さて、「フィットネス」から「生きづらさ」に戻ります。
障害者など生きづらさを抱えた人は、場数が圧倒的に少ないから生きづらくなるんです。
本人の人間性の問題と、周囲の意識の問題が絡み合って、試す機会・挑戦する機会が妨げられる。
その結果、文字通り「生きづらい世の中」ができあがってしまうんです。
企業は、短期的に見て利益が出る基準に達していれば残す。達していなければ「○○さんはここでやっていくのは難しいんじゃないですか?」と「アドバイス」して、遠回しに自分から辞めてもらうようにする。
利益追求型でない公共団体も似たような傾向です。職場の雰囲気になじめそうであれば残す。いることで雰囲気が悪くなり効率が落ちそうになれば、仕事をさせないなどして、遠回しに自分から辞めてもらうようにする。
良いか悪いかは別として、それが当たり前になっています。
これを「大変な時代になった」と捉えるか、「試して試して自分の人生を生きられる時代になった」と捉えるかは、人それぞれです。(そうは言っても食べていけなきゃ元も子もないですが)
「ボタンの掛け違え」とよく言われます。
どんな環境を選ぶのか、それを誤ると、試す機会・挑戦する機会が阻害されていく。
そうなると打開は極めて難しくなり、初めからボタンを掛け直さなければならなくなります。
初めのボタンは正しい場所にかける。
「居場所」は、どんなに頑張ってもダメで、追い詰められてきた人には、必要な時期もあるでしょう。
でも自分を見つめ直すことが終わったら、次の場所、「試す場所」へ移ることが必要です。
「居場所」には辿りつけたものの、そこに安住し、成長が止まってしまう。
そしていつまでも「親が悪い、会社が悪い、社会が悪い」と言い続ける。
一部にそういう人がいるのも事実です。
「居場所」と「試す場所」の違い。
「居場所」は居心地がいいですが、居心地がいいだけで終わります。
「試す場所」は居心地がいいとは限りませんが、成長しようとすれば居心地がいいだけでなく何か自分で生み出せる場所になります。
「居場所」では、「厳しさから保護して下さい」「ミスをしても叱らず優しく接して下さい」「ありのままを受け入れて下さい」と言っても、「そうだね」と聞いてくれます。
しかし「試す場所」では、それでは通らないでしょう。そこが引っかかって、生きづらさを抱えた人は、そんな場所に戻るより、居場所に居続けたい、と思うのでしょう。
かといって、そんな人を何も考えずに「試す場所」に放り込むのでは、いい結果にならず、かえって周囲に迷惑をかけてしまい、再び傷ついて終わることもあります。
そこで、生きづらさを抱えた人には、指導の仕方を工夫する人がいる「試す場所」が必要です。
チーム挑戦は「居場所」ではなく「試す場所」。
ダイバーシティ富士登山など、色々な試す機会がありました。
自分も生きづらいなか、他人の生きづらさを想像する、寄り添う力が出てきました。
身体を使ったアクティビティをするところも「試す場所」。
私の社会人生活はフィットネスクラブ通いに支えられてきました。
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