主人から気持ちのこもった謝罪を受けました。
(※詳しくは書いていませんが、是非こちらもお読みください。
→「もう無理かもな。」 )
解決の糸口が無いような
目に見えないことがきっかけなだけに
数日、鬱々した日々を過ごしていましたが
晩御飯を食べたあと
ソファーで次男くんを抱きしめようとしたら
主人が私を抱き締めて足で挟み込み、
耳元で囁くように
「酷いことをしたり言ってごめんな」
と、はっきりくっきりきっぱりと言いました。
なので私は抱き締められたままの格好で
「こっちこそごめん」
と言いました。
主人はこう続けました。
「子供らにまで悲しい思いさせたから、さっき謝った」
私は
「うん。ありがとう。うちからも謝るわ」
と言ってアイスコーヒーを入れて、二人で飲みながらテレビを見ました。
一昔前の私なら
謝罪をしてきた勇気の上にあぐらをかいて
それこそ鼻くそほじくるような無礼さで調子に乗って
「すごく悲しかったよ」
などと心情を吐露したのかもしれないなぁ。
謝罪に対してまでも
被せるというか。
基本アホやからさ、私。
自己変革を決意して行動にうつす中で
目に見える変化というものを相手に感じるとしたら、
それはただの「気のせい」なのかもしれない。
成果みたいなものを
一朝一夕で感じようとすること自体が
傲慢さの現れかもしれない。
懸命に
時に失敗しながらも
弛まぬよう
それでいて張りつめぬよう
自分はまだまだだと
自分は頑張った「のに」などと思わずに
関係が好転せぬこと自体が
足りぬの証明なのだと思いながら生きて接することが
本当の自己変革なのかなと思った。
流れを短いスパンで判断してしまうと
1日に起きた相手の機嫌の良さを
成果だと勘違いして
「良くなったのに、悪くなった」
などと捉えてしまうけれど
そもそも、そんな短い時間で
何かの変化が起きるはずもない。
短いスパンで捉えて
もう充分頑張ったと大して頑張らずに言えることは
歪んだ自己愛だと思うに至る。
歪んだ自己愛は
自分の中で起きる独占欲や執着の苦しみを
相手のせいにすることで処理し
その苦しみに酔って自己憐憫に陥り
「のに」を生み出す。
「頑張ったのに」が出てくる時点で
頑張っていないと思うのは極端だろうか。
頑張る部分だって
力の入れ所を間違えば
ただの意地っぱり。
笑顔で何でも許容するのも歪んでいるけど
全許容も満足に出来ないで
心を出し惜しみするのはイケてないなと思うの、私。
どっちの自分でもいれてこそ選べるわけで。
なんてことを
最近、よく考える自分であります。
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