2202第16話「さらばテレサよ!二人のデスラーに花束を」に寄せて | アディクトリポート

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本ブログは、

2008年8月開始以来、

10年以上が経過し、

読者の反応は「いいね!」が主流。

 

テーマ:ウルトラマン

だと、

白井美也子さんから熱心にコメントいただく以外、

具体的な反応が乏しかった。

 

ところが最近は、

「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」

のレビューに、実に多くのコメントが寄せられる。

 

よほどこの作品について、

本音語りの場が限られているのか?

 

さながらご意見目安箱や陳情ボックス、

2202相談所や駆け込み寺と化しており、

転載で文字数が稼げ、

自分だけの独善的意見を述べず、記事に客観性も出てありがたい限り。

 

…ではあるんだが、

最近はコメントが殺到しすぎて、

もれなく転載するのにてんてこまい。

 

やらないと借金してるみたいで、

心が晴れないんだよね。

 

そんなこんなで、

まずは宿題の転載から。

 

 

宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち

 

 

 

【14話コメント補足】

 

DoburokuTAO

 

酒屋のブッチャー(マルC コンタロウ)は君の隣にいるかもしれない→インターネット時代で再び
 
もともと「さらば…」から善意?のイスカンダル人以上に行動原理が訳が分からないテレサの?は15話以降でいいとして→テレザートのはずなのにディスティニーの銀河鉄道本部が頭には…(笑
 
少し違う話にずれますが 「ガンダムUC」の映像化に伴い模型誌の記事を読んだ後、「ガンダムエース」で面倒で読んでなかった小説を全巻読んでTV放映見て唖然としたんです。
 
説明が私的になりますが 映像作品ってブロック化された「演技シーン」を移される順に客は視聴しながら物語を頭で処理していくものだと私は思ってます。
なので各ブロックの大きさや時間の流れなど設定が違っても、全体としては全ブロックが繋がる誘導路のような線が必要なはず。
勿論高速道路の眠気さましのようなワザと不安をあおるテクニックもあるでしょうが…
 
で、「ガンダムUC」で感じた事はこの繋がりが不安定で、ブロック間の移動の際違和感を感じてしまう事でした(先に小説を読んでいたので話は終えましたが…)。
この違和感は故意なのかはともかく、模型誌の盛り上などみると気持ち悪い。
 
アダルトビデオに限らず映像ソフトの販売と自宅再生視聴時代(好きなところだけ見る)という視聴が当たり前になった世代が映像作品をつくる時代になり、自分が好きな物を表現した結果。
 
30分の玩具宣伝を利用して何かを伝えたいという先人の苦労を経て、物語を織り込んだアニメ作品が、スポンサーの思惑と作り手の嗜好の偶然の一致で商品宣伝に特化する という皮肉な事になったのでは…と最近思ってます。
 
2199からアンバランスな尻の座りの悪さもそうではないかと…
これ、最近の個人的な失敗例ですが「君の名は…」を古書店で買った関連短編集→映画の小説→映画 で見て感じた感想です(最短コースで攻略ルートを知ってしまった)。
 
ガンダムで(プラモ)商品と(アニメ)作品の主従逆転が起きて以来、
作品のストーリー/ドラマ構築が添え物になってしまい、
まともな作品では成立/通用しない作家が主流となってしまった。
 
福井晴敏って、
そういういびつな構造の仇っ子みたいな気がします。
 
映画『ローレライ』『亡国のイージス』でも、
不可欠な部分が欠落していた失格作家/小説家が、
ガンダムなら手なずけられる(チョロい)と転向したんでは?
 
でもって、
福井ガンダムが絶賛されたのは、
ファンやマニアも比較対象がガンダムしかなかったからでは?
 
これはもう、
「2199」=出渕ヤマトの時から感じてるが、
作り手は「自分がやりたいように」やり抜いて、
「どうだ!」とこれ見よがしに示すんだけど、
受け手がどう感じるかがまったく考慮されてないから、
「なにが『どうだ!』だよ。こんな不良品や間に合わせを押しつけやがって」
と呆れまくるのは、
作り手はアニメしか比較対象がない一方、
受け手は広く国内外の娯楽作=映画に触れているから。
 
実は「2199」第1話は、
ティム・エルドレッドの来日に、
運営側の粋な計らいで、
南青山のヤマトカフェで特別に見せてもらった。
 
ティムは大喜びだったが、
私は感心しなかった。
 
居合わせた別客が会話している声で、
(ヤマトファンのくせに上映されてるのが未公開新作なのに、気づかずしゃべっているのが信じられない)本編音声が聞き取りにくかったからかと、
後日劇場公開などで再見しても、低評価(感心できない)はずっと変わらず。
 
