相互理解のために | 艶(あで)やかに派手やかに

艶(あで)やかに派手やかに

「女性」✕「発達障害」✕「アラサー」×「グローバル」の立場からダイバーシティ(多様性)について発信しています。

生きづらさを訴える側・理解できず排除する側に分かれて争う。このままでいいのでしょうか?

どちらか一方が悪いとするのではなく、互いの話に耳を傾け、相互理解することはできないでしょうか?

 

私は、自分と似たような経験をしてきた人々が、親への恨みごとや社会への恨みごとを言うのを山ほど聞いてきました。

発達障害に限らず障害者を受け入れられない人を「悪い人」とみなして攻撃する、というのも山ほど見てきました。

でも大上段から、

「受け入れられる人は進んでいて、受け入れられない人は遅れている」

こう言われるとどうでしょうか? へそ曲がりな人は「はぁ? 差別者扱いするわけ?」と言いたくなるでしょう。いえ普通の人であっても、何か違和感を持ちながら、その気持ちに蓋をしてしまう、ということがあります。

 

理解が進まないことにはそれなりの理由がある、と今では思うのです。

世の中には一部に、障害者への抵抗感を隠さずにずけずけ言う人もいます。でもそのような人の言うことも、聞いていて腹が立つけど、すべてが悪意に満ちた偏見というわけでもなく、むしろ人間の自然な感情に逆らわない正直な人だなあ、と思うこともあります。お勧めはしませんが、腫れ者扱いして口を閉ざすより、起爆剤になってくれると思います。

だからといって、排除される側は内省が行き過ぎて、認める必要のない言いがかりまで認めてしまっては、排除する側に振り回され、立場はさらに悪くなるでしょう。それこそ理解は進まなくなります。

 

また、障害のあるなしに関わらず、経験不足ゆえにできない人を排除するタイプの人に出会うこともありました。そんな時は、排除する動きに立ち向かうこと、こちらが悪いのではなく相手が非寛容な人だからと考えて抗議する(面と向かってではないですよ)健全な力も必要だと思ったのでした。(普通に考えても、ある新人がちょっとできなかったからといってすぐに首にしていたら、その会社はとっくにつぶれています)

 

はじめは理解的でなかった人が、何かのきっかけで協力的になることもあります。それなら言うことなしです。

ただ、最後まで理解を拒み続ける人というのもいると思います。そのような人とは一緒に何か良いことができることは少なく、一緒に過ごすこと自体がお互いのためにならない、いやそればかりか周りの人すべてを不幸にしてしまうこともよくあります。

そのような人とは距離を置くことが、自分と周りの人を守ることになると思います。

自閉っこに対して「なんでこれだけ言ってもわからないんだ!」と怒るのがいけないのと同じように、「理解できない、したくない」人に対して「なんでこれだけ言ってもわからないんだ!」と怒ることはせず、「理解する、しない」も多様性と考えるべきでしょう。

 

自分の属するコミュニティが「理解できない、したくない」人ばかりだったら? 難しいですね。

そんな時は、自分ができる努力で付き合える人、自分ができる努力で居続けられるコミュニティを再選択する。そこで誠意を尽くす。それでいいのではないか、と思ったのでした。

 

相互理解と書きましたが、ここにも罠はあります。冠地情さんは「相互理解を求める人は自分に都合のいい理解を求める」と語っていますが、的を得ています。ある一方にとっては「少しの負担での理解」、もう一方にとっては「すごい負担での理解」ならば、それはもはや相互理解ではありませんね。

だから、互いに自分にできる努力で歩み寄ることが大事だと思うのです。そうしてうまくいく人同士を「相性がいい」というのでしょう。

 

厚生労働省「発達障害の理解のために」


 

関連記事:

「アデハデ」に込めた想い・第40回 自分も生きづらいなか、他人の生きづらさに寄り添う

「アデハデ」に込めた想い・第67回 「たまにはオレの空気読め」「定型の苦にも寄り添おう

冠地情さん インターネットラジオ出演「大好き」「楽しい」「ありがとう」

 

フィットネス(全般) ブログランキングへ

発達障害 ブログランキングへ

エッセイ・随筆 ブログランキングへ