耳の聞こえない私が4カ国語しゃべれる理由 | 艶(あで)やかに派手やかに

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「女性」✕「発達障害」✕「アラサー」×「グローバル」の立場からダイバーシティ(多様性)について発信しています。

障害ゆえに生きづらさを抱えた人の体験談とは真逆の、人生を楽しんでいる女性のめっぽう明るいお話。

 

著者の金修琳(キム・スーリン)さんは、韓国で生まれました。

幼くして聴力を失い、両親の離婚、母からの厳しいしつけ、学校でのいじめもあり、ヘビーな子供時代でした。このあたりは生きづらさ路線です。

母は娘の聴覚障害も受け入れない考えでした。もっとも母は表現が不器用なだけで、娘を深く愛していたということに、著者は大人になって気付きます。

 

小学校の時に韓国から日本に移住し、以来日本の生活に溶け込んで暮らします。2つめの言語は日本語。

中学・高校時代、英語の成績は散々でしたが、それでも「英語をマスターしたい!」と本気で思い、イギリスにホームステイ。3つめの言語、英語をマスター。

 

帰国後は短大に入学し、卒業後は自ら障害者手帳を取得して障害者雇用制度を利用し、王子製紙に就職。

職場では理解を得られ、自由になるお金も手に入り、チアリーダー部に所属するなどOL生活を謳歌しました。

 

しかしそんな生活も、失恋の末に終わり。その後10か月間、「うつ」「ひきこもり」の生きづらい世界に。

 

けれど、そこからのリハビリが尋常じゃない!

バックパッカーになり、3年間で30カ国を回ります。

初めに訪れたのは、一周回ったオーストラリア。

自然の雄大さに魅せられた南アフリカ・ジンバブエ。

陽気さにすっかり魅せられ、語学学校で4つめの言語、スペイン語を習得したスペイン。この時は2002年、ワールドカップが行われていたころ。スペインでスペイン対韓国戦を観戦し、韓国が勝ってしまったことでうれしい半面危険な思いもしました。

ヒッチハイクで日本人、イタリア人とともに旅したカナダ。

旅を続けていくうちに、昔と比べ、一皮むけた自分を体感したメキシコ。一方で、現実に戻れなくなったバックパッカーの成れの果てを見て怖い思いもしました。

ここまで回れる人は健常者でもなかなかいないです。

 

旅も気が済んで、落ち着こうと思った時には30歳。4年のブランク(ひきこもり、放浪の旅)の末、「ちゃんと就職できるかな…」と思ってたら…

入っちゃったよ、ゴールドマン・サックス!!

そうです、アメリカのMBA取っていて、おっそろしい金額の報酬もらっている人々がうようよしているところです。

これは漫画ではなく、実話です。

 

にしても、さすが世界一流証券会社に入る障害当事者となってくると違いますね。

一般枠か障害者枠かというテーマはしばしば議論になりますが、障害者枠がみな時給1000円の軽作業というわけではなく、キャリアアップしたい当事者を好む企業も一定数あることは確か。

でも、ただ社会に怒りをぶつけるだけとか、権利を主張するだけとか、理解や配慮を求めるだけの人々は、たとえ制度を利用できたとしても、そういうチャンスに乗れることはないでしょう。

著者には社会を怨むところが一点もない。ハンディキャップを武器にし、周りを引き込んで、味方にしていっています。ハンディがあったり、挫折を経験したりして、そこから這い上がろうとする人は強いです。気が付いたら「えっ?」といわれるような企業から声がかかるようになっていました。

 

その後、結婚もし、子供にも恵まれ、今ではクレディ・スイスに勤めながら、子育てに追われる日々を送っている、とのことです。

 

聴覚障害の人は日本語の漢字の読み方を覚えることに大変なハンディを抱えるらしく、本文の漢字にはすべてルビがふられています。

個人的には、語学の習得においてのプロセスをもっと知りたいと思いました。直接お会いする機会があれば、インタビューして尋ねてみたいところです。