思い起こせばいつも金がなかった。

いまもないけど(^^ )

 

理由は簡単。

使うからである。

 

なぜ使うとかというと、

欲しいものあると手に入れずにいられないからである。

 

**********************

小学生の頃からそうだった。

当時は小遣いを貯めた。

 

中学の時は昼飯代をもらって食わずに貯めていた。

 

高校に入って食わずに貯めるのは自ずと限界があり、

働いて稼ぐことにした。

 

初めてアルバイトしたのは、

高校2年の時だった。

 

 

その1

新聞配達をした。

毎日新聞の朝刊の配達であった。

1ヶ月で¥5000。

休まず皆勤するとプラス¥1000で合計¥6000もらえた。

 

当時の小遣いは月に¥1500だったから、

アルバイト代は法外な金額だった。

 

朝4時に販売店に行く。

自分の区域の新聞を受け取り、

折り込み広告を入れる。

小学生新聞、英字新聞、本紙、スポーツ紙などを配る順番に組む。

自転車に積み込み出発。

最初の3日くらい先輩が回り方やポストの位置などを指導したくれた。

だいたい2時間くらいで配り終えていた。

 

すぐに慣れた。

 

4時起きはキツイかと思ったが、

当時のぼくは無尽蔵の体力を有しており、

授業に6時間出て、

部活に出て、

普通に生活しつつ4時から6時まで働いてもドウと言うことは無かった。

 

とんでもない時間に、

通学で出会う他校の生徒に出会った。

着ぐるみを着ているかのようなぶくぶくの服で、ものすごい大荷物。

スティックを持っていた。

「こいつ、アイスホッケーやっていたのか!」

ちょっと見直したりして。

 

別の時は、

いきなり暗闇で誰かと鉢合わせしそうになった。

「おっと」相手はとっさにボクシングのファイティングスタイルをとった。

たまに出会う他の新聞屋さんだった。

いつもは優しそうに「おはよう」と挨拶してくれるお兄さんだった。

「この人、ボクシングやってるんだ。やっぱ、苦労してんだな」

意外な一面を見たときだった。

彼に僕はどう映ったかなぁ。

 

アルバイトの目的は、

ソニーのIC-11というラジオを買うことにあった。

¥12000位の製品だったので、

2ヶ月でゲット。

 

「1月に¥5000もお小遣いがあったらどうする?」

「すご~い」 なんて言われていい気になっておりました。

 

もともと早起きは平気だったので、

3時半頃に販売店へいき、

店主より先に配送トラックからその日の分を受け取っていた。

 

なれると簡単で5時ころには配り終えていた。

せっかちなのね(^^ ) 

 

帰宅してちょっと何か食って二度寝。

これが良くなかった。

すっかり胃の悪い人になってしまった。

 

そのあとも数年続けたが、

さすがにジワジワとボディブローのように効いてきた。

10点満点の成績が、毎年1点ずつさがってしまい、

やむなく 辞めることになった。

 

 

その2

高校2年の夏に、

僕はちょっと荒れていた。

 

ずっと付き合っていた彼女との仲がこじれてしまい、

面白くなかった。

 

夏休みが来ても、好転せず、勉強も何もやる気にならなかった。

そんなおり、親戚から海の家の仕事を手伝わないかと声がかかった。

 

日給¥1500という(時給ではない!)。

給料なんか、どうでもよかった。

暇そうだし、泳げるし、日に焼いてりゃいいやってね。

 

泊まり込みで7月の20日頃から8月のお盆明けまでという。


何も知らず、のんきな僕は休みになるとすぐに海の家に行った。

さらしを巻いたダボシャツのおじさんが海の家の主人だった。

口うるさいおかみさんがいた。

 

泳ぐなんてとんでもない。

呼び込みをしたり、

食堂の出前をしたり、

仕事は夜明けから日の入りまで。

勤務時間なんて決まっていなかった。

 

名前がいくつもある息子さんが数人いて、

みんな怖~い兄さんたちだった。

怖かったが、ぼくらは礼儀や客扱いを学んだ。

厳しかったが、優しかった。

オヤジさんは食堂といわゆる海の家の2軒を営業していた。

 

いろんな人が来た。

 