2話以降の劇場公開は、入院してたりで見られなかったが、
一般客の映画評をケータイで確認し、
高評価があっても信用しなかった。
 
どうやら監督と高評価するファンとは、
私の評価観点は異なるらしく、
テレビ放送版でようやく全話見ても、
やはりまったく感心せず、
どうしてやり終えた監督が「感無量」になれるのか正気を疑った。
 
で、その後で
『星巡る方舟』があったわけだが、
 
15話のコメントで、
 
てんたくる
 
光線技のないウルトラマン映画

「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」は
波動砲を使わない、とんでもヤマト映画です。
今見ると、モンゴル人?設定のガトランティスとか
「ヤマト2リメークはやりそうだから、せめて新たなる旅立ちだけは潰しておこう」という
出渕監督の下心が楽しめる映画です。

ADDICTOEさんは、未見のようですが、
是非、ゲオの100円レンタルか何かで視聴してください。
 
——とすすめて下さっても、
何度も挽回のチャンスがありながら一度も生かせなかった監督を信じるのは、
ハズレ馬券を買い続けるのと同じなので、
私にはとてもできない。
 
Doburokutao

 

西崎氏の狂気をつづった本に、名前が一切出てこない小林氏の立ち位置ってなんだろう
タイトルに関係ない話ですが
 
月刊out別冊「ガンダム センチュリー」という書籍について書かれた記事を読んで不思議なのは あの巻末の座談会について記載がない事。
私は高校生だった時代に買えず、20過ぎてから古書店で入手した口なんです。あの巻末の座談会と富野氏の自著伝「だから僕は…」(ちなみにこの書籍 西崎氏の狂気を記した書籍と合わせて読めば 虫プロの歴史を調べる方には面白い資料だと思います)を読めば、映画がTVに座を奪われる少し前の時代での「実写映画」へのあこがれと挫折を経た 屈折した思いを読めると思います。
で、スタッフが云々の前に、視聴者たる客(模型屋通って新しいプラモ買ってはしゃいでいた自分)「映像作品としての…」なんて考えず新しい玩具(資料や設定)に飛びついただけで そのように作品を消費した世代が作り手に回ったのが今の現状という見方もできるわけで…


「ガンダム センチュリー」で思うことの追記
1.永井一郎さんの声優論と活動の成果が、再放送枠の縮小と若手アイドル声優の使い捨てでコストカットという皮肉→バブル崩壊後の正社員解雇という時代の流れを先取りしたような
2、あさの氏が模型誌で文化人を気取りながらも底が見えた件→ MSV本で「メカ設定で遊ぶ本」としてしか「ガンダム センチュリー」を取り上げれなかった事
 
“「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気”に、
小林誠が登場しないのは、
彼には協調性が一切なく、
自分だけがマトモで他の人は全員バカで、
誰に対しても人を見下すような対応しかできないからです。
 
問題は、彼の人間性は全員が知っているわけではないため、
業界での仕事・実績が後ろ盾となり、
まともでない彼の異論がまかり通り、
まともな正論が駆逐される逆転状況が続いたことで、私もずいぶんと迷惑しましたよ。
 
先述の「2199」第1話の、
どの一般民よりも早かった鑑賞も、
「その時期は記者発表しか行われなかったはず」と、
まるで私が偽証しているような、
「まこと」名義のコメントでいいがかりでしたよ。
 
最近では、
ヤツが「使えない」と「2202」のSF考証の小倉信也氏だかを名指ししてると、
反対に、小倉氏の評価は私の中では上がってますけど。
 
年齢も最年長になってしまい、
『復活篇』で組んだ羽原信義監督を、
「ハバラ」と呼び捨てなことにも一端がかいま見えます。
 
なにせ自分を拾ってくれた西崎義展氏だけは悪口は言わないが、
松本氏も湖川氏もシド・ミード氏もケチョンケチョンですから。
 
 
【15話コメント】
 
JOE
 
板橋克己メカ
僕の大嫌いな板橋克己メカを取り扱っていただき、ありがとうございます。
この人のメカが持つ、子供がガラクタを積み重ねたみたいな歪さと、外壁パネルの目地を描かないと成立しない幼稚なフォルムが大嫌いでした。
それとこれは余談ですが、ヤマト3は2に負けないほどトホホな作品ですが、宮川泰氏によるBGMは素晴らしく、この作品には勿体ないほどです。
 
