(マラキ書 3:8-10, 新改訳) [8] 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。それは、十分の一のささげ物と奉納物をもってである。[9] あなたがたは、ひどい呪いに呪われている。あなたがた、この民全体がわたしのものを盗んでいるからだ。[10] 十分の一のささげ物をすべて、倉に運び入れ、わたしの家に食物があるようにせよ。これによってわたしを試してみよ。――万軍の主は言われる――わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。


 

 

 

私たちはしばしば、世の中の多くの人々が聖書をまるであたかも古い古文書のように見なしているのを目にします。彼らは聖書には良い徳談がたくさん込められているけれど、その大部分は今私たちが生きている現代には適用できないものだと考えています。

 

 

しかし、聖徒たちはすべての神様の霊的な法則は、いくら歳月が流れても変わることなく今も作動していると信じ、御言葉に従うことを通じて神様の働きを経験します。今日も神様の御言葉を信じて従うことで勝利する聖徒となられることをお祈りいたします。

 

 

 

Jack Hartman and his wife Judy Hartman

 

アメリカに Jack Hartman(1932-2023)という実業家がいました。1974年、ハートマンの会社は大きな財政的困難に陥り、再起の可能性がなくなりました。その時、彼は友人を通じてイエス様を信じるようになりましたが、それでも会社の財政状態は良くなりませんでした。

 

 

 

Jack Hartmanが財政に関する霊的な法則を悟り、執筆した著書

 

 

そこでハートマンは決心しました。「信じるなら、はっきりと信じよう! 聖書には間違いなく祝福の原理があるはずだ」。その時からハートマンは聖書を通じて、神様が豊かにしてくださる方法が何であるかを探しました。そのように集中的に聖書を研究してみたところ、聖書が語る富の法則は、結局「種をまくこと」であったということを知りました。

 

 

 

Jack Hartman(1932-2023)と彼の妻 Judy Hartman(1937-2019)

 

 

ハートマンはその時から涙ながらに種をまきました。そして聖書に出てくる財政に関連する句を小さなカードに書き、常に身につけて持ち歩きながら、聖書の御言葉通りに財政運営を行いました。時には会社の財政が苦しくても、変わることなく献金を捧げました。聖書の御言葉に従って霊的な種を植えることでした。

 

 

 

Jack Hartmanが財政に関する霊的な法則を悟り、執筆した著書

 

 

そのたびに秘書は言いました。「社長! こんなことをしていては、もっと早く潰れてしまいます」。ハートマンはその言葉を聞いても、当然すべき献金を諦めませんでした。もちろん、そのことは簡単なことではありませんでした。お金が急用な時は血の気が引くほどでした。

 

 

 

Jack Hartmanが財政に関する霊的な法則を悟り、執筆した著書

 

 

それでもハートマンが変ることなく献身すると、神様は不思議にも財政的な危機を乗り越えさせてくださり、結局会社も大きく繁栄させてくださいました。ですから、彼は今も世界各地を回りながら、聖書通りに生きれば祝福を受けるという事実を伝えています。彼が書いた本は1994年に韓国語でも翻訳されましたが、タイトルは「神様に財政問題を委ねなさい(Trust God for your finances)」で、ベダニ出版社から出版されました。

私たちが覚えるべき種まきの法則には7つがあります。

  1. 先にまいて、後で刈り取ります。刈り取るためには、まず種をまかなければなりません。そうしてこそ、収穫することができます。

  2. 種をまく前に畑を耕さなければなりません。種が根を下ろすためには準備ができていなければなりません。畑を耕さずに植えると、芽が出ても根を下ろすのが難しくなります。

  3. 時間が経ってこそ刈り取ることができます。どんな種もまいた直後に刈り取ることはできません。どんな事でも始めたからといって、すぐにその結果があることを期待してはいけません。

  4. まいた種がすべて実を結ぶわけではありません。10個まいたからといって、10個すべてから収穫できるわけではありません。したがって、すべての事に成功だけがあることを期待してはいけません。世の中で自分を好きだという人が10人のうち7人いれば、あなたは立派な人です。

  5. まいたものよりは、もっと多く刈り取ります。すべての種から収穫できなくても、結局は自分がまいたものよりはるかに多く刈り取ります。あまり焦らず、一喜一憂しないでください。

  6. 豆をまいたところには豆が生え、小豆をまいたところには小豆が生えます。したがって、どうせ植えるなら、尊く良い種を選んで植えなければなりません。そして、自分だけに良いものより、世の中に有益なものを植えなければなりません。

  7. 種子は残しておかなければなりません。冬にいくら飢えても、来年まくための種子は残しておかなければなりません。種子を食べてしまえば、何も収穫することができません。

 

 

十分の一献金は、神様に植える財政の種です。

 

 

使徒 Paul the Apostle(5-67)はコリント人への手紙第二で、種まきの法則についてこのように語りました。 (コリント第二 9:10, 新改訳) 種をまく人に種と食べるためのパンを備えてくださる方は、あなたがたにもまく種を備え、それを増やし、あなたがたの義の実を豊かにしてくださいます。

 

 

 

十分の一献金は、神様に植える財政の種です。

 

 

そうです。神様はまく者である私たちに、種と食べるための糧をくださると言われました。どちらも同じ穀物ですが、そのうちあるものは食べてもよい糧ですが、あるものは食べてはならず、植えて明日を期すべき種となります。絶対に種としてくださった十分の一を、自分の糧として食べてしまわないよう願います。

 

 

 

十分の一献金は、神様に植える財政の種です。

 

 

今日の本文の御言葉に、十分の一は聖徒が必ず植えなければならない種であると語られています。種をよく植えて、後日豊かに収穫される聖徒となられることをお祈りいたします。

(ルカ 5:4-6, 新改訳) [4] 話が終わると、シモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」 [5] するとシモンが答えて言った。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何一つ捕れませんでした。でも、お言葉通りに網を下ろしてみます。」 [6] そして、その通りにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。

 

私たちが信仰生活を送る際、神様は時として私たちの理性や知性を超えた従順を命じられることがあります。そうなると、私たちの心は葛藤に苛まれ、どうすべきか困惑してしまいます。しかし、そのような時に自分の判断を捨て、神様の御言葉を信じて従えば、驚くべき実を結ばせてくださいます。