温水シャワーのサービスをしていたので、

正規の客は無料だが、虫のいいやつがタダで浴びていこうとする。

ぼくらはそうした人を見つけて、追っていきお金をもらった。

 

たまに、文句を言う人がいると、兄さんを呼んだ。

みんな素直に払ってくれた(^^ )

 

炎天下で両手に岡持を持ち、ラーメンなら20くらいは運んだ。

ビールのカートンを浜の端から端までとか、

かき氷を解けないうちにパラソルの下までとか。

 

たまにものすごく可愛い女性が海の家に入ったりもした。

「ジュース如何ですか」とかサービスすると、笑顔がメチャ可愛い。

うれしくなっていると、

集団でいらしていることが分かる。

 

兄さんなんか比べものにならない、

本物の怖い人の集団だった。

その一番怖い人(親分ね)の娘だったりするわけ。

 

「ひぇー」と言うことになるのだが、

超怖い人は、僕らには優しかった。

 

非合法なゲームなどをしてらっしゃるのだが、

「おーい、兄ちゃん、ビール3本持ってきてくれ」

「はーい」とお持ちすると、

「暑いだろ、飲むか?」

「いえ、仕事中ですから」

「そうか、まあ、ごくろうだな。釣りはとっておきな」

と万札をくれたりもした。

 

チップが日当1週間分だよ。

情けないと思いつつも、尻尾を振る犬のような自分がいた。

その足で、交番に出前を届けたり。

当たり前だけど、おまわりさんはしっかりお釣りを受け取った(笑)

 

海の家などというと、

いかにも泳げそうだが、そうは甘くない。

天気が良くて、海がキレイで、まさに夏という日は、お客様のためにある。

僕らのためではない(^^ )

 

僕らが泳げるのは、

1.営業時間終了後(夕方から夜)

2.遊泳禁止の日(台風、大波、低気温・水温)

である。

 

海の家の営業は18時くらいで終わる。

よしずや浮き輪などをしまって、

雨戸をしめる。

 

一日夜明けからたちっぱなしで働いているので、

身体もだるい、休みたい、眠い。

 

でも、泳ぎにいったりする。

 

昼間に仲良くなった女の子が待っていたりするし、

あるいは、監視員の人から、遊ぼうぜと声がかかったりもした。

 

遊泳禁止の日は、

船を出して、監視員の隊長と遊んだ。

 

3-5m位の波が来ると、

「サーファーを呼んでやろうぜ」と地元のサーファーとも遊んだ。

 

「お前が溺れてもオレが助けてやるよ」と真っ黒な隊長に言われると、

うれしくて台風の波でも泳ぎに行った。

 

たまに、プロの海部(男性の海女ね)の人とも、

獲物を捕りに連れて行ってもらったりもした。

 

高校生は夏にいろんなことを学んだ。

 

そんな夏も終わり、

それでも結構なお金を貯めることができて、

TEACのA-2050というオープンリールのテープレコーダーを買った。

 

うれしかった。

 

秋になって久しぶりで遊びに来た彼女が、

録音されたロックで長い髪を振って踊ってくれた。

 

辛い夏は、報われたと思った。

 

 

海の家では、3年間働いた。

もう、海は十分だった。

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくの前後に過去から未来へとのびるタイムラインがあります。

そのタイムラインにドローンのように浮かんで過去へと遡ります。

 

自分史を探る旅。

今回は中学2年の春休みから初夏にかけて、時のドローンを飛ばします。

 

 

母から「きちんと文通でもすれば」と言われて、

おそるおそる彼女にお手紙を書き、

返事を待っていた僕でした。

さすがに内容は覚えていませんが、色々な質問をしたような気がします。

 

・好きな色は何ですか、

・数学はすきですか、

・利き手はどっちですか、etc.

 

たわいのないことばかり。

だって文通なんてしたことありませんからね。

 

年賀状に返事が来たのが2月近くになったからでしたので、

手紙の返事もおいそれと来るとは思っていませんでした。

 

でも 1週間ほどたって、それは来ました。

ちょっと小さめのブルーの封筒に花の絵がついた便箋が2枚入っていました。

 

彼女からの手紙をいまでもっています。

22通。

 

そんなに?

それだけ?

