本書の直接の感想ではありませんが、読んでいて私が『ボーは恐れている』をおいしくいただけなかったのはそういうことか~となんとなく腑に落ちることがあったので。

 

 本書の第4章は「ホラー小説を解読する」というタイトルで、著者の平山夢明の経験に基づくホラー・怪談の書き方を通じて「恐怖を学ぶ」ことにより、恐怖を楽しむ視野を広げようという内容です。いくつか物語づくりのコツが示されまして、そのあたり読みながら、そっかそっか~と思っていました。

 その一つがカタルシス。「高揚感を持てる救いがあるかどうか」(p.120)ということですが、私は『ボーは~』にはそれが感じられなかったな~。「すべてに救いがない話は、読者に毒を飲ませるようなもの」(p.121)とあり、まさにまさに、と思いながら読んでました。それでも面白いものには「ありきたりな物語とは異なる深み『毒を飲むに足る理由』が潜んでいるのかも」(p.121)と続くんですが、『ボーは~』にそれを見出せなかったんだよなぁ。なんかあったのかなぁ。もう一度観て、見出そうともちょっと思えませんけども。

 続いて「主人公のアーチ」。これはキャラクターの成長を指すのですが、自身の作品『ダイナー』の主人公を例に「なにも持っていないオオバカナコという女の子が、壮絶な体験を経て最終的に獰猛になる。この立ち位置の推移がアーチ状になるよう盛り上げていったんです。これが成長せずに最後まで泣いているような性格だと、アーチを描かずフラットになってしまうんですね。サスペンスやスリラーのヒロインであればそれでも構わないんですが、『どう成長するか』が『どう生き延びるか』とイコールになっているホラーでは、そうもいきません。」(p.124~125)と説明していて、それについてもボーって成長しなかったもんな~となるほどなるほど、となりました。成長しないおじさんを観ていても、私には別に楽しくも面白くもなかったなぁ、と。

 そして最後に「自分にとっての恐怖を」という節。ここでは自身が何に恐怖を感じるのかを突き詰めた結果として、「『自分は”いま行動しなければ、いちばんなりたくないものになってしまう状態”を最も恐れているのだ』という結論に至りました。」(p.131)、「自分は他人と違う。自分は自分として生きたいのだ。そんな主張を潰し、個人のアイデンティティーにコミットして捻じ曲げる存在に、僕は恐怖を感じるようです。」(p.132)と書いていて、割と私もそれに近いところあるなぁ、と思いました。ボーってそういう「自分自身」みたいなものが薄い主人公で、そういうところが感情移入できなかったかな、と。

 この節の中で「小説は『読み終わった読者にどんな感情を抱かせたいのか』が大事なんです。その感情は作者の根底にある思想です。」(p.133)とありまして、なんか結局そこの部分が『ボーは~』の監督とはあんまり合わないのかなとなんだかすごく納得してしまった。おじさんが不憫な目に合い続けるのを観ても面白いとは思えませんで。

 

 たまたま映画を観て割とすぐに読んだ(3月半ば)だけで、そんなつもりは全然なかったのに、図らずも映画を楽しめなった理由がわかってしまって、ちょっと面白い経験でした。なんかすっきりしちゃったな。それまで「なんだったんだあの映画……」とか考えて悶々としていたのでよかったです。

 それはさておき、平山夢明の『ダイナー』めっちゃ面白いのでぜひ。