 

 

 

ヨルダン川で身を洗うアラムの軍司令官ナアマン

 

 

列王記第二 5章を見ると、アラムの王の軍司令官ナアマンは、イスラエルの預言者エリシャに自分のツァラアト(重い皮膚病)を治してほしいと願い出ます。これに対し、エリシャはヨルダン川へ行って七回身を洗うように命じます。この言葉を聞いたナアマン将軍は、そのやり方が気に入らないと言って一々問い詰めます。

 

 

 

ヨルダン川で身を洗うアラムの軍司令官ナアマン

 

 

「私の考えでは、預言者がわざわざ出て来て、私の患部の上に手を振り、祈って治してくれると思っていたのに。それにヨルダン川で身を洗えだと? それならば、我が国ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのどの川よりも優れているではないか」と、自分の判断を押し立てて憤ります。その時、幸いにもナアマンの家来たちが彼をなだめました。

(列王記第二 5:13, 聖書協会共同訳) ナアマンの家来たちが近づいて彼に言った。「父よ、あの預言者がもし、何か大変なことをするように命じたとしたら、あなたはなさったのではないでしょうか。まして、あの預言者があなたに『身を洗って、清くなれ』と言っただけではありませんか。」

 

その言葉を聞いて思い直し、エリシャを通して与えられた神様の御言葉に従ったナアマンは、病が完全に癒やされました。

 

 

 

ペテロに命じられるイエス様

 

 

本日の本文に登場する漁師ペテロも、明るい昼間には魚を捕ることができないという自身の長い経験や、先祖代々伝わってきた確固たる知識があるにもかかわらず、イエス様の御言葉に従います。

(ルカ 5:5, 新改訳) するとシモンが答えて言った。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何一つ捕れませんでした。でも、お言葉通りに網を下ろしてみます。」

 

 

ペテロが従順したときに魚でいっぱいになった網

 

 

このようにペテロがイエス様の御言葉に従った時、網が破れ、舟二隻が沈みそうになるほど魚が捕れるという奇跡が起こりました。

 

 

 

デイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師

 

 

南アフリカ共和国にあるロビンヒルズ教会で成功した牧会を行っていたデイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師は、ある日突然、神様の御声を聞きました。「お前が牧会している場所を離れなさい。そして街へ出て行き、人々の足を洗いながら、しもべとして仕えた私の愛を示し、福音を伝えなさい。」

 

 

 

デイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師

 

 

彼はこの御言葉があまりにも当惑するような召命であったため、14ヶ月もの間、悩みながら祈りました。「この声は本当に神様の御心だろうか。」

 

 

 

『イエスのための愚か者』(On the road with Jesus)

 

 

ケープ牧師は著書『イエスのための愚か者(On the road with Jesus)』の中で、最初に神様の御声を聞いた時についてこのように述べています。「神様、人々が本当に自分の足を洗わせてくれるでしょうか、主よ。それは完全に馬鹿げたことです。いっそ地を割って私を飲み込ませてください。なかったことにできませんか。」

 

 

 

デイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師

 

 

 

彼は叫び出したいような心境になりました。しかし、彼は神様の御言葉に従わなければならないことを悟り、「愚か者にならなければならないなら『イエスのための愚か者』になろう」と決心し、結局すべての働きを置いて「街頭洗足事役」に従いました。

 

 

デイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師

 

 

ケープ牧師は「イエス様が洗われた足は幸せな足です」というフレーズが刻まれたTシャツを着て、十字架、たらい、水瓶、タオル、椅子など20kgを超える荷物を背負い、諸都市の隅々を歩きながら、主が命じられる場所ならどこへでも行って人々の足を洗う「洗足事役」を始めました。

 

 

 

デイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師

 

ケープ牧師は3,000kmを超える長い道のりを歩き、悪天候の中でも重い荷物を背負って数多くの逆境を通り抜けながら従順しました。その間、彼の妻と子供たちはトレーラーに乗って移動しながら彼のためにとりなしました。

 

 

デイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師

 

 

ケープ牧師は2年間、国家の元首、主要都市の市長、軍の将軍から、組織暴力団、アルコール依存症者、同性愛者、ハンセン病者に至るまで、主が心に示された人々の足を洗いました。

 

 

デイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師

 

 

すると驚くべきことに、その現場で超自然的な癒やしと回復の歴史が起こり始めました。壊れた家庭が回復し、アルコール依存症が癒やされ、組織暴力団員が足を洗ってもらったその場で主を受け入れ、彼と同行したりもしました。

 

 

南アフリカ共和国のピーテル・ウィレム・ボタ

(Pieter Willem Botha, 1916-2006)前大統領

 

 

彼は南アフリカ共和国のピーテル・ウィレム・ボタ(Pieter Willem Botha, 1916-2006)前大統領の足も洗いました。

 

 

デイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師

 

 

ケープ牧師は言います。「今までどれほど多くの人に高速道路や道で出会い、足を洗ったか分かりませんが、優に数千人にはなるでしょう。ただ、神様が教えてくださったことがあります。『神の国には成功も失敗もなく、ただ従順があるだけだ。一日に二、三十人の足を洗えば、その日は成功した日なのか。そうではない。神様は私たちの中心を見られる。』神様が望まれ、求めておられることが一つあるとするなら、それは私たちが神の子として従順することだ。」

 

 

 

デイビッド・ケープ(David Cape, 1945-)牧師

 

 

このように、神様は今日も御言葉に従う聖徒たちを通して働かれます。このような神様の霊的な原理は今も変わりません。今日も私たちが理解できなくても、主の命令に従えば多くの実を結ぶことができます。神様に従い、人生の中で驚くべき奇跡の実を結ばれる聖徒となりますようお祈りいたします。

 

(ペテロの手紙 第一 2:9-10, 新改訳) [9] しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招き入れてくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。[10] あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

 

 

ゴミで作った楽器の演奏団

 

 

