キンケツ神の話 その2
思い起こせばいつも金がなかった。
いまもないけど(^^ )
理由は簡単。
使うからである。
なぜ使うとかというと、
欲しいものあると手に入れずにいられないからである。
アルバイトの話を続ける
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3年連続で海の家のアルバイトをした。
大学1年の夏でもう海は卒業かなと思っていた。
その1 スキーバム
明けて大学1年の春休み、僕は仲の良い友だちと会員制のロッジにスキーに行った。
友だちが裕福な家でそこの会員だったからである。
しばらく滞在していたら、人手不足なのでアルバイトしないかと打診された。
断る理由が無かったのでぼくは承諾し、
いったん家に戻って荷物をつくり長期バイトとして再度ロッジに入った。
ここは楽な仕事だった。
厨房の配膳や皿洗いが主な仕事で、朝食は10時くらいには終わる。
客に昼は出さないので、まかないを食べて16時くらいまで自由時間がある。
宿の従業員とのことで、リフトの搭乗券の貸し出しがあった。
13時頃から16時頃まで乗り放題である。
他のバイトの子たちと出かけて、3時間くらい滑っていた。
そのうち、別のロッジのバイト連中とも知り合い、愉快な日々を過ごした。
大学2年は4月上旬に始まる。
でも、ぼくはバイトにかまけて5月の連休まで学校に行かなかった。
友だちから呼び出しが来た。
「おまえ、授業全然出ていないだろ。必修の授業は6回休むと単位もらえない。もう4回終わっちゃったぞ。」
このアルバイトはそれで終わった。
楽しいスキーバムの生活も終わった。
ちょうど雪も無くなったから引け時だった。
某有名時計店の御曹司(現CEO)もこのシーズンはずっと一緒だったことを覚えている(笑)
その2 北アルプスの山小屋
大学3年の夏休みは一夏北アルプスの山小屋で働いた。
7月のテスト前に僕は友だちと北アルプスの白馬岳に登っていた。
白馬岳は高校2年の時に部活で登って以来だった。2泊3日の山旅は楽しかった。
そして試験が終わり僕は北アルプスに入った。
山岳写真家をしていた従兄弟の紹介で、
裏銀座は双六池の畔にたつ小池潜(ひそむ)さんの双六小屋にアルバイトとして雇われた。
確か日給¥1800位だったかな。

↑ (現在も小屋バイトはある)
3時半頃に起きて宿泊客の朝食の支度。
その後まかないを食べて部屋、トイレの掃除などを行い、
夕刻より受け入れ、夕食の準備と片付けと言う日課であった。
海の家に比べれば楽勝であった。
標高3000m近くの空気の薄さもすぐになれて、
身体の動かし方もベテランのボッカさんから習った。
ボッカさんは、Sさんという大男でプロスキーヤーだった。
某プロがモンブランを格好するときのポスターで脇役として映っていた。
Sさんは重量挙げの金メダリスト三宅選手と同郷で、
トレーニングなども一緒にしていたと語った。
体格も立派で、なにより凄まじい筋肉と筋力を持っていた。
それでも三宅選手はビールを3カートン担いで山を上がり、
Sさんは2つで精一杯だったと言われたときには驚いた。
Sさんには、本当の山登りの基礎を教わった。
エピソード1:道つくりと滑落訓練
ある時Sさんに
「渡辺君、背負子とツルハシを持ってついてこい」といわれた。
僕は背負子にセメント袋を縛り付け、ゴム長にツルハシをもって、Sさんについて行った。
Sさんは鉈を腰にぶら下げ鋤簾を持っていた。
先日の台風で登山道はやや荒れていた。
岩が飛び出していたり、道標が傾いていたり。
Sさんは、伸びすぎたハイマツを鉈でぶった切ったり、
危ない岩をどかしたり、
鋤簾で登山道の砂利を整えたり。
Sさんが振るう鉈の切れ味は凄まじく、
直径3-4cmのハイマツはバルサのように断ち切れる。
人が動かせるとは思えないような岩も、
彼にかかると造作も無く排除された。
まるでヘラクレスと一緒にいるみたいだった。
熊の糞があった。
「このあたりには、たまに熊がおるなぁ」
「怖いですね」
「うふう、美味いよ、いたら取ってやるよ」
「はぁ?」
なんとも噛み合わない会話があった(笑)
そのうち雪渓をトラバースしなければならない所にさしかかった。
慎重な登山家ならアンザイレンするところかな。
Sさんが言った。
「滑落訓練しよう、教えてやるよ」
それから、小一時間、
ぼくはSさんから滑落停止訓練を受けた。
なんとも冴えない姿で。
作業服、木製の背負子、ゴム長だよ。
そして、ピッケルの代わりに持っているのはツルハシですよ。
でも真剣だった。
ザイルもないし、ゴム長はアイゼンもついてない。
止められないと雪渓の下の方まで落ちてしまう。
岩に激突の可能性もなきにしもあらず。
でも楽しかった。
訓練は突然終わった。
ある場所で、とてもよいワラビの群落を見つけたからだ。
「採っていこう、ダケワラビだよ。漬けると美味いぞ。」
僕の背負子にくくりつけてきたセメント袋2袋ほどワラビを採った。
大事な僕たちの食糧である。
「よし、帰るべ」2袋のワラビはものすごく重かった。
エピソード2:山菜採りと重し
それからも、たまにSさんとワラビや他の山菜採りに行った。
夏の山は知ってさえいれば、食料庫だった。
釣り師の人と小屋から見える喜作新道を目指して沢に下り、しこたまイワナを捕ったこともあった。
イワナは寄生虫がいる可能性があるので、刺身で食べるのは抵抗があった。
でも、食べてみるとすこぶる美味かった。
台風が来たりして降り込められているときは、生鮮食料が無くなる。
おかずも従業員の分は無くなる。
飯を炊いて七味をかけただけの白米を食べていたこともあった。
Sさんは、採ってきたワラビに塩を振って樽につけ込み、蓋をして重しの岩を乗せた。
後日Sさんが里へ下っているときに、
岩をどかしてワラビを食べようとして誰にも岩がどけられず、
ひもじい思いをしたこともあった。
ヘラクレスパワーも困ったものである。
エピソード3:深夜の救助行
小屋に岩田さんという人がきた。
小雨の降る晩に大きな板を担いで小屋に入ってきた。
天気図を書くための黒板で日本地図が書かれていた。
「持ってけっていうから、上げてきた」いいながら袋から郵便物も取り出した。
「山の人だ」と思った。
小柄なほっそりとした人で風貌がシェルパみたいだった。
僕とは結構気があって色々な話を聞いた。
5円持って韓国へ行って半年以上滞在した話。
ネパールのシェルパと暮らしていた時の話。
シェルパの使う“ククリ”という逆半月のナイフの使い方を教わったりした。
「こうやって、首っ玉を掻く」と平然と言われると、
「この人なら、本当に首っ玉を掻いたことがありそうだな」と思えた。
天気の良い日は、小屋の側壁にザイルを垂らして一緒にペンキ塗りもした。
ロープワークも教わった。

