陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -7ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●どん底でつかんだ希望の種

日清食品を創業し、一代で世界企業へと発展させた安藤百福。もともと食品に関しては全くの門外漢でした。
最初に起こした事業は、日本からメリヤス製品を仕入れて台湾で販売する「東洋莫大小(メリヤス)」という会社。22歳の時のことです。

化学繊維の普及にあいまって事業は最初から大成功を収めます。
経営が軌道に乗ると、メリヤス以外にも事業を拡大。それにつれて学問の必要性も感じた安藤は、経営者として働きながら立命館大学(夜学)で経済を学んでいます。

1930年代後半、国家総動員法や生活必需物資統制令が施行されるようになると、順風満帆に進むかに見えた経営も次第に厳しくなっていきます。
しかしそんな時でも安藤は、燃料不足を補うための炭焼きの事業化から、軍需物資を製造する工場まで、多方面に起業家マインドを発揮します。

ところが、その軍需工場で資材を横流ししたという疑いをかけられ、憲兵隊に拘束されてしまいます。
身に覚えのない安藤はひたすら無実を訴えますが、まともに取り合ってもらうどころか、苛酷な拷問まで受けて自白を強要されます。挙句の果ては勝手に「私が犯人です」という自白調書まで作られ、判を押すように迫られます。
さらに大変だったのは、現在の留置場では考えられないほどひどい食事でした。

「出てくるものは、来る日も来る日もわずかな麦飯と漬物だけである。食器は汚れていて臭かった。とてもハシをつける気になれなかった。同房の人達は安藤の残した食事を奪い合った。あさましい姿だった」(『転んでもただでは起きるな!』安藤百福発明記念館 編)

ここでの経験が、安藤を食品事業に向かわせた原点になっているといえるかもしれません。

「しかし、しばらくして気持ちに変化が生じた。「しょせん人間は動物ではないか。飢えれば豚になる。それだけのことだ」極限状態の中で透明な感覚に襲われ、不意に『食』というものに突き当たった。「人間にとって食べ物ほど崇高なものはないな」という強い思いに打たれた」(同)

結局、共同経営者の犯行であることが判明し、安藤は解放されますが、腸閉塞などの後遺症に苦しめられます。また社会状況もアメリカとの戦争がより一層激化して、まだまだ暗雲が立ち込めていました。
しかしこの時安藤は、世界を変えることになる一つの希望の種を、その手につかんでいたのです。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『転んでもただでは起きるな!』 安藤百福著
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●取り引きとは取ったり引いたりするもの

安藤百福(あんどうももふく)。チキンラーメンを開発して食品業界に革命を起こし、さらに13年後、カップヌードルで全世界にその名をとどろかせた日清食品の創業者。
創業以来、自らが開発したインスタントラーメンを毎日のように食べていたといわれています。

96歳で長寿を全うするその前日(2007年1月4日)も、役員や幹部たちとの昼食の場で安藤が食べたのは「餅入りミニチキンラーメン」でした。
安藤は、自らが販売している商品に絶対の自信をもっていました。

「「インスタントラーメンは体によくないのではないか」という外国人記者のいじわるな質問も受けた。安藤はいつもこう答えた。
「私は創業以来、インスタントラーメンを毎日食べてきましたが、90歳になってもこんなに健康です。私がなによりの生き証人です」」(『転んでもただでは起きるな!』安藤百福発明記念館 編)

安藤は、日本統治時代の台湾に生まれました。1910年、ハレー彗星が近づき、もしかしたら地球に衝突するのではないかと恐れられていた時のことです。
そんな不安を吹き飛ばし、逆に大きなことを成し遂げて欲しい、たくさんの福を世にもたらしてほしいという願いを込めて、両親は「百福」という名をつけました。

その両親を幼い頃に亡くした安藤は、呉服店を経営する祖父母の元で育てられます。
そこで彼は商売の面白さや経営の方法、そして人生そのものを実体験を通して学んでいきます。

