フィンチという一家の最後の1人として、不慮の死を遂げた親族たちの最期の時を追体験するゲームです。これはプレイしたのが結構前で、2020年の冬、ゲーム機を買って割とすぐの頃っぽい(ゲーム機側に記録が残っていた)。

 故人の想い出や記憶を辿るというところが、最近やってたゲームと共通するなと思ったので、頑張って思い出しながら感想を書こうかなと思います。ゲームの割と肝であろうギミックに触れるし、関連して思い出した映画についても、若干のネタバレ感があるので、一旦動画を挟みます。

 

 

 記事冒頭でも述べましたが、本作はフィンチという一家の最後の1人として、不慮の死を遂げた親族たちの最期の時を追体験するゲーム。大半はイーディス・フィンチという若い女性の視点で、同じ名前を持つ曾祖母が暮らしていた屋敷を探索し、故人ゆかりの品を見つけると、今度はその故人の視点になって、その最期の時までの記憶を辿るという形になっています。故人の記憶を辿るパートが、人によって物語の雰囲気もゲームの内容も異なり、いろんなゲームを体験できるような感じで面白かったな。主人公が最期の時を紐解く親族は乳児から高齢者まで、また隠遁生活を送る者から芸能界のスターまで様々な背景を持っており、それぞれに異なる不穏な雰囲気と死の繰り返しが、まるで幻想小説の短編小説を読んでいるよう。
 さて本作、一人称視点のゲームなので、操作しているキャラクター自身の姿はほとんど見えないんですよね。これがなんとも叙述トリック的というか。気づく人は早々に気づくようなんですけど(ちらっと見た実況動画では気づいていた、と思う)、ゲームの冒頭、フィンチ家の屋敷のある島へ向かう船上でノートを開く人物と、次のシーンでフィンチ家の屋敷を訪ねる人物は、実は別人だったという仕掛けになっています。屋敷に着いた後も、紐解く物語ごとに異なる人物の視点になるものだから、私はクリアするまでゲーム冒頭のシーンのことすっかり忘れちゃってたんですけど、ラストで同じシーンに戻ってきてようやくその仕掛けに気づいてはっとしました。こういう瞬間って不思議な快感がありますよね。よくできてるな~。

 本作の原題は、"What Remains of Edith Finch"、つまり「イーディス・フィンチの遺したもの」という意味合い。これは、一義的にはイーディス・シニア、つまり主人公の曾祖母が残した、ゲームの舞台となる屋敷(と一族の死にまつわる物語)のことを指しているものと思いますが、最後までプレイすると二つ目の意味が見えてくる気がする(多分かけてると思う)ので、邦題からその意味合いが落ちちゃっているのがちょっともったいない。でもプレイしたくなるタイトルという意味では、この訳がいいんだろうな。難しいね。
 同じような感想を持ったことがあるのが『マローボーン家の掟』という映画。これは原題が"Marrowbone"なんですけど、映画の最後にこのタイトルが大写しになったときに「や、やられた~!」ってなったんですよね。っていう話は映画の感想とともに改めて書きたい。アマプラ見放題に来ないかな……。