『THE BATMANーザ・バットマンー』IMAX
2022/3/11 池袋グランドシネマサンシャイン スクリーン12 F-22
待望の『バットマン』新シリーズ第1作。
ザ・バットマンとは、
内山まもるのマンガ「ザ・ウルトラマン」が象徴するように、
「バットマンの決定版」「これぞまさしくバットマン」「もうこれ以上のバットマンは望むべくもない」といった主旨の題名だが、
なるほどそのタイトルを冠するだけのことはある見事なできばえ。
このように、作る側は確定タイトルを仕切り直す際に、
過去作やシリーズと比較されるのはわかっているから、
当然それらを越える覚悟で臨んでいるわけで、
それが『ダークナイト』三部作のようにうまく行く場合もあれば、
『バットマン フォーエヴァー』(1995)や『バットマン & ロビン Mr.フリーズの逆襲』(1997)のように、
ティム・バートン作の『バットマン』(1989)『バットマン リターンズ』(1992)を引き継げば良いだけなのに、
てんでうまく行かずに空中分解した場合もある。
んでもって、既存タイトルのファンって、
仕切り直しの新作を観ても、
まるで若い女性に目移りせずに、
浮気せずに本妻一筋なんですと律儀さを示すがごとく、
『ダークナイト』を観ても「自分にとっての映画『バットマン』続編最高峰が『リターンズ』であることは揺るがない」
とか言われちゃうと、
「それが『ダークナイト』と言う映画を観て出て来る感想かね」
と呆れたものだ。
今回の『ザ・バットマン』を観ても、クリストファー・ノーラン『ダークナイト』三部作との比較優劣で語る論法がいかにも多く、「そういう人は始めから結論が決まってるんだから、新作なんか観に行かずに過去作をDVDとかネット配信で見直してりゃいいだろ」と感じてしまう。
『ザ・バットマン』は、2022年に公開される価値と意義があり、
『ダークナイト』三部作(2005・2008・2012)と、
『ジョーカー』(2019)の後で公開される意義と価値もある。
(※以下作品の内容に触れますので、鑑賞後にお読み下さい:赤字部分)
本作のゴッサムシティは、政治家と役所、警察と検察が結託して、
都市の再開発事業が利権をむさぼる彼らの食い物にされてしまい、
本来その事業に資するはずの孤児たちは、一向に恩恵に浴せない。
これに気づいた最大の被害者がリドラーの正体であり、
彼は真実を明るみに晒し、不正でおいしい思いをしていた奴らに復讐を果たすという、
いわば社会正義の化身として犯行を重ねる。
これはブルース・ウェイン=バットマンと同じく、犯罪社会が生み出した怪物であり、
鏡像や似姿のようでもあれば、バットマンと敵対せずに、目的を一つにして手を組むことも厭わない。
リドラーは社会のため、虐げられている人たちのための正義を行っているつもりだから、
復讐心を捨て、世を照らす希望の光となったバットマンだけがヒーローとなり、
自分は悪人扱いされて収監される仕打ちが我慢ならない。
そんな悲嘆と絶望にくれるリドラーに声をかけるのが、
同様に社会のひずみから生み出された必要悪であるジョーカー=演者こそ違えど、映画『ジョーカー』のホアキン・フェニックスの演じたタイトルロールの“並行同位体”なところがすさまじい。
本作のキャットウーマン=セリーナ・カイル(ゾーイ・クラヴィッツ)は、バットマンとリドラーの中間的な存在で、どちらの立場にも転びうると言うのも実にうまい!
——ということを『ザ・バットマン』を観ても感じ取れない人は、
鑑賞力や理解力が未熟なんだから、
エラソーに良かったとか悪かったとか口を差し挟まないで欲しいよ。
政治家と役人と警察と検察が結託して、
本来国民が得るはずの権利が、ごっそり奴らにかっさらわれてるのって、
架空都市ゴッサムシティだけの話ですか?
IMAX鑑賞は暗い画面の鮮明度はイマイチなため、映像的なメリットはさほどなく、
2022/3/13に、MOVIXさいたまのドルビーシネマ F-12
で鑑賞したバージョンと印象も感想も全く同じ。
ただし暴力的、破壊的なサウンドだけは、IMAXの方が迫力があった。
冒頭数分の同じところで眠くなって見落としたが、
いったん目がさめると、最後まで3時間の上映時間の長さも感じずにじっくり見入った。
そうそう、字幕で
(正)公園を臨むタワー
↓
(誤)公園を望むタワー
になってて残念。
今日はここまで。