「学校を卒業すると、さっそく祖父の仕事を手伝った。義務教育を受けたとはいえ、熱心に勉強した記憶はない。学校よりも商売の取り引きを通じて多くのことを学んだ。
「取り引きとは、取ったり引いたりするもので、取りすぎて相手を殺してしまっては元も子もない」。こんな商売の機微を、若いころから身につけていたのである。」(同)

その後、安東は知り合いのつてで街に初めてできた図書館の司書を務めます。そこで仕事の合間に、さまざまな書物に触れ、視野を広げていきます。

「安藤は「私には学問はない。あるのは実際の体験だけだ」というのが口ぐせだったが、青春の多感な時期に、書物から貴重な知識を吸収していたのである」(同)

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『転んでもただでは起きるな!』 安藤百福著
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●飛翔する和魂洋芸の精神

外国人を排斥しようという攘夷の嵐が吹き荒れる中、洋学を奨励する佐久間象山は「西洋かぶれ」と批判される傾向にありました。

しかし象山が目指したのは、決して西洋の真似をすることでも、日本を西洋化することでもありません。むしろ日本を守るためにこそ、最新の学問を身に付ける必要があるというのが、彼の考えでした。
それは「東洋道徳西洋芸術」「和魂洋芸」という言葉に表されています。「和魂洋芸」は「和魂洋才」と同じような意味で、その源流であるとも考えられている言葉です。

「西洋の知と我ら東洋の正しき道、これが合されば恐れるものなどございません。今の日本は、正しき学という本丸のみがあって城壁がない。
これでは西から来る脅威には太刀打ちできません」(『我ニ救国ノ策アリ 佐久間象山向天記』(仁木英之 著)

洋学の普及のために画策した「ハルマ和解」の版木制作は、予算削減を条件に何とか藩の了承を取り付けますが、幕府の許可が下りず、結果的に断念せざるを得ませんでした。
さらに、希望を託した吉田松陰のアメリカ密航も失敗し、おまけに師弟とも自宅蟄居という処罰を負い、活動の自由を奪われてしまいます。

しかし蟄居という鎖も、象山の思考まで縛ることはできません。彼は、その状況に腐ることなく次々と「新しい学問・研究・実験」に没頭します。
「海軍でまだ列強に追いつけないのなら、空軍ではどうか」と考えた象山は、熱風で膨らんだ亜麻布を背負い、
腕には羽のようなものを着けて、空を飛ぶ実験をしていたといわれています。まさに幕末のダヴィンチです。

人は空を飛べると主張する象山に、彼の才能を高く評価していた藩の上司もさすがに呆れてしまいます。

「矢を射るように、馬に乗れるように、刀を鍛えるように、船を浮かべるように、大砲を撃つように、人は空を舞うことができるのです」
「修理(象山の通称)、狂ったか!」
「狂ってなどいません。だが、狂の心を以って空をも制する覚悟を持たなければ、来る新たな時代を飛翔することなどできましょうや」(同)

しかし空への夢に手が届く前に、象山は彼を「西洋かぶれ」と批判する攘夷勢力によって暗殺されてしまいます。1864年、大政奉還の3年前、象山54歳の時のことでした。
大勢の人を乗せた飛行機が世界中の空を飛び交っている今の状況を、象山は「向こうの世界」からどんな気持ちで見ているのでしょう。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『我ニ救国ノ策アリ 佐久間象山向天記 』仁木英之著
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●人材育成こそ最強の城を築くこと

先回述べたように佐久間象山は、人材こそ大切な資源と考え、教育の重要性を訴えていました。

当事の日本において洋学の中心は蘭学(オランダ)でした。しかし、ナポレオンの大活躍によってフランス語の重要性が次第に高まり、蘭仏辞典も必要とされていました。
フランス人のハルマという人が作った蘭仏辞典が使われていましたが、それをさらに和訳して6万語に及ぶ語彙を収録した「ハルマ和解」は、洋学を学ぶ者にとってきわめて貴重かつ高価な書物でした。

