しんどさが募るとき
それを口にしないことには相手に伝わらないような気がして
なぜかとても損をしている気持ちになって
自分の苦しみや辛さをどのようにすれば相手に伝えることが出来るのだろうと
しんどさを口にすることは
大抵が無駄骨に終わることが多い。
それは相手が鏡だから。
鏡の相手に
しんどさを口にしても
相手は輪をかけて
自分のしんどさを説いてくるから。
しんどさで張り合うから。
張り合う視点を持つ人と話をすると
どのような報告も
相手にとっては
嫌味になったり
急かしていると取られたり
自慢としてろ過されてしまうので
自分のほうがどのようなことでも
上回る事を伝えようと躍起になるので
会話がキャッチボールにならない。
それはとても骨の折れる会話になり
疲労感だけが残ってしまうが
鏡なだけあって
きっとその疲労感ですら
相手も同じように感じているはず。
自分の話に驚いてくれないことや
しんどさに対して共感してくれないことに
疲労感が溜まっているはずだから。
私も含め
多くの人は
人の愚痴には顔をしかめるけれど
自分の愚痴は正当だと思ってしまうフシがある。
自分がどれだけ醜い言葉で
人を罵っていようが
人が話す一言には過剰に敏感だ。
同時に自分の言葉には鈍感だ。
自分の苦しみをわかってもらいたいという欲求は
言い換えたら
自分の苦しみだけに過剰反応しているとも言える。
過剰反応していながら
自分の苦しみを吐露する言葉には鈍感。
なんというアンバランス。
心のどこかで
常に優劣をつけているのかもしれない。
「自分のほうがしんどい」
と。
笑っていて
楽しそうだから
幸せなんだろうと
その笑顔にもむかっ腹たてて
羨んで。
その笑顔の裏にある
葛藤や
決意に似たモノを読み取れない。
自分こそが相手を表面で判断しておきながら
相手には内面を読みとってもらいたいと熱望するのは
虫が良すぎる気がして。
積み重ねた努力が水の泡になるようなことは
本当にざらにある。
神様なんていないと天に唾を吐きかけたくなるようなこともざら。
だけどやっぱし
心の在り方次第で
水の泡のような悲しみを
糧と捉えることの出来る人がいる。
そういう人は
物事を結果という部分で見るでなく
プロセスで見るような気がして。
そういう人は
心配をかけまいと
しんどさを吐露しない気がして。
そんな理想通りに行けば
何もこんなに言葉を使わなくていいのだけどね。
しんどさをわかってもらいたいとき
わかってもらいたい自分のロックをはずしたい。
そして
「相手のしんどさをわかろうとしているか?」
と
自分に問える自分でいたいと
いつも思う。
陥りやすいことだから。
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