mars
 
画つくり
 
ども。
私も個人的に板橋さんの「棒」デザインはダメです、宮武さんや加藤直之さんのように考えて作ってる感じが無い、まぁそれ言ったらカトキ氏から明貴さん、フミカネと否定しちゃうので言わない。
2202は全般に酷い手抜きが多いです、番外で説明するってのは作品完成度の低さを吐露してると同じです。
これ砂煙で誤魔化さず火焔直撃砲の場所にタイヤかクロラーをポン付けすれば画に説得力出ました、デッカイ三輪車でいいんだ。
それとメガルーダ以外や第一話以外のカラクルムは艦橋を少し変えれば「雑魚化」に説得力が出ました、MSだってガンダム顔にしたら皆一応納得してくれる理屈です、のっぺらぼうか単眼にしたら無人機や雑魚らしく見えます。
 
——と、板橋メカには非難ばかりで支持がほとんどなく、
先述のてんたくる氏も、このように。
 
てんたくる

 

旧メダルーザは間違いなく
「画鋲についてくるおまけの画鋲ハズシ」が
モチーフになってるでしょう。

 

それでも、火炎直撃砲は魅力的でした。

 
板橋氏は繊細で几帳面な方で、
コツコツと描き進め、完成させる気力と根気は買いますが、
それだけに力強さとは無縁ですね。
 
 
 
星野悲鳴
 
あのバウンドなんとかはリパルサーリフト付き?
 
ズォーダーから貸与されたと思われる可変ロボットについて、
デスラーのお供でテレザリアムにまで大量に付いてきてますが、
アレってどういう仕組みで浮いてるんでしょうかね?

無重力の空間ならまだしも、古代達が脚で立っているところを
まるでプロボットやノイスポッターの様にフワフワと浮いてます。

前回の14話で、戦闘機形態で空間騎兵隊を迎え撃っている時も、
騎兵隊ロボが姿勢制御のロケット噴射を行っているのに対して
そのような噴射等の場面は見受けられませんでした。
(こういう所も、あまり深く考えずに笑っておけば良いのかも)


ちなみに、この15話から始まる第五章ですが、本編冒頭10分を
BSで観てしまい、劇場では開始早々睡魔に襲われる始末。
それ以来、第六章もナラティブも劇場での初見を心掛けています。
 
 
宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち
第16話「さらばテレサよ!二人のデスラーに花束を」2019/1/18

【概略】

古代たちはデスラー艦内に囚われ、ヤマトもキーマンの反波動格子によって機関が停止し、デスラー艦隊に包囲される。キーマンは旧体制派のスパイとして、テレサの力を手に入れるためにヤマトに同乗していたという。旧体制派の首魁と通信した後、自身が進む道に悩んだキーマンやデスラーは、テレサのもとを訪れる。テレサは、キーマンに「考えるのではなく感じたことに従え」、デスラーに「誰かを大切に思う気持ちがある限り、民を率いる資格がある」と告げる。その後、キーマンは反波動格子を停止させ、古代たちを解放する。キーマンの真の立場は、旧体制派の首魁の正体を突き止める任をった二重スパイだった。役目を終えたキーマンは、自身の感情に従って古代たちを連れ、ヤマトへ帰還する。その直後、テレサはすべての縁が整ったとして、テレザート星とともに再び姿を消す。デスラーはテレザートの消失を見届けると、旧体制派の艦隊に合流する。テレサの願いを託されたヤマトは、ガトランティスを止めるべく地球への帰途につく。

 

前回15話で、デスラー総統物語を延々と綴ったくせに、
なんと今回もまた、
ガミラス/デスラー事情が延々と語られ、ウンザリ。
 
迷ったキーマンやデスラーが、
すでに去ったはずのテレサに助言を請うと、
都合良く再び登場のテレサが指針を与える。
 
 
テレサって、占いの館とか、
おみくじ代わりの存在なわけ?
 
これまた先述の
mars氏も、
 
フクイ氏は以前よりかなりマシになったといえ、まだまだ「画」の扱いが苦手で長台詞に頼りがちです。
 
——とご指摘はごもっともだが、
とにかく、「2202」で進行中のドラマにのめり込めず、
心の壁が築かれて冷笑的にしか見られないのはなぜなのか?
 
答は、1/20に鑑賞した、
『クリード 炎の宿敵』への、過剰なまでの自分ののめりこみで明らかになった。
 
作り手が自分のために、
「どうだ!」と自慢げにひけらかしているか、
それとも観客がどう受け止めるか(を第一義に考えているか)の違いではないだろうか。
 
 
これ以上ダラダラ書きませんよ。