聖徒となった私たちが、神様を知らなかった頃を時折振り返ってみると、その大きな愛と恵みに感動し、涙を流すことが多々あります。罪人であった私たちを救うために、神であられるイエス様が私の代わりに頬を打たれ、拳で殴られ、唾をかけられ、鞭で打たれ、裸にされて多くの人々の前で恥をさらされました。そして十字架で亡くなられることで、私たちに永遠の命を与えてくださいました。

 

 

リサイクル楽器の演奏団

 

 

この恵みと愛がどれほど大きいものか、言葉では言い表すことができません。神様のこのような驚くべき恵みによって、私たちは選ばれた種族であり、王である祭司となり、神の所有となった民となりました。誠に驚くべき身分の変化を授かったのです。

 

 

南米パラグアイ・アスンシオンの場所

 

 

南米パラグアイの首都「アスンシオン(Asunción)」の郊外には、巨大なゴミ埋め立て地の上に築かれた貧民街「カテウラ(Cateura)」があり、そこには約2,500人の村人が暮らしています。この村では、あらゆるものがゴミだらけです。

 

 

 

パラグアイ・アスンシオンにあるゴミ埋め立て地

 

 

パラグアイ中から出るほとんどのゴミをゴミ収集車が運び込み、この村に捨てていきます。村人たちが総出でその中から「まだ使えるゴミ」を探すことが、ほぼ唯一の生計手段でした。そのため、村の人々の多くは麻薬や酒に溺れ、何の希望もなく生きてきました。

 

 

 

ファビオ・チャベス(Favio Chavez, 1975–)

 

 

ところが、このゴミの村を変化させた二人の人物がいます。12年前、その村にやって来た環境工学者のファビオ・チャベス(Favio Chavez, 1975–)と、古物商のニコラス・ゴメス(Nicolás Gómez, 1948–)です。

 

 

 

ニコラス・ゴメス(Nicolás Gómez, 1948–)

 

 

2006年頃、彼らはそこで貧困や麻薬、ギャングに囲まれた子供たちを見て、このままにしてはいけないと考え、音楽を通じて子供たちの人生に肯定的な影響を与えようとしました。

 

 

 

カテウラ・リサイクル楽器オーケストラ

 

 

しかし、楽器一つが家一軒の値段よりも高い場所で、楽器を手に入れるのは容易ではありませんでした。そこで、この二人はゴミを集めて楽器を作りました。捨てられたトレイはバイオリンになり、オイル缶はチェロになりました。

 

 

カテウラ・リサイクル楽器オーケストラ

 

サックスやトランペットは古い排水管やコイン、瓶の蓋で作られました。音楽を学びたがる子供たちは次第に増え、やがてオーケストラが誕生しました。それが「カテウラ・リサイクル楽器オーケストラ」です。

 

 

 

ゴミで作った楽器

 

 

このようにゴミで楽器を作ることも驚くべき変化でしたが、より素晴らしい変化は子供たち自身に起こった変化でした。カテウラは依然として貧困による苦しい状況にありますが、子供たちは音楽を知り、夢を見るようになりました。音楽は子供たちと村に希望を吹き込みました。子供たちの物語は映像作品(映画『ランドフィル・ハーモニック』)となり、ニューヨーク・タイムズなど世界のメディアで紹介されました。そして子供たちはついに、音楽の本場であるヨーロッパなどを訪れ、感動の旋律を届けたのです。

 

 

 

ゴミから楽器を作る廃品回収業者のニコラス・ゴメス

 

 

カテウラ・リサイクル楽器オーケストラを創設したファビオ・チャベス指揮者は、記者とのインタビューでこう語りました。「この子供たちは常に隠されてきました。人々は子供たちの潜在能力、さらには子供たちの存在すら知りませんでした。私たちはこの子供たちをステージに立たせました。今、人々は子供たちを知っており、子供たちの存在を認識しています。世界は私たちにゴミを送ります。しかし、私たちは音楽を返します!」

 

 

使い道がなく捨てられたゴミが、技術者の手に出会って楽器に変わったように、聖霊様が人生に触れてくだされば、人は新しい価値を持つ被造物へと生まれ変わります。アルコール依存症の人が酒を断ち、暴力を振るっていた不良が善人に変わり、不道徳だった人が慎み深くなる歴史が起こります。

 

 

ゴミの山から作られた楽器

 

 

さらには、かつて死を前にして震えていた存在が、イエス・キリストを通じて新しい命を得ることで、永遠の命を見つめ、希望を持って生きる人生へと変わります。今日もこの感激の中で生きながら、このように素晴らしい変化を起こしてくださった神様に、感謝をもって栄光を帰す聖徒の皆様となりますよう、お祈りいたします。

 

(テモテへの手紙 二 3:7-8, 新共同訳) [7] 彼らは、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知るに至ることがありません。[8] ヤネとヤンブレがモーセに敵対したように、彼らも真理に敵対しています。彼らは知性の腐った者、信仰の失格者です。

 

 

 

私たちは信仰生活を送る中で、時として深いスランプに陥ることがあります。中には、そのスランプが深刻で信仰や教会を離れてしまう人もいます。さらには、神に逆らって生きるようになる人さえ現れます。

 

 

 

本日の御言葉は、使徒パウロが終末にこのように信仰の病にかかる者が現れることをあらかじめ警告したものです。真理に敵対し、心が腐敗し、信仰において見捨てられるということは、実に恐ろしく恐ろしいことです。ですから、私たち聖徒は毎日自らの信仰を振り返り、肥やしと水を与えて、美しく健康な信仰を維持しなければなりません。

 

 

内村鑑三 (1861-1930)

 

 

日本の有名なキリスト教思想家である内村鑑三 (1861-1930) は、1861年に日本の下級武士の家庭に生まれ、1930年に世を去ったキリスト教指導者です。1868年、日本は比較的短期間で成し遂げられた大変革である明治維新に成功しました。この明治維新の成功後、日本は産業国家へと発展し、今日の経済大国に至りました。

 

 

 

内村鑑三 (1861-1930)

 

 

明治維新100年を迎えた年、日本はそれまで日本の近代化と産業社会の発展に寄与した、日本を代表する知性20人を選定しました。その20人の中には伊藤博文 (1841-1909) が含まれており、戦後日本の初代首相であった吉田茂 (1878-1967) のような人物も含まれています。

