豊かで自由な社会と平和のために!

豊かで自由な社会と平和のために!

旧ソ連、アジア、アフリカ、日本国内で評価制度などのコンサルティングをしています。国際教育推進機構 / KaizenDo など主催  http://iedi.org/across/ https://ameblo.jp/across-iedi/entry-12687328169.html?frm=theme (文責:渡邊穣二)

本ブログ「戦略経済研究所」は、2020年11月より、

https://senryakukeizai.net/ でも継続されています。渡邊穰二
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【コンサルティングコンセプト(Consulting Concepts)】
   
・「小さな会議」vs.「大きな会議」 (Small Meeting vs. Big Meeting)

「大きな会議」は、上意下達の機会。
「小さな会議」は、質疑応答・熟議のため。
「小さな会議」は、日本/シンガポールなどの小集団活動(QCC)など数多くの成功例がある。

・トーナメント方式熟議選挙(学校、コミュニティなど)
Deliberative Democratic Tournament Election (DTE)

リーダー(アイデア)の選出法として、会議を重ね、トーナメント(勝抜き)で選ぶ方法。
現代社会のメディアの不健全性(売上・視聴率目的)を排し、理解を深める方法として、
『リーダーに【なりたい人】からでなく【ならせたい人】から人物を推す』方法。

「仕事基準」vs.「人基準」
(Value-based vs. Person-based Management)

人間は、人の属性(性別、年齢、学歴、人種、資格、縁戚・・などの行動や仕事で変えられない要素)を通じて、評価・判断する性質(「人基準」)である。そのため、顧客(市場・外部・他人)にとっての「仕事の価値」をみるべき(「仕事基準」)とする考え方。

「仕事基準」を担保し、組織の健全性を維持するのが、
付加価値報酬制(CVA: Compensation by Value-Added)である。

3P = Person + Position + Performance):3つの「仕事基準」要素をきちんと評価する。
特に大切なものは、Position(責任・役割の幅、深さ、難しさ)の評価である。

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【勝抜き熟議選挙】は、コミュニティ再生、政治経済の健全化のための究極のモデル。
DTE (Deliberative Democratic Tournament Election) 詳細は、
日 http://ameblo.jp/across-iedi/entry-11962108991.html 
英 http://ameblo.jp/across-iedi/entry-12003235345.html

私が理解する通貨制度について、疑問があるようだが、以下でその本質が分かるだろう。

 

日露戦争の頃の日本の政府予算は、数億円であった。

 

当時、日本の人口は、4千万人程度であったが、我国を欧米列強諸国、特にロシア帝国から守るため、技術のない日本は、英国から軍艦を買い、ユダヤ系金融業者からお金を借り、ぎりぎりの知恵を絞り、必死の国際交渉をしたのである。

 

ロスチャイルド家の陰謀だという説もあるが、当時の日本のリーダー達は、逃げるわけにいかなかったのである。

 

ところで、現在の政府の一般予算は、100兆円超である。

 

単純に約100年で5億円が100兆円になったとすれば、20万倍である。

 

では、

現在の我々日本国民は、20万倍、豊かに、或いは、より幸福になっているだろうか。

 

20万倍と言われると、答えは、多分、「否」であろう。

 

では、なぜ、こんなに数字がクレージーに増加したのかと言えば、これは、数字の魔術が働いたためである。

 

魔術に見えるが、通貨の本質=「数」というだけなのだ。

 

この地球上、空気、水、あらゆる物資には、限度があるにもかかわらず、人が考え出した数値には、限度がない。

 

最近、携帯通信が、4Gから5Gになろうとしているので、通信データ量が100~1000倍になると騒がれているが、

 

通信速度(波長を1/2 x 1/2 x 1/2・・と限りなく短くできる。)も数字の遊びで、雑音除去の技術が発達すれば、通信量を限りなく増加できる。

 

一般に文系エコノミストは、数に弱く、多次元空間とか、無限の概念で思考できない。

 

国債が、増加し過ぎると暴落が起きるなどと、余計なお世話だ。日銀が買い入れた役割を終えた国債が、日銀にあって、何が悪いのか。

 

経済運営とは、経済を流れる通貨の量(GDP=フロー)が、重要課題であって、眠った金融資産は、あるというだけのこと。

 

国債が増加すると、通貨量が増える。

両方とも金融資産だが、皆、金持ちになって何が悪いのか。

 

金融資産を、常に経済全体に増加しなければ、流れるお金(収入)を塩付け(預金)にする金持ちは、それなりにだが、経済弱者が、疲弊するばかりになる。

 

自国を心配しているうちに、他先進諸国は、どんどん通貨総量を増加して、過去30年間で日本の1.5倍以上、遥かに豊かになっている。

 

