『20世紀少年〈最終章〉ぼくらの旗』 | アディクトリポート

アディクトリポート

真実をリポート Addictoe Report

やっと三部作完結の映画『20世紀少年』。

第1部の『20世紀少年』は、ちりばめられた謎をしっかり見ておかないと、後で話について行けなくなると思って、しっかり食い入るように見た。
今にして思えば当然のブラフ(意図的に仕掛けられた心理的揺さぶり)にもまんまと引っかかり、すぐに引っ越していった、ハットリ君のお面をかぶった少年が、「ともだち」なんだろうと思ってた。
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-ハットリ
それが三作目になったら、少年時代に出てくるお面は、いつの間にかウルトラマン(は出せないので、ウルティモマン)にすり替わっていた。サギだ!
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-ウルティモ

1作目の最後に出てくる(予告編でも大きくあつかわれていた)巨大ロボットが、いかにものハリボテだったことにガッカリ。
どうやら今後に期待しても、こういうハリボテ的展開になるんだろうなと予想した。

それもあってか、第二章〈最後の希望〉は興味が持続せず、途中でごっそり寝た。
だから主演のカンナ(左)より、いつも同じ顔で驚いている小泉響子(右)の印象ばかりが強い。
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-きょうこ
それにしても、他では見たことのない二人、どこから見つけて、どうして起用されたのだろう。


で、ようやく三作目。
完結編なので、これまでちりばめていた伏線の回収、謎解き(=広げた大風呂敷のたたみ込み作業とも言う)に終始するので、いちおう興味は持続するんだが、はじめの方で、アメリカに渡ってワクチン研究中の黒木瞳が、そばの修行でやはりアメリカにいた宮迫に助けられた、というくだりで爆笑。
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-みやさこ
どれだけ偶然なんだよ!
ここに来てようやく、これはマジメに観てはいけない映画だったんだと、3作目で初めて気づく自分のマヌケぶりが恥ずかしくなった。

おまけにこの場面、劇中には↑こんなにしっかり出てきませんよ。
この例が示す通り、撮影とかに、吟味もなく無駄に使ってる予算が多そうだなあ。
そのぶん24時間テレビに募金しなよ。

↓この場面も出てきませんよ!
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-ひとみ

それで、一応寝ないで観てはいたが、なんだかだまくらかされているような、できあがった作品ではなく、製作途中の作品を見ているような、あるいはダイジェストを見ているような気分になって、アクビが何度も出てしかたなかった。

途中まで話しかけのことをほったらかして、また別のことを話して、それもまた忘れて……という感じ。
はやにえかよ!
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-はやにえ

たとえば冒頭で、豊川悦司と森山未來は、70年代に逆戻りしたような東京に潜入する。
この後、森山未來は出てこない。
1作目の最初に囚人として出会った二人、つまり物語の語りはじめの鍵を握った二人、当然結びの部分でも機能すべき二人、だからこそ1作目に続き、3作目の冒頭に登場したはずの二人が、そのまま生き別れ。
ドラマってものがわかってないね。
そして豊川が助けられた姉(=福田麻由子が子供っぽいので、撮影はかなり前?)弟は、最後のイベントにも昭和ファッションで来てるんだけど、そこに集う他の観客は、今風のかっこうをしている。

と、1本の映画の中でさえ、辻褄の合わないあれやこれやが続くので、もはや前作や前々作とのつながりや整合性なんて、どうでもよくなってくる。
謎解きも、意外性より当たり前っぽいものばかりで、「そうだったのか」という感心はなく、「それだけをこんなに引っ張ったの?」とガッカリしてしまうことばかり。

それから、明らかにどたんばで撮影計画に変更があったらしく、ヨシツネの子供時代は、1カ所だけまるで別の子役になっている。

こうして見続けて感じたのは、どうもただ原作を無批判に引き写しているだけで、映画ならではの再構築とか再構成が、はじめから放棄されていること、あるいはそういう再構成をする知恵が回らず、しかたなく原作を映像化する作業を淡々と積み重ねたらしいということだった。

