妻は、最初のころは移植が失敗したりすると泣いていました。

しかしいつのころからか、

努めて明るく振る舞うようになりました。

僕の落胆ぶりがひどかったから、だそうです。

気持ちを表に出してはいけないと思い

できるだけ平静を装っていたつもりでも、

妻にはまるで通じていなかった、ということです。

 

妻の気遣いに申し訳ないやらありがたいやらでしたが、

実際僕はいつもひどく落ち込みました。

統計から、非常に厳しいのは理解していましたが

やはり心のどこかでは、自分たちはうまくいくんじゃないか、

と考えてしまっていたのだと思います。

 

不妊治療が不調に終わるたび、自問自答を繰り返しました。

 

なぜもっと早く始めなかったのだろう。

機会はいくらでもあった。

母が亡くなったとき、

妻の子が中学を卒業したとき、高校を卒業したとき、

妻が病気になったとき、40歳になったとき。

 

しかし以前のエントリーで書いたトラウマから、

自分から言い出すことはどうしてもできませんでした。

 

入籍時に「子どもはしばらく待ってほしい」と言われていた僕は、

ベッドで妻の寝顔を見ながら「しばらく」っていつまで?と

心の中で問うことしかできず、

いつか妻から言ってくれるのでは、

妻の子が妻の背中を押してくれるのでは、と

実に都合のよい希望的観測を抱くことで

自分をなだめていたのです。

 

あまりにも遅すぎるスタートだった不妊治療。

先に参ってしまったのは僕の方でした。