 

電子メールだったらどうでしょう?

LINEだったらどうなっているでしょう。

 

22通のやりとりは開けてみるまでもありません。

封筒を見るだけで内容を再現できます。

 

 

文通は僕らが付き合っていた間並行して続きました。

平坦ではありません。

ケンカや仲直りや、

10代の少年少女の感情のおもむくままの記録です。

 

文豪だったら書簡集としてすべてを掲載するかも知れません。

ここで内容を明らかにする気はありません(ごめんなさい)。

 

でも、

数日ないし数週間おきに取り交わされた手紙は、

僕らの成長の証でもありました。

喜怒哀楽の歴史でもありました。

 

ほんの一言に一喜一憂。

 

さりげないバイバイという文末の挨拶を深読みし、

互いに学校で会った出来事に憤慨し、

こんな本を読んだよといえば、すぐ勝ってきて情報共有して、

爪を切ったよと言うだけで、何かあったのかと心配して、

 

今思えば すべてが懐かしく、悲しく、美しい、茶番です。

 

僕らの意思の疎通は最初から結構うまく行っていました。

簡単な自己紹介、趣味、学校のことなどなど、

書くことはいくらでもありました。

 

当時の僕はいくらでも書けました。

詩人か科学者になろうと思っていましたから、

書くこともいくらでもありました。

 

中学2年生の春休みは、

そんな文通のやりとりのうちに慌ただしく過ぎていきました。

 

僕は本を読み、

ギターを弾き、

自転車に乗っていました。

 

 

4月になり、お互いに中3になりました。

ある日 手紙が来ました。

 

 

今見ると当時の郵便料金は封書で15円でした。

「安かったなぁ」

ふと住所を見ると、

僕の記憶と違っています。

「あれ? 違うぞ。じゃあ、今まで覚えていた住所は誰の住所なんだろ」

絶対に間違えるはずのない彼女の住所をぼくは50年近くも間違って覚えていたようです。

いったい誰の住所を後生大事に覚えていたのでしょう。

 

【風化していて触るとボロボロと崩れてくる手紙たち。

物持ちが良いのもいかがなものかと思ふ】

 

 

そして、

その手紙の内容は?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これまで気軽に、

僕の前後に延びているタイムラインに沿って過去へ遡るという表現をしてきました。

 

ライムラインというのは便利な言葉です。

たまたま僕の場合は未来は前、

過去は後に延びているように感じます。

 

人によっては、

ねじれていたり、前後では無く左右にあったり、分岐していたり

様々なようです。

 

過去がどこから始まり、

未来がどこまで延びているのか分かりません。

 

過去をどこまでも遡れば、前世まで言ってしまうのかもしれません。

未来をどこまでの伸ばせば、来世まで続いているのかも知れません。

 

確実に言えることは、

現在だけがリアルだと言うことです。

言葉を換えればヒトは現在だけを知覚できると言うことです。

 

過去体験を現在として知覚すると、

パニックが起こる人がいます。

常習的に起こると過去の心の傷に悩みます。

PTSDですね。

 

未来を現在として知覚すると、

不安になります。

 

 

個人の過去は記憶の中だけにあるのでしょうか?

 

記憶は脳の中の特定の引き出しに書類のように蓄えられているのでしょうか?

それとも 

必要に応じて特定のキーワードから骨組みが組み立てられて、その都度再構築されるのでしょうか?

 

僕の幼少時からの記憶は、

所詮ぼくが思い出したいものだけが、

良い悪いに関わりなく僕の無意識のフィルターにかかって

生み出されたものなのでしょうか。

 

記憶と行っても、記銘、保持、想起、忘却などのプロセスがあります。

 

僕は心理学者だから、

学問的な記憶の話を書くことは可能です。

でも、いま、ここで書く気はありません。

 

自分史は科学史では無いから。

 

ならば、

自分の都合のいいように、

自分にとって心地良い内容だけを、

思い出していたい。

 

僕にとってそんな記憶の糸は、

どうしても中学2年も終わりに近い2月から、

辿りたい……

 

 

 

*蛇足

時間線を遡って』( Up The Line、1969)は、アメリカのSF作家 Robert Silverberg の小説の題名。日本語訳は中村保男(創元推理文庫)による。