理解の難しさを考える | 艶(あで)やかに派手やかに

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発達障害を持つ人には、個性豊かな人も多く、特に興味のあることに真剣に取り組んでいる姿を見ていると「とても純粋だなあ」と思えることも確かにあります。その場にいると、不思議なやさしい空気ができて、心を洗われることさえあります。

それなのに、なぜ理解されず排除されることが多いのでしょうか?

そう、ある行動が問題になって、周囲との間に軋轢が起きる場合があることです。

例えば、接客業でお客様の「間違った」「おかしな」行動に対して「そんなことをするのはやめて下さい」と正直に言い過ぎて「客を見下している」という苦情を受けてしまうこと。あるいは、事務職で書類のミスが何度も続き、周囲がもう一度確認しなければならなくなり二度手間になってしまうこと。私もそうでしたし、そのことを小説「艶やかに派手やかに」にもつづっています。

冠地情さんのお母様、冠地俊子さんは、(理解されないのは)「見えない障害だから」というのは本質ではなく、「社会的に許容されない部分があるから」と語っていました。含蓄のあるお言葉だと思いました。

 

私の生まれ育ったころは、生きづらさを訴えること自体が「甘えだ」とされ、できない立場で何を言っても「お前が言うな。お前がきちんとしていればいいんだ」と抑圧されてきました。

大人になって診断されてから、自分と同じような経験をしてきた人が、長い間実の親にさえ理解されなかったつらさや悔しさを語っているのを聞き、自分だけじゃないんだ、と救われた気持ちになれました。

しかしその後、ある人の不可解な言動で実害を被り、大変不快な思いをしたことがありました。その人が、実は私と似たような傾向を持っていたことがわかりました。これまで身をもって経験してきたことと全く逆のシチュエーションでした。

 

私は考えさせられました。社会は障害をどこまで受け入れられるか? 当事者は社会にどこまで近づくべきか?

 

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