蛇にピアス/澱みきった芥川(その3) | アディクトリポート

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芥川賞をこき下ろしてきたこのシリーズもこれで終わり。
3冊も読みゃあ、もうじゅうぶんでしょ。

今回は金原ひとみの「蛇にピアス」
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-表紙

読み終わっての感想は、「で?」

タトゥーにピアス、セックスに殺人と、今風の題材てんこ盛りだが、現代の若者はこういうものと理解を示し、肯定しているのかと思いきや、書き終わりを見ると、そういうわけでもないらしい。

主人公はどうすべきだったのか。
これからどうすればいいのか。
そういうものが示されておらず、ほったらかしである。

なぜかといえば、作者自身も、それらのことに意見や結論を持ち合わせていないからだ。
小説とは、文字通り「小さな説」、つまり「私はこう思います」を物語の形で示すもの。
なんだけど、「私はこう思います」の部分、すなわち執筆や創作の動機がないのに書き出しちゃって、とりあえず形になったからこれでいいか、と思っちゃってる。

いやいや、いいわけないって!

ところがこのことに思い至らず作家を続けてる人ばっかりだから、「別にいいじゃない、私はこう思うがなくたって。他の作品だってみんなそうじゃない」と思い込んでしまうし、だからネタ探しに窮して、書けないスランプに落ち込む。
金原ひとみは、「蛇にピアス」以降も、まあ書いている方だとは思うが、どれも「蛇にピアス」ほどの評価にいたっていない。
そりゃあたりまえ。
「これだ」という幹がないからだ。


「私はこう思う」を根幹に据えれば、反対にネタに尽きるはずがない。


私は、読む前と読んだ後で、世界が(読者の世界観が)変わるような作品をめざしているが、それには、「読み始めからどれだけ別次元の地平に最後に行き着くか」が大切なはずなのに、たいていのシケた純文学作品は、「ふりだしに逆戻り」でよしとしてしまう。

「話の最初に戻っただけです」だったら、話の中身を読む必要だってないはずで、書くことや小説自体の存在意義だってありゃしないだろうに、なぜか世の中にある大半の小説(もどき)は、それが文学だと勘違いしたまま、世間とずれたまま何年も経っていて、しかもその世ズレの距離は開いていくばかりである。

「蛇にピアス」も、一般読者の書評でも、あまり感心している人はいない。
芥川賞といえば毎度おなじみ、辛辣な選者の石原慎太郎は、「今回は該当作なしでいいんじゃないの?」と提案したらしい。
それなのにこれが候補作に挙がってきたのは、タトゥーやピアス穴を広げるなどの人体破壊、自傷行為が描かれた小説を無視すれば、「今の若者がわかっていない」とか「時代の最先端についていけてない」とか「頭が古くて固い」とか思われてしまうんではないか、という、出版社側の候補作選考スタッフの脅えからなのだろう
だけど「ちゃんとわかってますから」のつもりで、これを候補作にあげてしまうところに、「本当はまるでわかっちゃいない」ことが露呈されてるんだけど。

映画になった「蛇にピアス」(2008)も、原作の精神に忠実で、何が言いたいのかわからない、観ても観なくてもどうでもいい映画だった。
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-映画

エコが叫ばれて久しいんだから、小説でも映画でも、紙の無駄やフィルムの無駄になってしまう、あってもなくてもどうでもいい作品は、もういらないと思うんだけど?

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