映画『ひろしま』に思う〈その1〉 | アディクトリポート

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※今日の記事は、昨日のおふざけとは打って変わって、クソ真面目な記事ですので、そういうのはカンベンな方は閲覧をお控え下さい。

ゴジラ音楽の旅
からの、派生記事です。

偶然、『ひろしま』にたどり着き、
予告編だけでも大変な衝撃を受けたが、

↑前に載せたものとは少し異なる修正版です。

実際に広島での原爆投下の状況を、知人、友人から聞き及んでいた方、
(どうやらご自身も体験者?)「原ちゃん」さん、
当時(1945)、11歳?だから(違ったらスミマセン)、
1934年(昭和9年)生まれの、78歳ほどの方から、
以下のようなコメントをいただいた。

原ちゃん 2013-02-24 21:12:52

1. 映画“ひろしま”で“B29の爆音”
という会話のシーンに違和感を感じました。
なぜなら、B29は爆音が聞こえない高度1万メーターほどを飛行していただろうである事を、
また、音が聞こえなくてもB29が上空で旋回しているのに気付いたのは、雲の切れ目から差し込む
翼の太陽反射だった事を、
それを実際にその場で見た人から聞いていたので。
彼は1つ山を越えたところ(毘沙門峠)に居たおかげで、その熱、光で消滅する事を免れました。
“風圧等観測用ラジオゾンデを吊るした落下傘”を原子爆弾と思い違うのはむしろ当然、
彼の認識もそうである。
だがその事を彼に伝える気は僕には全くなく、原爆の話し自体、僕からは彼に話題として話す事も一生無い。
話しが戻りますが、高度1万メーターだと爆音が地上で聞こえないことは、当時学校で教えられている事なので、
小学生でも知っている事柄。
補足ですが、戦闘機が低空飛行して向かってきたら、近くの壁に張り付く、などの自衛手段も学校で教えていた事。
実際、自分の目の前を機銃掃射の土煙を見ることになります。
ラジオゾンデの事など、アメリカのその後の発表があって初めて知りうる事で、
実際その時には詳細など分かるすべも無い。
“B29の爆音”という会話のシーン
映画だから。
その時の様子をイメージで再現した所もあるのでしょうし、
或いは実際に、高度1万メーターよりも低い所を飛んだりもしたのかも知れません。
そしてその爆音を聞いた人が居るのかもしれません。
それを一体誰が知り得るのだろう。
だから、
僕は齟齬(そご)を感じましたが、
映画のシーンに相違はないのかもしれない......


原ちゃん 2013-02-26 00:05:28


2. 度々コメントすいません。
燃えるものが残っていない様だった。
(広島の街が焚き火の後のように燻っていた。)

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それが実際に、黒いきのこ雲の下の、
その街を山の上に駆け上って見た、その方の話でした。
その方は、黒い雨を浴びながら、
大変な事が起こった、と
家に走ったそうです。
当時11歳。

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つまり原ちゃん(さん)がおっしゃることは、
*映画『ひろしま』は、ドキュメンタリーではありえない、事実と異なる部分をたくさん含む、あくまでもフィクションに分類されるもので、
*作り手は原爆の悲惨さと非人道性を後世に伝えようと努力しているが、気づかぬうちに、「何も知らされていなかった戦時中」の視点ではなく、「全てが明らかになった戦後」の視点から描いてしまっている、
----ということだろう。

それでもなお、『ひろしま』が今見ても(予告編だけでも)衝撃なのは、作品を通して伝えたいことが明白で、強いメッセージがこめられているからである。

(以下、Wikiより抜粋)

1952年8月、日本教職員組合中央委員会が製作を決定。「いかにしてあの日を正確に再現するか」が主眼とされた。全国の組合員がひとり50円カンパし、2400万円を用立てた。

1953年8月10日、広島市内の映画館「ラッキー劇場」で試写会が開催された。
同年9月、製作側が全国配給元として交渉していた松竹は、「反米色が強い」と一部カットを要求していたが、両者が譲らず、9月11日、製作側は「広島、長崎県は自主配給」の方針を決定した。

9月15日には、東京大学職員組合と日本文化人会議が東京都内(東京大学構内での上映の予定だったが大学当局がこれを禁止したため、港区の兼坂ビルに変更)で初めて映画を上映し、この日から東大で開催されていた国際理論物理学会議に出席した海外からの科学者8人らが観賞。

10月7日、製作元と北星映画の共同での配給により、広島県内の映画館で封切り。
一方、大阪府教育委員会が試写会を開いて「教育映画」としての推薦を見送る等、学校上映にも厳しい壁が立ちはだかった。


と、戦後わずか7~8年でも、『ひろしま』は、アメリカと協調という戦後の国の体制に異を唱える作品として異端視されてしまい、興行には厳しい壁が立ちふさがった。

戦後の(原爆についての事実を知っている)視点からしか描けなかった作品が、はからずも戦後の社会体制、つまり、「日本がやったことは全て間違いで、アメリカのやったことは全部正解。原爆で戦争を終わらせてくれたアメリカさん、ありがとう」に阻まれたという皮肉。

まさに、悲運の映画と言えよう。

この件に関しては、とても1回では語り尽くせないので、また視点を変えながらおいおいと。

アップロード日: 2009/11/15