日本に限らない。 世界中で、民主主義の基盤制度である「現行の選挙制度」は、既に破綻していると言うべきだろう。

私が、政府へのコンサルティングを行ってきた東南アジアでも、アフリカでも、旧ソ連でも、そして、我国日本でも、選挙が、本来あるべき姿から遠い形で実施されているからだ。

選挙のあるべき姿とは、

【長期的に国家経済、国民生活を向上させ、国際平和を実現する政治のための選挙】である。

アフリカや旧ソ連では、人々や産業の必需品の流通を止め、価格上昇による利益から、立候補者は、多数の有権者への手当(賄賂)を支払う。

日本では、今回(2015年4月26日)の統一地方選(後半)では、89の市長選のうち30%以上で選挙が実施できなかった。

町村長の選挙は、40%以上で、選挙することなく、首長が決まった。

問題は、立候補者がいないことである。

司法関係者は、何を見ているのか?

各地で「選挙権の格差」で訴訟しているが、「選挙権の格差」より、「被選挙権の格差」が遥かに甚大な問題なのだ。

被選挙権の格差が大きいために、立候補者倍率が非常に低く、そのため、多くの地方で立候補者の質が低く、有権者には、十分な選択肢がないのだ。

法律面から見ても、選挙制度は、選挙運動などで数多くの問題を生んでいるが、

政治行政においては、理工系などの実務家が得意とする技術面、財務経済評価の観点で、愚かな行為が重ねられている。

その理由は、政治家に理工系や財務経済系の実務肌の人材が、殆どいないからだ。

政治は、10年、20年後における、国家や地域の盛衰さえ、決めることがあり、有権者の多くは、政治が大切であることを知っている。

2011年3.11に、福島原発事故が起こった。

その原因と事故収拾の不手際を見たとき、これは、

一企業(東京電力)、一地方(福島県など)や、中央の政府機関の問題と言うよりも、中央や地方のリーダーである政治家の情報収集力とリスクマネジメント力が、なかったためであることがわかる。

もっと、正確に言えば、各時期の政権党というより、連綿と続く日本の政治・行政上の欠陥が顕在化したのである。

弱点とは、政治家を選ぶ際の競争不足、

 そこから来る外部環境(有権者・住民)に対する無関心、

  そして、結果としての政治・行政の怠惰な姿勢である。

外から反省や疑問の声が上がったとしても、内向き構造の中で関係者が誰も動かない。

競争のない小さな狭い仲間だけでの議論で、皆で気持ち良く、生きてきた。

しかし、今回の選挙で、多くの首長選挙が成立しない理由を深く考えるなら、その要因が、「選挙制度」にあることがわかるだろう。

海外先進諸国の多くでは、地方議員は殆ど年数十万円の経費だけの、無給に近い条件で熱心に活動している。

彼らは、仕事を終え、夕方や休日、議会に集まり、真剣に審議する。

しかも、分権化が進んでいる多くの先進諸国では、地方議会の権限は、日本より大きいのである。

近隣の友人たちから、推薦されお願いされているのなら、経費だけでも、夕方や休日に地方議会を実施することができる。

それは、経験知識の豊富な人材にとっては、誇らしく、名誉だからだ。

150年以上も前に欧米諸国が開始した制度を基礎とする「現在の日本の『選挙制度』」でも、暴君とか、富を独り占めする横暴な権力者を排除することはできる。

しかし、現在、どこの政治でも、より高度な政策内容を必要とする。

それは、世界で選挙制度が提案・確立された100年以上前と異なり、現在は、技術、産業、国際化、金融、医療、教育などの分野で、遥かに高度で精度の高い意思決定が要求されるからである。

 

しかし、精緻な技術を用い、高度に分業化された現代社会においては、誰一人、全体を把握することはできていないのである。

その意味で、現在の選挙制度は、我々の社会を健全にするニーズに、全くマッチしていない。

それは、選挙が、依然として強者(メディアや大企業)が、政治家、政党との巧妙で合法的な取引により、趨勢を決めるからだ。

私たちは、2001年の9.11以降、なぜ、米軍は、アフガニスタン、イラクを攻撃し、

その結果、なぜ、テロリストが増加し、

なぜ、イスラム国が生まれたかを考えるべきだろう。

政府の公的予算をバックに、大きな資金力のある軍産複合体が、多数の有権者をまとめながら、海外での利権確保を目的に、常に戦争準備をしているからだ。

テロ集団や紛争当事者らには、国連常任理事国を中心とした武器輸出大国から、継続的に武器弾薬が供給されているからだ。

個々人皆が、戦争を望んでいるわけではない。

テロリストや紛争の増加を計画しているわけでもない。

政治の仕組みと経済の構造が、政治家や産業のリーダーたちに影響を与え、世界の不幸、米国の不幸を生むのである。

巨大な企業組織や政府組織の問題はなんだろう。

それは、それらに属したり、それらと取引をする人々が、近い将来の収入や地位のために、長期的な思考力を失うことである。

経済社会の中で高い地位獲得に成功した経営幹部は、

多くが短期思考となる。

今、政治の議論で必要なことは、何に対応するかではなく、各課題をどうするかである。

何をすべきかは、皆、明白だからだ。

それは、若い世代を育て、教育を実践的なものに改革し、産業を育て、雇用を創出し、経済を活性化させることである。

また、我国は、世界の平和を推進・維持していくことにも貢献すべきだろう。

高度に発達した産業と技術、グローバルな経済と国際社会を前提に、どのようにするかを議論しなくてはならない。

これらは、先進諸国の歴史を研究し、開発途上国で産業経済の発展にかかわってきた専門家にとっても、簡単なことではない。

現在、欧米先進諸国を初め、世界の人々が、そして、日本の我々が、民主主義の基盤のように考えている現状の「選挙制度」は、あまりにも表層的な競争を強いており、有権者の思考力を低下させ、地域への郷土愛も育てない。

現在の選挙制度では、立候補者らは、「有権者から遠いところで、空疎な言葉を吐き続け、仲間や近隣の人々から見ると、避けるべきもの」として、活動しなければならないからだ。

しかし、本当に政治家たちと個人的に接すれば、彼らの殆どが、真面目に地域や国を思う人たちであることがわかる。

問題は、選挙制度の不備のために、選挙での競争が少なく、政策実施、実務面で弱い人材が多数であることである。

特定の人々との癒着や互恵取引なしでは勝てない選挙制度。

つまり、立候補者は、本来あるべき政策より、有権者にアピールする言葉を考える。

それが、混乱を生み、ある種のメディアの格好の話題にされる。

立候補者だけでは、回答ができない世界にありながら、深く考えない多数の有権者の方向や趣向に合わせなければならない選挙制度が、問題なのだ。

どのようにすべきか。その解決策は、有権者にも、政治家にもないのである。

その回答には、双方のコミュニケーションと高度な思考が、必要となる。

 

つまり、現場を知る人々(ボトム)からの情報の流れ(ボトム - アップ)と実行には、健全なリーダーシップによるトップ - ダウンが必要だということである。

問題は、立候補者の人柄でも、従来の政治家の行動でもない。

双方のコミュニケーションを促進させない選挙制度にある。

問題は、彼らを選ぶ「仕組み」が、旧態依然としていることにある。

なぜ、選挙制度を変えなければならないか?