 

 

内村鑑三 (1861-1930)

 

 

ところが、その20人の人物の中に、日本キリスト教を代表して内村鑑三が入っているのです。このことから、彼が日本の近代史に及ぼした影響と位置づけを推し量ることができます。

 

 

 

内村鑑三 (1861-1930)

 

内村鑑三は「呪い」について次のように語りました。「もし神に呪いというものがあるならば、それは病気でも失敗でも、裏切られることでもない。もし呪いがあるならば、それは三つである。

 

 

内村鑑三 (1861-1930)

 

 

第一は、神が信じられないことである。いくら信じようとしても信じられない。それは見捨てられた心である。第二は、聖書を読み、暗唱聖句を覚えても、聖書についてはよく知っていると言うが、神の言葉が聞こえないことである。聖書を読む中で神の声が聞こえてこなければならない。

 

 

 

内村鑑三 (1861-1930)

 

 

説教を聞く中で神の声が私の耳に届かなければならない。これが聞こえないならば、その人は呪われた人である。第三の人は、感謝する心がない人である。感謝する心が湧いてこない。このような人は、何を考えても恨みと不平が浮かぶだけである。」

 

 

内村鑑三 (1861-1930)

 

 

その通りです。私たちの信仰生活も自分の力でするものではありません。神の助けによって信仰を守ることができるのです。しかし、絶えず聖霊に逆らって生きていると、ある瞬間、神の導きを感じることも、見分けることもできなくなる恐ろしい呪いに落ちてしまうことがあります。

 

 

St. Paul

 

だからこそ、使徒パウロはフィリピの聖徒たちに次のように勧告しました。

(フィリピの信徒への手紙 3:18-20, 新共同訳) [18] 何度も言ってきたことですが、今また涙ながらに言います。キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。[19] 彼らの行き着く先は滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを栄光とし、この世のことしか考えていません。[20] しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは切に待っています。

 

 

 

今日も聖霊様に敏感であり、その中で健やかで、称賛される聖なる聖徒の人生を歩まれることをお祈りいたします。

 

(ルカの福音書 6:22-23) [22] 人の子ゆえに、人々があなたがたを憎むとき、またあなたがたを排斥し、罵り、あなたがたの名を悪しきものとして投げ捨てるとき、あなたがたは幸いです。[23] その日には、喜びなさい。躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。


 

 

神様が導かれる道

 

 

聖徒がこの世で神様の御心に従って生きていると、時には人々から非難されたり、妨害されたり、のけ者にされたりすることがよくあります。なぜなら、世の本質は欲に従って利益を得る道へと動こうとしますが、神様は公平と正義に従って、聖なる道へと聖徒を導こうとされるからです。

 

 

 

神様が導かれる道

 

 

したがって、神様の御声を聞き、その御言葉に従って生きる聖徒は、しばしば世の中で不利益を被ったり、時には物笑いの種になったりすることもあります。しかし、聖徒は神様の御心でなければ、一歩も動くことはできません。主が違うと首を振られるなら、たとえ世の中のすべての人々が大丈夫だと同意したとしても、その道に行ってはならないのです。

 

 

 

セシル・ローズ(Cecil John Rhodes, 1853–1902)

 

 

19世紀、イギリスがアフリカを植民地化していた時代、代表的な二人の人物がいました。一人はイギリスの政治家でケープ植民地の首相を務めたセシル・ローズ(Cecil John Rhodes, 1853–1902)という人物です。彼はイギリス政府が推進したアフリカ縦断政策に加担した、有名な帝国主義者でした。

 

 

 

セシル・ローズ(Cecil John Rhodes, 1853–1902)

 

 

彼は1877年に書いた手紙の中で、イギリス国民であるアングロ・サクソン族は最も優れた高貴な人種であり、したがって彼らが増えれば増えるほど人類にとって良いことだと主張するなど、白人至上主義者でした。

 

 

セシル・ローズ(Cecil John Rhodes, 1853–1902)

 

その一方で、黒人たちは子供のように愚かであると言い、黒人たちを彼らの土地から追い出し、産業発展のための道を作るために、様々な議会法を導入しました。

 

 

 

反対派によって引き倒されるセシル・ローズの像

 

 

結局、彼は多くのアフリカ先住民を虐殺し、莫大な量の金とダイヤモンドをイギリスに持ち込みました。これにより、ローズは国民からイギリスを真に愛する愛国者であり、英雄として称賛されました。

 

 

デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone, 1813–1873)

 

 

その一方で、同じ時代を生きたもう一人の人物がいました。宣教師であり探検家であったデイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone, 1813–1873)です。リヴィングストンはイギリスの植民地侵略政策と奴隷制度に反対しました。リヴィングストンはアフリカへ渡り、そこで病人を癒し、貧しい人々を助け、学べない人々に教えを説きながら、神様の福音を伝えました。

 

 

デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone, 1813–1873)

 

 

イギリス政府の立場からすれば、リヴィングストンは植民地政策に反対し、むしろ植民地の人々を助ける人物であったため、厄介な存在と見なされました。そのため、帝国主義的な利益を優先した政治家や商人たちにとっては、不都合で不快な存在でした。

 

 

 

反対派によって引き倒されるセシル・ローズの像

 

しかし、時が経つにつれ、セシル・ローズという人物は人々から強欲な人物として記憶されるようになりました。一方、リヴィングストンは偉大な宣教師として称えられ、イギリスのウェストミンスター寺院に安置され、今もなお多くの人々に尊敬されています。

 

 

自分を訪ねてきたスタンリーを迎えるリヴィングストン

 

今日、私たち聖徒も、多くの人がそうであるように、利益を追う世の中の判断と価値観を優先して生きるべきだという圧迫と挑戦を多く受けます。

 

 

 

首を切り落とされたセシル・ローズの像

 

 

しかし、重要なのはこの世の評判ではなく、神様が評価される基準です。したがって、世の評判や要求に屈することなく、イエス様が望まれる天国の弟子としての道を歩むことで、神様に喜ばれる主のしもべとなられることを祝福し、お祈りいたします。

 