これは、完全に文系エコノミストの犯した大罪である。

過去20年間で何人の人々が、経済苦から自殺しただろうか。

 

累積した何万人もの自殺者数は、売文により個人的利益を求めて、勘違いからの警告を発し続け、日本経済を衰退させた文系エコノミストの責任である。

 

なぜ、警告を発するかと言えば、記事を売るためである。

40年前にも、累積国債(GDP:50%)から、日本経済の破綻が確実という本があったが、いったいいつになったら、数学のできず、実態経済を知らない文系エコノミストは、愚かな勘違いに気づくのだろう。

 

学習意欲の低いエコノミストの言動は、迷惑だ。

 

彼らは、賢いふりをして警告を発するのだが、通貨は、数の性格が、本質である。

 

どんなに増加しても、何と言うこともない。

 

未来において、通貨も債務もいくらでも限度なく増加するが、その対策として、最後には、デノミすることとなるだろう。

 

理由は、桁数が、やたらに多いと、面倒だというだけの便宜上の理由だけだ。

 

(単純に言えば、貸方の負債は、借入がどの銀行。誰から出たかの記録であり、資産は、現状どこに投資されているかである。

 

債務ができたとたんに、同額の資産ができて、その資産を使う人の労力が、地球全体では、さらに資産を生み、どこまで行っても、地球全体では、債務超過にならない。)

 

つまり、デノミでは、これまでの1000円を1円に数えなおす。

 

円と言う単位が同じで嫌なら、「大円」とか「丸」とかの新たな通貨単位にしても良い。そうすれば、預金通帳の印字の桁が少なくて済む。

 

地球全体での経済的な資産価値を20京円として、うち、5京円が自由に動き回る金融資産としよう。日本の株式市場価値は、600~700兆円で、世界の株式市場全体では、1京円である。

 

日本の金融資産合計は、約8000兆円である。

 

これら数値は、今後も限りなく増加していくだろう。

 

しかも、その価値評価の方法は、日々、市場で取引される(全体の 0.1%~3%)価値で全体を評価する。

 

つまり、

 

【単価 x 債権の数 = 全体価値】

 

誰でも「本当?」と尋ねたくなるような数値である。

便宜上、計算に使う;いい加減さだ。

 

基本的にこんないい加減な数値の遊びにかまう必要は、ない。

 

そのアナロジーとして日本人に分かり易いのは、「水」である。

 

通貨を地球上の「水」のように考えるとどうだろか?

 

私たちは、毎日、水を飲み、使っているが、その総量を気にしているだろうか。

 

私は、政治家に福島原発からのリチウムを含む汚染水の放流対策を提案した時、太平洋の平均深さが、3.6kmであることを知ったが、我々は、目の前にある太平洋の水量を、気にしていない。

 

我々の認識の中、それは、ほぼ無限に多いというだけである。

 

各国通貨量も金融資産量も全体としては、数字の性格上、今後も限りなく多くなる。

 

と言っても、地球上には、水が不十分の地域もある。

 

中東諸国では、無限に広がる海洋水を浸透膜技術で純水にして、配布すれば良いのだ。(技術的に、必要に応じて通貨さえ供給すれば、全て解決していく愉快さ)

 

通貨も困っている経済弱者がいれば、働く意欲や人としてのプライドが傷つけられないような仕組みで、支援し、補助してやれば、良い。

1980年代だった。

 

アフリカのザンビアに国際協力援助に行った。

 

あちらでは、炭鉱から出た石炭の中、製品化できない石炭屑を大量に廃棄する一方、家庭の燃料として森林を伐採していた。ここに何とか日本の技術を活用して豆炭を製造する技術を移転して、森林伐採を止めるというのが、計画である。

 

首都ルサカから、一日、8時間、車で走った。

 

途中、多くの村々があったが、村の店に入ると、売っているものが、非常に少ない。

 

経済分析を担当していた同行の岩城教授に尋ねると、

 

「いやー。地方に来ると、バーター取引が中心ですね。」

などどのんびりした声で説明する。

 

つまり、我々、日本人が驚くような最低限の食料と日用品で生活している人々だが、通貨の保有量も少なく、様々なものを物々交換している。

 

彼らの主食は、トウモロコシである。

 

あちらでは、国民の生産供給力が低いが、お金の蓄積も少ない。

 

つまり、石炭や銅などの天然資源はあるが、全体として、経済価値を生み出す力が少ないので(売るものがない)、外貨が足りない。

 

様々なモノを輸入する企業は、入札で外貨を中央銀行から買って、営業を続けていた。(世銀などの指導による。)

 

このような国で、税収が少ない国家財政運営のため、多くの通貨(カチャ)を発行すると、猛烈なインフレになる。

 