象山はその「ハルマ和解」によって自らが仕える松代藩を洋学の一大拠点にしようと画策します。

「松代をハルマの一大沿淵叢(えんそう)とすべし。百万冊刷っていかなる小村にも配り、洋学の基礎を皆が学べるようにするのだ」(『我ニ救国ノ策アリ 佐久間象山向天記』(仁木英之 著)

そのための費用を象山は二千両と試算しました。財政難の松代藩にとってその金額は、驚くべきものでした。
「ハルマ和解」の値段は数十両。大量に買わなくても、一冊買って筆写すればいいのではないかという意見に、象山は「それでは時間がかかり過ぎる」と反論します。

そもそも象山の提案は、ただ本を大量に購入するのではなく、版木(印刷するための原版)を作ってしまおうというものでした。
そうすればいくらでも大量に刷れるし、それを他藩に売ることもできる。利益が出るうえに日本全国に洋学を広めることができる。
これほどいいことはない、と象山は考えていたのです。もちろん当事は著作権の考え方は今とは全く違い、こうしたことは違法ではなかったでしょう。

二千両という途方もない金額に藩の重鎮たちは呆れてしまいますが、象山は懸命にその企画の有用性を主張しています。

「「城でも建てる気か」源太夫は天井を仰ぐ。「こんな巨費が出せるわけがなかろう」
「城と仰いましたが、この事業はまさに築城と変わりありません」西洋の人間と変わらぬ知識と技術を身につけた人材は、まさに国を守る城壁だと象山は考えていた」(同)

国防のため常に砲台の整備を訴え続けた象山ですが、彼が本当に重視していたのは、砲台の大きさやその数よりも、人材の育成にあったということが分かります。

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□『我ニ救国ノ策アリ 佐久間象山向天記 』仁木英之著
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●人材こそ資源であり最高の武器となる

太平の世と鎖国が長く続き、「平和ボケ」のような状況にあった幕末の日本に突如訪れた列強の荒波。既得権益にすがる人たちは、いつの世も何とか現状のまま穏便にやり過ごす方法がないものかと考えるものです。
それに対して佐久間象山は、早い段階から時代の趨勢を冷静に分析し対処しようとしていました。

「今日本の軍勢の指揮を執っているのは、地位とか家柄といった理由によってそのポストについているものが多い。普段は、酒を飲んだり遊んだりして、戦争の戦略や軍勢をどう動かすかなどということは全く知らない。こんな連中では国家が危機のときに、兵を率いて敵の攻撃を防ぐことなどできない」(『幕末の明星 佐久間象山』 童門冬二 著)

ではどうすればいいか。資源も技術もない日本をどうやって守るか。
象山は、ただ現状を憂いていただけではありません。

「物が出ない。技術も遅れているとなれば…」彼は一人考え続けた末、一つの結論に達していた。「人を資源とするべき。和洋の学に通じ、異国の脅威を打ち払える大いなる武を備えたナポレオンのような人物に自らなり、そして人材を見つけて鍛え上げねばならん」 (『我ニ救国ノ策アリ 佐久間象山向天記』(仁木英之 著)

ようするに人材こそ資源であり、最高の武器であると象山は悟ったのです。
そして有能な人材とは、地位や出自ではなく、いかに高い志をもっているかで判断されるべきであり、そうした人材は教育によって培われると彼は考えていました。

今では当たり前のことですが、階級制度がかたく守られていた当時においては画期的な考え方でした。
高杉晋作は、まさにその考えを実行に移し階級を越えた奇兵隊を組織しています。彼は、象山の門下生であった吉田松陰の愛弟子であったと同時に、象山本人にも直接会って影響を受けています。

もちろん象山自身、まず先がけてナポレオンのような人材・資源にならなければならないと考え、誰よりも真剣に、そして幅広く、新しい学問を吸収しようとしていました。

自分自身の中に秘められた無限の鉱脈を発掘し、それを最大限に活用する方法を学ぶ――象山の教育論は、アクティブブレインセミナーにもそのまま通じるところがあります。

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□『幕末の明星 佐久間象山』童門冬二著
□『我ニ救国ノ策アリ 佐久間象山向天記 』仁木英之著
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