「アデハデ」に込めた想い・第40回 自分も生きづらいなか、他人の生きづらさに寄り添う | 艶(あで)やかに派手やかに

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突然ですが、ある踏み絵のような問いかけをします。
あなたがある店に行った時、その店の従業員があなたに対して「接客業としてあるまじき発言」をしました。その従業員が実は、コミュニケーションが苦手で他人に不適切な発言をしてしまうことのあるADHDやアスペルガーの人でした。そういう時、あなたはその従業員に対して寛容な心でいられるでしょうか?
もう一つ、あなたの隣人が事故で車椅子生活になり、あなたは日常的にその隣人の世話をしなければならなくなりました。その隣人は、はじめはあなたに感謝していましたが、外出や人との交流が少なくなったこともあり、だんだんあなたに依存するようになってきました。あなたが仕事や学校の時も、携帯電話に一日何通も自分のことを一方的に伝える内容のメールが来るようになりました。「24時間一緒にいてほしい。あなたでないと嫌だ」と言うこともあります。そういう時、あなたはその隣人にどこまで優しくできるでしょうか?
私は発達障害で苦手なことがあったり、生きづらさを訴える人たちの声を聞いてきました。それらは共感することが多いし、実際私も似たようなことを周りの人達に言っていました。
しかし、同じ障害を持つ人・医者・心理・福祉の人には共感されても、普通の会社のサラリーマン・経営者・主婦・学生には「いや、おれだって生きづらいよ」「それ言うなら私だって権利ほしいわよ」と言われてしまうのです。それが現実でした。
考えてみると、発達障害に限らず、生きづらさを抱えた人は数多く存在します。その誰もが理解されたがっているのです。そんななか、ひとりの発達障害の人が生きづらさを主張したところで、そうなってしまう、ということでした。なったこともないし、わからないから、そう言わざるを得ない、という面もありました。
自分の生きづらさは主張しても、他人の生きづらさを想像できない人は、支援される機会をも損ないます。私はそこに行き着いたのでした。
「もう私も、私のためにみんなも、がまんしなくていいようにしたい」
「アデハデ」のある場面で、ヒロイン辻原紀香がこんな台詞を言うところがあります。ヒロインは多様な人々との触れ合いを通して、生きづらさのなかにあっても、他人の生きづらさまで想像し、それを哀れむようにまで成長するのです。
「人は自分も生きづらいなか、他人の生きづらさに寄り添えるか?」
それができない人もいるけれど、できる人もいるのです。障害の有無問わず。
ただあえて目を背けずに言うと、ADHDや自閉ほか精神的な問題があると、そうでない場合に比べて、他人の生きづらさを想像するのが難しくなるのでは、とは思います。それは特性がそうさせてしまう面もあります。私はそのような問題にも向き合っていこうと思っています。

富士登山の前日、記事をそんなタイトルにしました。
富士山の頂上では誰もが苦しい。しかしそこでは助け合いが不可欠。また、健常者が障害者をサポートするだけでなく、障害のあるメンバーに健常なメンバーがサポートされることもあります。私は四度の富士登山を通じて、「自分も生きづらいなか、他人の生きづらさに寄り添う」生き方を選びました。

長谷 ゆう

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