そうすると、作品がひどいのは、映画スタッフのせいではなく原作マンガのせいにできる。
「ひどいも何も、原作通りにやっただけなんですから」と言い訳できる。

エンドクレジット間際で号泣するカンナの姿は、「こんなひどい映画に出ちゃった」という役者の後悔の涙のように思えて仕方なかった。
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-再会

それじゃあ、映画三作にも引き延ばしすることができた原作に、監督や脚本家がありがたくも敬意を表しているのかというと、エンディングクレジットの後の、原作とは異なるラストを観ると、どうもそうではないらしい。
というよりも、そこまで延々と語ってきた話を、「そうじゃないでしょ。本来こうあるべきでしょ」と否定しちゃっているのだ。
映画作家が容認できないような中身でさんざん引っ張っておきながら、最後に「自分の見解はこうなんです」って、ひどくないか?
だったら初めから、自分がこうあるべきだと考える、映画ならではの『20世紀少年』として、本編に組み込むべきじゃなかったの?
しかも最後の「解決」は、本当の解決にはなりえず、当事者の罪の意識を減ずる役目しか持ち合わせていない。

で、ここからはネタバレですが、たしかにひどい原作だと思う。
これは伊坂幸太郎原作の「重力ピエロ」の映画を観た時も感じたが、「よくもまあ、この程度の(実社会ではまるで通用しない幼稚で短絡的な)人生観や倫理観しか持ち合わせていない作品が、堂々と大手出版社から平気で出版されてしまえるよな」というあきれでもある。

悪役を主人公の肉親に設定する意味を、「重力ピエロ」の伊坂も「20世紀少年」の浦沢直樹も、まるでわかっていない。
「肉親を悪役に設定したら、それを倒して終わりにしてはいけない」という不文律があるんだけど、どうもそれがわかってないらしい。
セオリー通りにやるのはカッコ悪くて古くさく、古い道徳観念にしばられているだけで、そうやらないのがいいことだと勘違いしているフシが見受けられる。

だから劇中では、親なのに、子なのに、わかりあえないモンスターをつくりあげて、説得なんてどうせ無駄さと、そういう試みさえまるで行われない。

黒木瞳は、夫が新興宗教の教祖だということにうろたえ、彼を説得もせずに、さっさと娘を弟に預けた。
娘カンナは、父との対面を果たしても、父に真人間に立ち返るきっかけを与えようともしない。
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-脅迫

償えないほどの罪を負ってしまった相手だから?
説得など功を奏さないモンスターで、もはや人の心など持ち合わせていないから?
その方が楽なので、原作者はそういう怪物像を作り上げ、その怪物を(肉親が)倒す(=殺す)ことが、事態の唯一の解決だとまとめようとする。
そして、「生みの親より育ての親ですよ」とばかりに、絵に描いたように善人の養父母が登場するのもまた、「重力ピエロ」と「20世紀少年」に共通している。

「善人が勝ち、悪人が負ける」という短絡的な筋書きの犠牲として、夫婦の絆だとか親子の絆が、思い切りないがしろにされている。
これで作家でございなんて、どのツラさげていえるんだろうか?
「伊坂に直木賞をあげよう」という動きがあったり、「浦沢先生は天才です」と持ち上げる編集者がいたりと、この国は終わってるね。

こういう筋書きは日本ですら通用しないから、海外に出したら失笑ものである。
つまりはしょせんはその程度でしかない倫理観、作家の物語構築力の欠如といえる。

「お涙ちょうだい」「浪花節(!)」といわれながら、『ジェダイの復讐(帰還)』で、ルークが父への説得をあきらめなかったのは、それが親子の意味だとわかっているからだ。
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-ルーク

『ザ・フライ』が絶望的なラストだったのを、
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-セス
『ザ・フライ2』で解決に導いたのは、副題にある「二世誕生」だった。
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-エリック

最後に『20世紀少年』のVFXは、なかなか良くできていました。
↑フォローになってない。

賛同いただける方のみ、1日1ポチ、お願いします。
人気ブログランキングへ