(ローマ人への手紙 13:12-14, 新改訳) [12] 夜はふけ, 昼が近づきました。ですから, 私たちは暗闇のわざを脱ぎ捨て, 光の武具を着ようではありませんか。[13] 遊興や深酒, 淫らな行いや好色, 争いやねたみを捨てて, 昼歩むように, 端正に歩もうではありませんか。[14] 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たそうと, からだに心を配ってはいけません。

 

 

 

私たちがこの世を生きる時, 世の中の価値観은 私たちにこの地上の栄華と名声を最高のものとして追い求めるよう誘惑します。しかし, 今日の神様のみことばは, 私たちに「暗闇のわざを脱ぎ捨て, 光の武具を着なさい。遊興や深酒, 淫らな行いや好色, 争いやねたみを捨てて, 端正に歩みなさい。主イエス・キリストを着て, 肉の欲を満たそうとしてはいけない」と勧告されています。

 

 

私たちはいつか, 主なる神様の御前で申し開きをしなければならない「良き管理者(清吏)」です

 

私たちはいつかこの世を去り, 神様の前に立つことになります。そして, その御手に私たちの人生の果実が盛られたかごを差し出さなければなりません。その時, 何も入っていない空のかごであったり, 恥ずべき果実であったりするのではなく, 美しく香りに満ちた果実でいっぱいのかごを捧げられる聖徒となられるよう祝福いたします。

 

 

George Frideric Handel (1685-1759)

 

 

George Frideric Handel (1685-1759) は, ドイツで生まれイギリスで活動したバロック時代の作曲家であり, 46曲のオペラや優れたオラトリオをはじめ, オーケストラ, バイオリン, チェンバロ, オルガンの分野に至るまで多くの作品を残しました。しかし, 若い頃のヘンデルは, 恵まれた信仰的背景があったにもかかわらず, 「名目上の信者」として生きていました。

 

 

George Frideric Handel (1685-1759)

 

1737年, 52歳になった彼は脳出血により右の手足が不自由になり, オルガンの演奏もできなくなりました。借金は増え, 友人も去っていきました。結局, 彼は酒で心を紛らわせながら, 挫折と孤独の中に囚われていました。

 

 

George Frideric Handel (1685-1759)

 

そんなある日, 酒に酔って街をさまよった末に宿舎に戻ると, 同僚の劇作家からのメッセージが残されており, 簡単なメモと共に聖書を題材にした一篇の詩が入っていました。それをもとに作曲してみないかという提案でした。それはイザヤ書40章1節から5節のみことばを引用した内容の詩で, 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。主なる神は言われる。主の栄光は現され, すべての者が共にこれを見る」という内容でした。

 

 

George Frideric Handel (1685-1759)

 

ヘンデルはこのみことばと詩を読みながら, これまでの自分の人生が間違っていたことを深く悟り, 悔い改めました。そして, その心情をそのまま五線譜に写し始めました。1741年8月24日から24日間, ヘンデルはほとんど食べることも眠ることもせず, 部屋に閉じこもって作業に没頭しました。時には感激のあまり一人でひれ伏して泣きじゃくりながら, 260枚に及ぶオラトリオ「メサイア(Messiah)」を完成させたのです。

 

 

メサイアを完成させた後, 彼は同僚にこう告白しました。「私は偉大なる主と, 私の前に広がっている天国を思い, また見た。作曲している間, 自分が体の中にいたのか, 体の外にいたのか分からなかった」。

 

 

 

George Frideric Handel (1685-1759)

 

ヘンデルは神様に召されるまで, この曲を30回以上演奏しました。臨終の1週間前, 最後の公演の時, 彼はすでに失明しており指揮をすることさえ困難でしたが, 最後まで任務を全うし, こう語りました。「私が息を引き取る日は受難週であればいい。そうすればイースター(復活祭)に主にお会いできるだろう……」。ヘンデルはその願い通り, 1759年4月14日, イースターを前にこの世を去りました。彼はウェストミンスター寺院に葬られ, その日3,000人もの人々が集まり彼の死を悼みました。

 

 

 

私たちはいつか, 主なる神様の御前で申し開きをしなければならない「良き管理者(清吏)」です

 

今日, 私たちが世の服を脱ぎ捨て, キリストを着ることを決心する時, 神様は私たちを通して素晴らしい計画と果実を準備してくださるでしょう。それは私たち自身はもちろん, 世界を変える素晴らしい祝福となるはずです。私たちを通して世界を明るく照らしてくださる神様の御手に委ねられる人生となられますよう祝福いたします。

 

(マタイによる福音書 25:20-21, 新共同訳) [20] 五タラントン預かった者は、ほかに五タラントンを持って来て言った。『御主人様、五タラントン預けてくださいましたが、御覧ください、ほかに五タラントン儲けました。』 [21] 御主人は言った。『良い忠実な僕だ。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人の喜びを共に喜んでくれ。』

 

 

私たちの人生は、主人からタラントンを委ねられた執事

(清進、チョンジギ)のようなものです。

 

私たちは世の中を生きながら、「人生は自分のものであり、したがって自分の持ち物で自分の思い通りに生きていい」という世俗的な価値観に惑わされることがあります。しかし、聖書ははっきりと語っています。私たちの人生は、神様から託された使いの人生、すなわち使命であることを悟らせてくださるのです。

 

 

私たちの人生は、主人からタラントンを委ねられた執事

(清進、チョンジギ)のようなものです。

 

したがって、使いの人生を歩む私たちは、時間を浪費したり、自分の欲のままに生きたりすることはできません。ただ、使いを命じられた神様の御心を常に心に留め、その召命を全うするために努力しなければなりません。私たちの命が終わる日、「良い忠実な僕だ」という称賛を受ける聖徒になられることをお祈りいたします。

 

 

ホセ・カレーラス(1946-)

 

ホセ・カレーラス(1946-)というスペインの声楽家は、ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴと共に世界の三大テノールとして知られています。ホセ・カレーラスは1970年のデビュー後、ヴェルディ国際音楽コンクールで1位を獲得して注目を浴び始め、ミラノ・スカラ座、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、サンフランシスコ・オペラ、ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場などを舞台に、世界最高峰のテノールとして認められました。

 

 