通貨が経済にあふれても、国全体に生産供給力(物・サービス)が低いため、モノの価格が上がる。

 

日頃、お金のない人たちが、お金を持つと、購買行動を起こす。

 

つまり、お金が、潜在需要を顕在化させるのである。

 

これが、大学などで学ぶ私たちの知る「経済学」が扱ってきた経済である。

 

そのため、通貨を過剰に供給してはいけないと学ぶわけだ。

 

しかし、現在の先進国経済は、潜在的供給力が圧倒的に過剰の世界である。戦後~数十年前の日本で、誰が、現在の日本市場で、生産供給している衣類の6割を破砕するようになると、考えただろうか。

 

現在、70歳以上の男性の4分の1、女性の6分の1が、糖尿病である。運動不足の日常を送り、カロリーの取り過ぎなのだ。

 

食料の3割上を廃棄している日本で、医者の指導を守れば、食料は、さらに余るであろう。

 

以上の話は、日本全体でのことであるが、部分的にセクターにより、母子家庭の母親が、失業しているなどの問題がある。保育士や介護士の給与が、低いため、適切なサービスが、提供できないなどの問題がある。

 

その対策として政府が、適切な財政政策により、経済的に人々を救済すべきである。

 

困っている人々を救済しようとすれば、できるし、将来にわたって何の問題もない日本経済である。

 

考え方を学びたい方は、以下を参照していただきたい。

 

 

 

声楽・合唱をしていて、分かったこと。

 

それは、西洋の声楽・舞踊は、イメージとして「高さ(高い響き)」を目指すことにある。

 

この点、日本の能楽は正反対である。

 

能楽や舞楽は、舞と呼ぶが、舞と踊りとの違いは、通常の動きで足が床から離れるかどうか。離れなければ、舞であり、能・仕舞の足の運びは、床を離れることがない。

 

茶道で立って移動する時、足を擦るようにするが、これが、着物を着る習慣のあった日本人の基本だろう。

 

能楽の演者の動きを見ると、頭の高さを変えず、床に平行に一定の速さで移動する。

 

膝を少し曲げ頭が上下しないように調整する。

 

観客には、この世の人の動きとは、感じられない。日常から離れ、そこに幽玄を感じるのである。

 

これに近い動きは、現代なら、車輪で動く電動式ロボットのそれである。

 

能楽の発声は、腹を固めて、声の響きを地面に這わせるイメージで、その点、演者は、一番下に響きを下げれば良いので、迷いがない。

 

都合の良いことに、能で地謡を数人でしていても、発声が問題になることがない。

 

謡曲は、練習を繰り返していると、自然に喉周りの筋肉が鍛えられ、発声が良くなる。腹の中の内筋も鍛えられるという説もある。

 

しかし、謡曲を学ぶなか、喉や舌の力を抜くとか、喉奥の天井を上げよとの指導は、全く出てこない。

 

つまり、能楽では、下がった響きが標準なのである。

 

合唱(西洋音楽)では、典型的には、口先だけの声など一人でもそのような異なる発声を、指揮者に指摘され、本人も悩むことがしばしばである。

 

西洋、特にイタリアの声楽(ベルカント)は、喉や舌は、もちろん、体の筋肉全体に力を入れずに頭部と上半身全体を響かせる。

 

力を抜いて立って、頭部の重心と、体の重心、さらに、地球の重心が、一直線上になるように立つというのが、私の理解である。

 

私は、体と首の力を抜いて、つま先立ちをする。

そして、頭の重心と体の重心、さらに地球の重心が一直線上になる姿勢を探す。

 

イタリア式声楽の技能の習得はたいへんに難しい。

 

ちょっとした力の入れ具合で、自己流の癖が出ると、響かない発声になる。

 

能の謡曲は、言葉の最初;「声の出だし」に特徴があり、しばしば、下から目指す音程に入る。

 

これは、演歌と同様だが、我々日本人が、気づいていない事実である。

 

例えば、水前寺清子の「ぼろはきてても、こころはにしき」を歌うと、「・・きてて・・」の「き」は、正確に楽譜に記述すると、最初の「き」と「いー」は、別の音程である。

 

しかし、私たち日本人は、「いー」の音程を「きー」全体の音程と認識して、歌い、聞いている。

 

オペラ「Figaroの結婚」などで掛け合いの場面を、夢中で練習していると、私は、突然、謡曲的な発声が出てきて、西洋音楽だけを知る指導者に不思議がられる。

 

メロディの「聞かせどころ」で、気持ちが入り、その癖が出るのである。

 

笑い話になるが、指導者に指摘されても、私には、しばらく、その差が理解できなかった。

 

西洋式の発声だけについていえば、入口に至るまでに長い道のりが必要である。

 

オペラ「フィガロの結婚」より/ W.A.モーツァルト