のんきで自由な人だなと思っていた。
ある日、夕食の片付けが終わった頃、
小屋の中がにわかに騒がしくなった。
槍ヶ岳に続く西鎌尾根の途中で滑落事故があったので、
救助をお願いしたいという依頼だった。
風が吹いて少し雨が降っていた。
「こんな状況で遭難者救助にいけるのか? 二次遭難にならないか?」
と思った。
岩田さんがこともなげに言った。
「俺が行くわ。なべちゃん、三俣へ行って医者を呼んでこい。遭難者を担ぎ上げてくるから、急げ」
あっという間に機材を整えると、
雨の中、岩田さんは救助依頼に来た人たちと出て行ってしまった。
僕は、一瞬どうしてよいのか分からなかった。
「三俣蓮華の山荘だって?」
小屋番の潜さんが見つめていた。
ややあって顎をしゃくるので、
慌ててカッパを着て、ヘッドライトを点け、
三俣蓮華の山荘に常駐するドクターを迎えに山道を辿った。
双六小屋から三俣蓮華の山荘までは結構時間がかかる。
一人、真っ暗、雨と風。
お化けが出そうだった。
雨は冷たかった。
怖かった。
僕が遭難しそうな状況だったが、
尊敬する平田さんにお前が行けといわれた。
潜むさんも大丈夫かとも訊かず早く行けと促してくれた。
その信頼に応えなくてはならない。
考えてみれば、
辿る道筋もSさんと自分が整備した道だ。
神がかった速度で駈けた。
夜明け前に、双六小屋へドクターと共に戻った。
遭難者もしばらく前に岩田さんが背負子に乗せて戻ってきていた。
尾根道で風にあおられて北側に落ち、
その際に持っていたピッケルが大腿部に刺さってしまったという事故だった。
ツルハシなら刺さらないだろうに。
ドクターが傷の処置をした。
さいわい命に別状は無かったが、行動不能であることは確か。
「俺が担ぎ下ろすわ」
再び岩田さんが言った。
症状が落ち着いているようなので、
遭難者は再び岩田さんに背負われて山を下ったようだ。
僕はその時点で疲れ果てて寝てしまっていた。
夕刻目を覚ますと、なんと岩田さんがいた。
もう戻ってきていたのだ。
彼はパイプにタバコを詰めてうまそうに吸っていた。
「もう、戻ってきたんですか」
「うん、下にいてもつまらないからね」という彼がなんと格好良く見えたことだろう。
あとで話を聞くと、
数週間前にも急性虫垂炎の患者を担ぎ下ろしたそうだ。
ぼくも岩田さんのようになれるかなと思った瞬間であった。
後に都会へ出てダンヒルのパイプタバコを岩田さんに買って、
再び山へ戻ったことを思い出した。

(続く)