ホセ・カレーラス(1946-) (中央)

 

また、2009年には韓国の慶熙大学校開校60周年記念公演のために来韓し、白血病患者のための慰問公演も行いました。ホセ・カレーラスが白血病患者に対して並々ならぬ愛着を持つようになったのは、彼自身が人生の絶頂期に白血病という苦難を経験したからでした。

 

 

ホセ・カレーラス(1946-)

 

声楽家としてホセ・カレーラスの名声が最高潮に達していた1987年、彼が41歳の年の7月、有名なオペラ「ラ・ボエーム」の主役を務めて練習に励んでいた最中、突然倒れて病院に運ばれ、急性リンパ性白血病という診断を受けました。

 

 

 

ホセ・カレーラス(1946-)

 

ホセは「これでもう終わりだ」と思いましたが、ヒゼキヤ王の物語を思い出し、神様にすがり始めました。「神様、私に命をもう少しだけ延長してくださるなら、残りの人生は主のために生きます。」そして、彼は強靭な精神力で闘病生活を始めました。髪が抜け、手足の爪が剥がれ落ちる中でも、賛美と祈りを止めませんでした。骨髄移植手術と過酷な化学療法も信仰によって耐え抜き、ついに彼は健康を取り戻しました。

 

 

 

ホセ・カレーラス(1946-)

 

 

この時から、ホセ・カレーラスは自分の人生を自分自身のものとは考えなくなりました。自分が再び生きられるようになったのは、全面的に神様から新しい命を授かったからだと信じ、全財産を売ってバルセロナにホセ・カレーラス国際白血病財団を設立し、白血病患者の支援を始めました。

 

そして、彼はこの活動のために公演で得た収益金の半分を捧げました。ホセ・カレーラスが経験した白血病は、彼の人生の方向を変え、自分の人生が自分勝手に生きていい自分のものではなく、使命を託された命であることを悟らせたのです。

 

 

オプラ・ゲイル・ウィンフリー (Oprah Gaile Winfrey, 1954-)

 

米国の有名な女性トークショー司会者であるオプラ・ゲイル・ウィンフリー (Oprah Gaile Winfrey, 1954-)の自叙伝を見ると、「私の中にはイエス・キリストがおられます。あの方は偉大です」と語り、使命について次のように述べています。① 人より多く持っているということは、祝福ではなく使命である。② 人より苦しんでいることがあるなら、それは苦痛ではなく使命である。痛みを知る人だけが、痛みを抱える人に奉仕できるからだ。③ 人よりときめくことがあるなら、それは妄想ではなく使命である。④ 人より重荷に感じることがあるなら、それは強制ではなく使命である。

 

 

オプラ・ゲイル・ウィンフリー (Oprah Gaile Winfrey, 1954-)

 

今日、私たちも、自分の人生は決して自分自身のものではなく、神様から託された使い(使命)を果たしているのだということを悟り、神様を喜ばせる実を結ぶ聖徒となられますよう願っております。聖書は次のように教えています。

 

(箴言 25:13, 新共同訳) 忠実な使いは、これを送る者にとって、刈り入れの時の冷たい雪のようだ。主人の魂を生き返らせる。

 

今日もこのように、神様の心を爽やかにし、神様の喜びとなる聖徒になられることを切にお祈りいたします。

(イザヤ書 40:28-31)

[28] あなたは知らないのか、聞いたことがないのか。主はとこしえにいます神、地の果てまで創造された方。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。[29] 疲れた者に力を与え、勢いのない者に勢いを増される。[30] 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき、倒れよう。[31] しかし、主に望みをおく者は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。


 

 

Rüppell's vulture

 

人がこの世を生きていく方法には、数多くの種類があります。しかし、聖書の御言葉は、人生の生き方をたった二つに区分しています。

第一は、自分の力で生きる方法です。しかし、この方法は危険であるだけでなく、結局は滅びることになると言われています。これは今日の御言葉にあるように、「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき、倒れよう」と表現されています。

 

 

Rüppell's vulture

 

「若者」や「勇士」は、人生において最も力と生命力に満ち溢れた時期を指します。しかし、そのような人々であっても、生きていく中で困難に出会えば、つまずき、倒れることがあるのです。これを別の御言葉では、次のように表現しています。

(詩編 33:16)「軍勢が強くても、王は救われない。勇士が力強くても、自らを救いえない。」

 

 

Rüppell's vulture

 

聖書が語る第二の生き方は、神様に寄り頼むことです。このような人は、「神様の新しい力を受けて、鷲のように翼を張って上り、走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と言われています。

 

 

Rüppell's vulture

 

鷲は鳥の王であり、鳥類の中で敵うものはいません。世界中に48種類が存在しますが、空中に浮遊しながら10km先にいる獲物を確認し、急降下する際には最高時速180kmで獲物を捕らえます。そのため、鷲は主に空中に滞在しており、通常は風に乗って高度5kmまで舞い上がり、90kmにも及ぶ広大な地域を自らの領域として狩りを行います。

 

 

Rüppell's vulture

 

これまで目撃された鳥の中で、最も高く飛んだ鳥はリュッペルハゲワシ (Rüppell's vulture) で、ギネス世界記録に登録されています。この鷲は1973年11月、西アフリカのアイボリーコースト(コートジボワール)のアビジャン ($Abidjan$) 上空で民間航空機と衝突しましたが、その時の高度は約11.3kmでした。この高度は航空機の巡航高度であり、気温が零下50度まで下がる場所です。

 

 

Rüppell's vulture

 

しかし、鷲の飛行方法は他の鳥とは異なります。雀も飛び、鷲も飛びますが、その方法は全く違います。雀は自分の翼と筋肉の力で飛び回ります。しかし、自分の翼の力だけで飛ぶため、高い大空を長く飛ぶことはできません。通常、30〜40mほど飛ぶと降りなければなりません。もしそれ以上飛ぼうとすれば、息が切れ、胸が破裂しそうになります。それは、自分の筋肉の力だけで飛ぶためです。

 

 

 

Rüppell's vulture

 

