偉大な業績を残した人たちの多くは、初めから順風満帆だったというわけではなく、その成功に至るまでの過程において、さまざまな紆余曲折を経てきています。
なかでも中村天風の生涯は、その数奇さ、波乱万丈さにおいて群を抜いているといえるでしょう。
1876年、大蔵省エリート官僚の家に生まれながら、手の付けられない暴れん坊で、ケンカをすれば、相手の指を折ったり耳を引きちぎるようなことまであったようです。
柔道の試合で天風(当時は三郎)に負けた相手が、その腹いせにナイフを手に闇討ちをしてきたとき、天風は逆に相手を刺殺してしまいます。
正当防衛が認められはしましたが、その事件をきっかけに学校を退学となり、10代半ばにして玄洋社(政治結社)に籍を置きます。
天風はそこですぐに頭角を現し、その能力を高く評価した頭山満(玄洋社総帥)の紹介によって帝国陸軍の軍事探偵(諜報員)として、満州へと渡ります。まだ16歳の時のことでした。
日露戦争の開戦が間近に迫った頃、天風はロシアのコサック兵に捕えられますが、銃殺刑執行の直前に部下の助けにより脱出に成功しています。
日露戦争の後、天風は陸軍で通訳の仕事に従事しますが、満州時代の無理が祟ったのか、当時不治の病とされた重症の結核を患ってしまいます。
病気を克服するために天風はアメリカに渡り、名門コロンビア大学で医学を学びます。
そこで医学の限界に直面した天風は、精神面から病気に打ち勝つ道を探し求めてイギリスやフランスに渡航、著名な哲学者や思想家と交流を深めます。
しかし、そこでもまた根本的な救いを得ることができず、諦めて日本への帰路につきますが、その途上でインドヨガの指導的立場にあったカリアッパ師と運命的な出会いをします。
一目見てすぐに天風が抱えている問題を見抜いたカリアッパ師に驚嘆、天風はそのまま弟子入りしてヒマラヤ山脈麓の村で2年半に及ぶ過酷な修行を続けます。
そこで得た悟りの体験を元に、天風は独自の実践哲学「心身統一法」を体系化し、その普及のために「統一哲医学会(後の天風会)」を創設、後進の指導に生涯を捧げます。
天風の思想の根幹にあるのは「絶対積極」という心のあり方。
「健康も、運命も、心一つの置きどころ」「人間の心で行う志向は、人生の一切を創る」ーー陽転思考にも通じるその哲学は、松下幸之助や稲盛和夫をはじめ、多くの人に多大な影響を与えています。
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□書籍のご紹介
『運命を拓く』
中村天風/講談社文庫
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