様性)について発信しています。



女性に対するセクハラのような他者から負わされる苦しみを女性が受容する必要はないのと同じように、障害者に対する虐待(身体的・性的・精神的・経済的)のような他者から負わされる苦しみを患者・障害者が受容する必要はありません。
そのような他者からの負わされる苦しみを和らげる責任を負っているのは患者・障害者個人ではなく社会であり、社会の方が障害を受容することを社会受容と言います。

リンク先の森山さんの言葉は、高校の現代社会の教科書に出てくるような主張です。
しかし、力のない人が何を言っても、「そんなのは綺麗事」と片付けられてしまうのが今の社会です。
本来、男性→女性、健常者→障害者、といった、強い立場の人は弱い立場の人に思いやりをもって接するものですが、それは今の社会ではあまりに楽観的すぎる考えでしょうか。

なぜ、生きづらさを抱えた人の言うことは「わがまま」と片付けられてしまうのでしょうか。
それは、悲しいですが生きづらさを抱えた側にも原因はあると思います。
生きづらさを抱えた人の主張は、悲しいですが狭い視点、自分の立場だけを考えた主張になりやすい。生きづらさゆえの機会損失から、経験が不足しやすいからです。
だから「一緒にいると疲れる」というのが、強い立場の人の本音。無意識の配慮から、面と向かって言う人は少ない。
しかし少数ながら言う人もいる。実は私の両親もそうでした。 私の育った家庭は典型的な昭和のサラリーマン家庭でしたから、両親が発達に偏りのある子を理解できなかったり、身近に多様な生き方をしているロールモデルがいないことから発達凹凸の子供の将来を見出せず途方に暮れてしまっていたのは自然な流れかもしれません。

私なら、言われるのはつらいですが、本音を言ってくれたということで感謝しなければならない、と考えます。

さて、生きづらさを抱えた人の主張を「社会のせいにするな!」と突っぱねず、「社会がどう受け入れるか」を一緒に考えてくれる人を求めるのは甘すぎでしょうか?

生きづらさを抱えた人にやさしい社会を作ろうという思いで行動する人は多くいます。
そのこと自体は非常に有意義ですが、ただそのような行動は戦略的に、賢くやっていきましょう。
社会はどこも同じではなく、変わりやすいところから変わります。そのような社会を根気よく探すしかないでしょう。
あまりに伝統的で保守的なところで、社会を変えていこうと孤軍奮闘するのは精神的にきついし効果が薄い。
一方、進歩派を自称するところには、協力的な人も多いけれど弱者をダシに利用するようなわけわからない人も多いので気をつけたい。
いまでは、先進的な(昭和的メンタリティでない)企業のなかで進めていくのが一番賢いかなと思います。

受容されやすい社会を選ぶーそうすれば、冷たい場所に見えた社会が、ずいぶん懐の深い場所に見えるようになります。
そして受容されやすい場所で、強い立場の人が弱い立場の人、生きづらさを抱えた人に思いやりをもって接し、弱い立場の人、生きづらさを抱えた人が強い立場の人の思いやりに感謝して成長する方向に進めば、と思います。
何度も言われていることですが、他人を変えるより、自分が変わる方が早いし簡単ですから。

写真は「受容されやすい場所」をイメージ。ある月曜日のお昼に丸ビルで行われていた、パラスポーツ体験イベントにて。隣はココライフ女子部タレントのリョーコ。また、丸ビルは私の現在の職場がある場所でもあります。