それに対し、鷲は風に乗って飛びます。鷲は翼を激しく羽ばたかせて飛ぶ鳥ではありません。むしろ、翼を素早く動かして瞬時に舞い上がったり、あちこちへ方向を変えたりできる鳥は雀です。雀は体が小さくて軽く、翼も短いため、速く力強い羽ばたきで飛び回ります。

 

 

Rüppell's vulture

 

一方、鷲は雀のように羽ばたいて飛ぶのではなく、風に乗ってグライダーのように滑空します。広げた翼の長さだけで2.5〜3mに達するため、素早く羽ばたく代わりに上昇気流に身を任せるのです。英語の聖書では、鷲が飛ぶことを "Soar on" と表現しています。これを辞書で引くと、「航空機がエンジンを切り、気流に乗って飛ぶ」という意味が含まれています。

 

 

Rüppell's vulture

 

したがって、鷲は常に風の気流に敏感です。鷲は空気の中から上昇温暖気流を見つけ出し、それに乗って高度5,000メートルまで上昇します。もし雀に5,000メートルまで登れと言えば、500メートルも行かないうちに力尽きて落ちてしまうでしょう。雀は自分の筋肉の力で飛ぶため、長くても数十秒間しか連続して飛ぶことができません。しかし、鷲は上昇気流に従って2〜3時間もの間、空中に留まることができます。

 

 

 

Rüppell's vulture

 

今日、鷲の科(科)に属する神の民は、決して雀のように羽ばたき、自分のあがきで舞い上がろうとしてはなりません。そうすれば、一時は速く飛べるように見えても、遠くへ、高く、そして長く飛ぶことはできません。

 

 

 

では、どのように飛ぶべきでしょうか。聖徒たちは、神様が与えてくださる「霊的な上昇気流」を見つけ出し、その気流に身を委ねなければなりません。自分の力で生きるのではなく、神様を頼りにし、その力で生きるのです。この霊的な上昇気流とは、神様が私たちに適時($適時$)に聞かせてくださる御声です。ですから、私たちは常に神様に近づき、その御声を聞くことに敏感でなければなりません。

 

 

 

(イザヤ書 30:21)「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳は背後から、『これが道だ、これに歩め』と言う言葉を聞く。」

 

 

 

いつも主の御声に敏感であり、その導きに従って信仰によって歩み、信仰の大空を支配する勝利の人生を歩む聖徒となられることをお祈りいたします。

 

 

(ヨハネ 15:12-14, 聖書 新共同訳より抜粋) [12] わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。[13] 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。[14] わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。


 

 

十字架(じゅうじか)は、わたしたちに対(たい)する神(かみ)の愛(あい)のあらわれです。

 

私たちは人生の中で大小さまざまな愛を経験しますが、イエス様は、人間の愛の中で最も大きなものは「他人のために自分の命を捧げること」だと仰っています。神様はこのような至高の愛で罪人である私たちを愛してくださり、独り子であるイエス様をキリストとしてこの地に送り、私たちの命の代価として支払われました。この愛によって救われた私たち聖徒は、同じ愛をもって神様を愛し、兄弟姉妹を愛すべきです。

 

 

連合軍兵員輸送船ドチェスター号

 

 

第二次世界大戦の最中であった1943年1月23日、ニューヨーク港を出港した連合軍の兵員輸送船ドチェスター号 (SS Dorchester)は、902名を乗せてグリーンランドへと向かっていました。航海12日目の2月3日、ドイツの潜水艦がドチェスター号に接近して魚雷を発射しました。魚雷を受けたドチェスター号は間もなく浸水し始め、船内は阿鼻叫喚の地獄絵図となりました。

 

 

ドイツ軍の魚雷攻撃により沈没したドチェスター号

 

 

しかし、その混乱の中で4人の軍牧たちは沈着に救命胴衣を配り、兵士たちを救命ボートへと誘導しました。これ以上配る救命胴衣がなくなると、クラーク・ポーリング中尉は一人の兵士に尋ねました。

 

 

沈没(ちんぼつ)したドチェスター号(ごう)と、殉教(じゅんきょう)した四人(よにん)の軍牧(ぐんぼく

 

 

「君はイエスを信じているか?」 「いいえ。」 すると軍牧は、自分が着ていた救命胴衣を脱いで渡しながら言いました。 「私はイエスを信じているから、今死んでも天国へ行ける。君はこの救命胴衣を着て生き残り、必ずイエス様を信じて天国で会おう。」 4人の軍牧は全員、自分の救命胴衣を脱いで兵士たちに与えたのです。

 

 

 

殉教(じゅんきょう)した四人(よにん)の軍牧(ぐんぼく

 

 

ドチェスター号に水が次第に満ちてくると、4人の軍牧たちは互いに腕を組み、傾いた甲板に立って賛美歌「主よ、御許に近づかん (Nearer, My God, to Thee)」を歌いながら祈りを捧げました。当時生存した兵士、グレイディ・クラーク (Grady Clark)は軍牧たちの最期をこのように証言しました。

「私が見た最後の光景は、軍牧たちが祈っている姿です。彼らは最善を尽くし、私はそれきり彼らを見ることはありませんでした。彼らは自分が着ていた救命胴衣を兵士たちに譲り、死を選んだのです。」

 

 

殉教(じゅんきょう)した四人(よにん)の軍牧(ぐんぼく

 

 

こうしてドチェスター号の乗船者902名のうち、わずか230名が生き残り、672名が亡くなりました。この事件の後、生き残った水兵たちは軍牧たちの犠牲を記憶しました。トルーマン大統領は、ジョージ・フォックス (George L. Fox, 1900-1943)アレクサンダー・グード (Alexander D. Goode, 1911-1943)クラーク・ポーリング (Clark V. Poling, 1910-1943)、ジョン・ワシントン (John P. Washington, 1908-1943)の4人を称える「四軍牧記念礼拝堂 (The Chapel of the Four Chaplains)」を建立しました。

 

 

殉教(じゅんきょう)した四人(よにん)の軍牧(ぐんぼく

 

 

アメリカのフィラデルフィア市では、勇敢で犠牲的な4人の軍牧を永遠に記念するために「フォー・チャプレンズ記念館」を建て、「4人の不滅の軍牧たち」という記念切手を発行しました。1992年には作曲家のジェームズ・ディ・パスクァーレ (James Di Pasquale)が彼らを題材にしたミュージカル『永遠の光 (The Light Eternal)』を制作・上演し、大きな感動を呼び起こしました。

