吾朗の事情/『ふたり』を見て思う〈その10〉 | アディクトリポート

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番組の放送から、2ヶ月以上が経過し、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ふたり
ようやくの最終回です。

で、これを機に訂正しておくと、
「Wiki」の愚行の時に、
Wiki管理者の編集体制の不備やずさんさを揶揄した
ら、

「Wikipediaには特定、常駐の編集人や管理人などいなくて、
読者同士で編集合戦をくり返している」

との指摘があった。

ふうん、ってことは、
↓こういう表示は、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-どくじけんきゅう
事態を監視している誰か(Wiki管理者)が表示してるんじゃなくて、
これも広義の編集合戦の一部と言うことね。

まあ、それを誤解していたことは認めるが、

私の主旨は
Wikiの中立的な視点については、ここにダラダラと書き連ねられているが、
それに盲従してしまい(=絶対基準にビビリすぎてしまい)、
個人が、ある意志や目的を持って書いたものまで、中立的な観点で訳してしまうことは、翻訳の根幹に関わる過ちであり愚の骨頂。
ということであり、
それに気づけず、3つの訳がいまだに載ってる時点で、
Wikiは何もわかっていない、という主張や考え方は覆らないよ。


(では気を取り直して、ここからが今日の本旨です)


番組で、宮崎吾朗という人物の様子をみて、

その「普通でなさ」ぶりに目を見張った。

なんというか、空っぽぶりがすさまじく、夢遊病者みたいで、何を考えているのかわからない感じ。

熱気とか覇気とかが感じられず、激しい感情を表に出さない。

父駿が激しやすい性格だから、それを反面教師にして、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-oyaoya
↑カメラを気にして、父のただならぬ動きをおどけて示すところは、いくぶんとはいえ、若さの片鱗を示しはするが。

「オレは父のようにはなるまい」と自分に言い聞かせているのはわかるが。

作家集団Addictoe オフィシャルブログ-はずせ
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ほら
駿が、「このままではダメだ」と危惧し、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-なに
とうとう救いの手を差し伸べねばならなかったほどに、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-maenomiri
いったい吾朗の描いた主人公キャラの、何が問題だったのか?


吾朗の描く主人公キャラが、所在なげにただ直立姿勢で突っ立ってるだけで、
生の感情が読み取れない人形同然だったのは、
吾朗自身がまさにそういう人物なのと同時に、
主人公の境遇が自分に重なって、だとしたら当然、自分と同じような存在に描くやり方しか思いつかなかったためだ。

番組を見返してみると、

主人公の人物像を分析している吾朗は、
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-いち
まるで自分の境遇を語っているかのようである。
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-に

幼い時には、自分の誕生を心から喜んでくれて、
溺愛してくれた、「大好きだったお父さん」が、
仕事の鬼になって家庭を捨てたも同然となり、
自分の中では、「死んでしまった」。

そういう状態に置かれた子どもがどうなるかを想像してみると、
「死んだ人を想って」
「生気もなければ、溌剌となんかもしていられない」
自分の姿と重ならざるを得ず、
それは吾朗以外の人の目には、
「魂のない」抜け殻のようにしか写らない。

名監督の息子と言うだけで、本人に能力や才能もないのに、
プロにさせてしまうような親バカにはなりたくないという、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ながしまのむら
駿の厳しいダメ出しが延々と続いても、
吾朗が一向にめげずに、ジブリの監督でいることをやめないのは、
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-いち
ダメ出しが続きすぎて不感症になり、耐性が身についているということも、もちろんあるが、
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-にい
吾朗の人生課題と自己実現が、
それ(ジブリで監督を続けること)でしかありえないことを自覚しているからである。

吾朗が他の誰でもない、宮崎吾朗である特性は、
「宮崎駿の息子である」という一点に尽きる。

ということは、父の歩んだ道をたどり、
父が倒れた後は、
その道を引き継いで歩み続けるのは、
自分以外にはいないことを覚悟している。

その信念、達観、決意はゆるぎないがしかし、
一方で具体的な道の歩き方、
つまり、ルートが陸路なのか水路なのか、はたまた空路なのか、
自分の力で進んでいるのか、乗り物に乗っているのか、
さらには歩き続けた先のゴールに、何が待ち受けているのかを、吾朗は知らない。

それでもただ、ひたすらに歩き続けることが、
自分を自分たらしめている、意義と価値のある行動なのだ。

この行動原理だけに突き動かされて、そこに自分の意志だとか気持ちがまるで介在していないから、
夢遊病者みたいに、何かに取り憑かれた亡霊のような立ち振る舞いと、
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ikkiu
催眠術にでもかかったような目つきなんである。
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-derede

というわけで、宮崎吾朗には、個々のタイトルへの創作意欲や創作動機が不在で、
したがって、自分だけの取り組みでは、作品に存在意義も存在価値も与えられず、
そういう見極めや判断のできる先達の道案内がなければ、
袋小路に迷い込んで行き詰まってしまう。

というところに吾朗を追い込んだのは、まさに父親の宮崎駿本人なんだという自覚があれば、
火事場の馬鹿力続きでようやく体裁が整った「コクリコ坂から」のできばえにご満悦で、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ぽぽぽ
「少しはオレを脅かしてみろってんだ」
という直感での物言いは、全く的を射ていない。

なぜなら吾朗には、父を脅かす意図などないし、
自己の中に創作的素養が皆無だから、
父からの作品作りのインプット(設計図となる脚本)無しには、
満足な監督業が務まらないんだから、
駿の予想外の事態、自分が脅かされる事態など、訪れようのない仕組みになっているからだ。

んでもって、万が一自分の予想外の事態になったらなったで、
どうせ駿は烈火のごとく怒り狂って、
そういう事態にはさせないんでしょ?

逆に吾朗は、父がなぜ今の父であるかに、
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-atte
納得はしていないけど、理解は示している。
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-shouganai
「だって無理ですもん。今からは変えられないから」

(お父さんが、「少しは脅かしてみろ」って言ってましたよ、との取材者のチクリに答えて)
吾朗は番組の最後にこう答える。
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-かいしん
「クソッ! 死ぬなよ」

とりあえずイキがったセリフを吐きつつも、言葉の裏で父を気遣い、会心の笑みでこう宣言してみせるこの瞬間だけは、
宮崎吾朗が初めてようやく、実に人間くさい。

それはひとえに、空っぽだった心の空洞が満たされ、自分の存在意義や存在価値を実感できたことで、久しく失っていた人間性を取り戻したからに他ならない。

ということまでを、果たしてどれだけの視聴者が、いや番組の制作側さえも読み取れたかはアヤシイが、(本音を言えば、ここまで読み取れるのは自分ぐらいのもんだとうぬぼれてもいるが)それでもすばらしい(=ウソのない)番組でしたね。

(おわり)