「愛されたいから、自分を愛する」は、取引だ。
道具化した「されたい」を動機にした行動は必ず、取引の形になって求めていない形で再演する。
私はそれを「モラハラ」と呼ぶ。
「自分が愛されたいから、自分を愛さねば」と確信し、愛したはずの自己はどこにもいない。
それは「他者」に「愛されるために自分を道具化して愛するの真似事」をしているため、なぜ自分を大切に愛しているのに愛されないのか、に至る。
それは「愛という名の病」とも言える。
「不登校を改善するため」に、「自分を粗末にしない」ことが必要だ、として、不登校改善のためという動機は「操作」になる。
どちらも矢印は自分に向いていない。
「誰か」に「こうなってほしい」が事実だからだ。
そのために「自分」を「愛」を、道具化している。
まず「自分を愛する」という言葉が誤解を生みやすい。
「愛されたいから自分を愛する」
「変われば世界が優しくなる」
「手放せば幸せが来る」
これらの耳触りの良い言葉たちが私はとても苦手だ。
だってこれは、
「痛みを感じないための麻酔」
「現実と向き合わないための言語」
だと私は感じてしまうから。
自分を愛するってもっと痛くて泥臭いものだよ。
もっともっと原始的なものだよ。
加害者がナルシシズムを発動して加害している。
それは事実だ。
空虚で空っぽな中身は、常に餌を必要とする。
「自分は求められている」
「頼りになる存在」だって思っていなきゃならないから。それはもう生存の危機と言ってもいいぐらいの逼迫感でだ。
その餌を補充するための方法が、モラハラ加害者にとっての加害行為、加害方法。
だってそうして「良い人だ」という仮面が顔にはりついて取れなくなっているのだから。
それが「本当の素晴らしい自分だ」と信じることで生き延びているのだから。
それを直視することは「死」に等しいほどの崩壊を起こす。だから加害を認めない。
認めるはずがない。
それができる度胸があれば、そもそもモラハラ加害などしないからだ。
でも私は思う。
同じではないけれど、「愛されたい」という一点において両者は鍵と鍵穴である、と。
無価値観を抱えて、愛されたいと願う。
「愛されるためにはどうしたらいいのか」と、矢印を他者に委ね、答えを外に求めることでモラハラは成立する。
指摘されたことを改善すれば、指摘されなくなるかもと、自分という魂を踏みつけられても何くそと頑張り笑う。
「自分の味方をしない」
そのことを子どもに見せつける。
「母や女とはそのように扱ってもよい」と学ぶ男児。
「母や女とはこのように扱われるのだ」と学ぶ女児。
それがモラハラの模倣継承だ。
「とことん自分の味方をする」
これも耳触りがよいかもしれないが、私の言う「それ」は痛みを伴う。
なぜなら自身の中にある「ナルシシズム」の存在、「愛されたいから愛する」を直視せねばならないからだ。
ナルシシズムは、あるか、ないか、で語るものではない。あるから悪い、ないから良いということでは決してない。
皆にある。
それはもう常在菌のように皆にある。
それが「ある」と認めることは、自身にモラハラ加害者と同じ要素があると認めることだから。
あるからこそ成り立っていた、と認めることだ。
それが「在る」ことを、ただ「在る」と認めることが難しく痛みを伴うのだ。
それは想像が及ばぬほど、とても痛く苦しい。
そこを楽園のように私は語れない。
そんな麻酔は「愛されたい」の枯渇を助長すると確信しているから。
私は魂の存在やスピリチュアルを人生で一度も疑ったことがない。
だけど、気持ち悪いと感じるスピリチュアルが私には存在する。
それは「目覚め」や「覚醒」をまるでワープができる煌びやかなものとして扱い、本当の自分を直視しないで済むための逃避に使っているように私には受け取られる時があるからだ。
自分を愛するとか、自分を大切にするとか、自分を粗末にしないって、誰かにはものすごく嫌われることだ。
だって、何がなんでも自分の味方をするんだよ。
あなたが自分を粗末にすることで成り立っていた世界でそれらを「当たり前」として甘受していた側は「裏切り」だとあなたを罵るだろう。
また利用可能な扱いやすいあなたになってもらわないと不便だからだ。
愛を乞い、愛の名の元に支配を受けてきた人間が意思を持ち「NO」と言う。
それは家族やコミュニティを大きく揺らす。
孤独になることもありえる。
いや高確率でそうなるだろう。
その時にあなたはあなたの味方をする。
世界にひとりっきりになっても、あなたがあなたを裏切らない。
それが「自分を愛する」だと私は思っている。
私にとって、ハイジを愛して愛されたあの関係こそが「愛」だからだ。