 

 

殉教(じゅんきょう)した四人(よにん)の軍牧(ぐんぼく

 


今日、私たちはイエス様の十字架の犠牲によって永遠の命を得ました。贈り物として受け取った私たちのこの貴い命が無駄にならないよう、自分の欲に従って浪費することなく、主の御心に従って生きて多くの実を結んでください。私たちがこのようにイエス様の御心に従って生きれば、恐れ多くもイエス様の「友」として迎えてくださると仰いました。

 

 

十字架は、わたしたちに対する神の愛のあらわれです。

 

(ヨハネ 15:14, 正統改訳より) 「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」

 

今日もイエス様の良き友となり、主を喜ばせる聖徒となられることをお祈りいたします。

 

(列王記下 7:9、新改訳) そのとき、彼らは互いに言った。「私たちは正しくないことをしている。今日は良い知らせの日なのに、私たちは黙っている。もし明け方まで待っていれば、私たちは罰を受けることになる。さあ、今すぐ行って、王の家に知らせよう。」


 

 

イエスの血で洗った亜麻布を着せてくださること

 

 

私たちは神の恵みによって救われた罪人です。神の恵みがなかったならば、私たちは地獄の永遠の刑罰を受けるほかありませんでした。しかし、私たちは誰かによって福音を伝えられ救われた、「福音に負債のある者」です。したがって、聖徒は生涯、この感謝の念と負債があるという責任感を心に抱いて生きなければなりません。

 

 

 

アラムの陣営で莫大な食糧を見つけたらい病の人たち

 

 

かつて、アラムの軍勢がサマリアの町を包囲していましたが、神の奇跡によって密かに逃げ去りました。町の外にいた飢えたらい病の人たちは、この事実を知らないまま、夜中にアラムの陣営に向かいました。彼らは飢え死にするのも、捕らえられて殺されるのも同じだという心境でアラムの陣営に降伏し、食べ物を乞うために行ったのです。そんな彼らは、もぬけの殻となったアラムの陣営で、全く期待していなかった膨大な食糧を得て喜びました。しかしそのうちに、彼らはサマリアの人々がどれほどの飢えに苦しんでいるかを思い起こしました。

 

 

 

アラムの陣営で莫大な食糧を見つけたらい病の人たち

 

自分の子供さえ食らうほどに窮乏していたので、朝まで待てばその間にもどれほど多くの人が飢え死にするかと考え、らい病の人たちは互いに言いました。「今日は良い知らせの日なのに、私たちは黙っている。もし明け方まで待っていれば、私たちは罰を受けることになる。さあ、今すぐ行って、王の家に知らせよう。」

 

 

 

アラムの陣営で莫大な食糧を見つけたらい病の人たち

 

らい病の人たちは食糧を豊かに得て嬉しかったのですが、飢えた同胞の命に対する責任感ゆえに、サマリアの町にこの知らせを伝えることを一刻も猶予しませんでした。今日の私たち聖徒も、このような責任感を持って御国の福音を伝えなければなりません。

 

19世紀頃、海賊たちは船を駆ってアフリカへ来、黒人たちを乱暴に捕らえて船に載せ、西インド諸島へと運びました。そこには世界最大の奴隷市場があったため、奴隷たちはそこから世界各地へと売られていきました。ある時、黒人たちをいっぱいに載せた船が西インド諸島へ航海中でした。

 

 

 

アフリカのシエラレオネ

 

これを発見したイギリス海軍が海賊を捕らえましたが、その船に載せられた黒人たちの中には12歳の少年がいました。イギリス海軍はこの少年と家族を、西アフリカ南西部に位置するシエラレオネのフリータウン(Freetown、現在のシエラレオネの首都)で解放してくれました。その少年はそこで家族と共に、イギリス聖公会の宣教師を通じてイエス様を受け入れ、洗礼も受けました。そして宣教師学校で英語を学びましたが、宣教師たちは少年の実直さと信仰を見て、イギリスへ留学させてくれました。

 

 

 

ナイジェリアの奴隷出身の聖職者、サミュエル・クラウザー

 

 

彼はイギリスで大学を卒業した後、良い職の提案を受けましたが、自分を救ってくださった神の恵みに報いようと、故国へ戻ることを決心しました。「神様、私は奴隷として連れて行かれ、一生下働きをする運命でしたが、神様が私を救い出し、貴い学びまで許してくださいました。ですから、私はナイジェリアの同胞のために命を捧げます」と言いました。

 

 

 

ナイジェリアの奴隷出身の聖職者、サミュエル・クラウザー

 

こうして青年となった少年はナイジェリアに戻りました。当時アフリカはイギリスが支配していましたが、イギリスで学んだ青年はイギリスをよく知っていました。彼はイギリスとの関係を深めながら、ナイジェリアの近代化と福音化の基礎を築きました。彼は福音を伝えることとヨルバ語聖書の翻訳、教育事業に先頭立って取り組み、祖国を水準の高い国にすることに全力を尽くして努力しました。

 

 

 

ナイジェリアの奴隷出身の聖職者、サミュエル・クラウザー

 

その結果、数多くの魂が主のもとへと立ち返り、ナイジェリアはアフリカで指折りの国となりました。これに対し、ナイジェリア国民は彼に「ナイジェリアの使徒」という別名を贈りました。この人物こそが、Samuel Ajayi Crowther (1809-1891) です。彼は言語学者でありナイジェリアの聖職者であり、西アフリカ初の不朽のアフリカ人聖公会主教として奉仕しました。

 

 

 

ナイジェリアの奴隷出身の聖職者、サミュエル・クラウザー

 

神の前で失われた魂に対する責任感を痛感したクラウザー主教、一人の献身と愛によって、数百万のナイジェリアの人々が神のもとへと戻ってきました。今日、私たちもこのような救霊の熱情が心の中で燃え上がることを願い、この時代、私たちの祖国が私によって救いの道へと立ち返るよう祈り求める聖徒の歩みとなることを、主の御名によって祝福し、お祈りいたします。