ブログネタ:寂しいと思う瞬間は?
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実は…。
よくよく考えたら、私…
「寂しい」って、あまり思わないことに気付きました。
子供が健康に生きてくれていてこその話だけど。
「寂しい瞬間、寂しい瞬間…」
と考えても、一人でいるのがこよなく好きだし
一人じゃない時に寂しい瞬間って
妹との電話で、私が今まさにオチを言う直前で妹が忙しくなり
「ごめん!また後で!」とソッコー電話を切られることぐらいしか思いつきませんでした。
その後、寂しい瞬間、寂しい瞬間…と考えた結果。
5歳の息子を保育所に送ったあと
バイバイもせずに友達のところに行ってしまうこと。ぐらいだった。
パパは昔、保育所に通っていた頃
保育所の柵ごしに、母親の姿が見えなくなるまで手を振っていたそうです。
マルコみたいです。(母をたずねて三千里の)
私の5歳の息子は、顔はマルコそっくりなのですが(髪の毛も)
気質はパパと全く違うようです。
マルコ(猿のほうじゃないよ)
昔は(20代の頃)、よく寂しさを感じていたように思う。
「一人のときより、二人のほうが寂しいのは何故」
というようなキモイ詩を書いていたことを思い出します。
なぜあれほどまでに寂しく感じていたのか、今なら少しそのメカニズムがわかる気がする。
なぜあんなにも恋愛に依存したのか。
相手からの気持ちを感じた途端、急に冷めてしまう。
そんなことを繰り返しました。
色んな感情はその時々に身体的にも精神的にも色んな影響を及ぼすけれど
その時々の自分の状態によって、きちんと自分の中で認知されなかった感情やなんかは、
「退屈」とか「寂しい」とかいう漠然としたモノに姿を変えてしまうのかもしれない。
幾重にもラッピングされたような状態で。
「退屈」とか「寂しい」の本当の真ん中の核には
「誰かへの怒り」だったり、「無意識に封印した過去」だったり、「見たくない自分」だったりするのかもしれないと
私は私の経験においてそう学んだよ。
それを生々しく感じないために、それに耐えうる力を持たないときには
頭が勝手に置き換えや消去をしてしまうってことを知った。
隠れ蓑で隠されたかに思えるその記憶は、自分の中で認知できないまま
空虚な寂しさのしこりとなった。
記憶が映画のスクリーンのように浮かんだときは
「ああ、あれは夢では無かったんだ…」という、なんとも言えない気持ちなった。
今、私はとても元気。
楽しいときは楽しいと言えるし、腹が立ったら腹が立ったと言える。
やっとこさ、「寂しい」や「退屈」の正体が見えてきた感じ。
そうなると、一人の時間にしたいことが溢れていることに気付いた。
楽しめるようになったということなのかなと思っている。
むしろ、寂しい瞬間というより
「きっと寂しいだろうな」というのは山ほど浮かぶ。
去年、二人の子供を目の前で亡くした義姉を見ていると
我が子を失う悲しみがどれほどのものなのか、それをただひたすら感じる。
悲しみの比較はしたくないが、それでもやはり
我が子を失う悲しみを越える悲しみが他にあろうかと思ってしまう。
16歳と14歳の子供たち。
義姉は、生きている限りどんな場面からもあの子たちを思い出させるものから逃れることが出来ない。
「コアラのマーチ」という菓子を見るだけで立ち尽くしている。
私の子供が「みたらし団子を食べたい」と言うと涙を流す。
私はただ黙って傍にいるしか出来ない。
私の家の中で、ただぼんやりと過ごす義姉に
「これ一緒に食べへん?」と言うぐらいしか出来ない。
「おいしいな」と言って肩を並べることしかできない。
ふいに子供たちとの思い出を堰を切ったように話し出す義姉の言葉に
「うん、そうやったな。」と頷くしか出来ない。
背中をさすり、タオルを渡し、傍にいるけど私は私の存在を限りなく薄くする。
そうしてまた、ご飯を作りながら義姉の言葉に返事をする。
そんな義姉を見ていると、子供が死んだらとてもとても寂しいだろうと思う。
そしてパパが死んだら寂しいだろうなと想像する。
可愛い愛犬二匹が死んだらきっと寂しい。
くだらない話に花を咲かせる妹が死んだら寂しい。
少々シスコン気味の私の弟が死んだら寂しい。
せっかく関係がよくなってきだした私の両親が死んだら寂しい。
だから現時点、寂しい瞬間はほとんど無いけど
「きっと寂しいだろうな」という瞬間はたくさんある。
大切な人たちが死ぬのは、きっと想像以上に寂しい。
ということです。
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