La Sarthe, my back pages-イクス
  モータースポーツ史上、最高のドライバーは誰か、と問われれば、答えは文句なくジム・クラークだ。では、2番目は? となると大いに迷う。実績、才能からすれば、これまた文句なくアイルトン・セナになるのだろうが、個人の思い入れからすれば、ジャッキー・イクスがマイフェバリットになる。


 10代で早くも頭角を現し、ベルギーの若き天才少年レーサーと評されるほどの有望株。1960年代終盤からフェラーリ、ブラバム、ロータスと当時の一流チームを移り歩いたが、行く先々に金星をもたらすラッキーボーイぶりを発揮。シフトワークに絶対の自信を持ち、彼専用のギアリングを組み、モナコでただ一人5速をフルに使い切っていたという逸話すらある。


 仕事の上では3度ほど、長時間のインタビューを行ったことがある。育ちがよいのにざっくばらんな人柄。すっかり取り込まれてしまった。お陰で、姿形がウリふたつの愛娘、ヴァニーナのファンにもなってしまった。彼女、可愛いと思いません?


 どうなんだろう。グループCカー時代にレースを見始めた人は、イクスのことをスポーツカードライバーと思っているのでは? いえいえ、たとえば1969年、快進撃を続けるマトラ・フォードのジャッキー・スチュワートに、ただ一人真っ向立ち向かい、チャンピオン決定を幾度か阻んだのはほかならぬイクス。彼は紛れもないフォーミュラードライバーなのです。


 ところで、独り言のつもりで誰にも言わずにやっていたこのブログなんだけど、ついに同業者のF君に見つかってしまった。でも、この手の情報収集には目ざといF君なら、さもありなんといったところで、まあ、恥をかかない程度に、このスタイルで続けていこうかと思っている。皆さんも、立ち読みよし、書き込みよし、の気軽なスタンスで、モータースポーツネタを楽しんでいってください。

La Sarthe, my back pages-town2










エジンバラにほど近い古都、berwick upon tweed の冬の夕暮れ。tweed、すなわちツィードの発祥地。冷たく引き締まった空気の透明感が、妙な懐かしさを呼び起こす。まだ、暖炉を使っている家もあるのだろうか。ところどころの煙突から、暖かそうに、煙が昇る。


遠くに見える石の橋脚は鉄道。目の前の川を水鳥が遡上する。すぐ後ろは海、北海だ。この風景を眺めていると、産業革命はつい昨日のことか、と錯覚する。時間軸の圧縮、まるでタイムマシン。自然がもたらす感性のマジック? ずっとこのまま時間が止まればいい、と思っていた。


そういえば、個人的にとても大切なことを、一瞬のうちに思い出していた。この街の郊外には、ジム・クラークの生家があったのだ。よりによって、生涯、もっとも敬愛すべき人物の生誕地を、この地に来るまで失念していたとは……。他人は許しても、自分が許さないとは、こんなことを言うのだろう。


それにしても なんだろう。少し胸が締め付けられるような、この懐かしさにも似た感覚は……。





La Sarthe, my back pages-962


誰でも、好きなレース、好きなマシン、あるいは好きなシーンといったものがあるだろう。実際、現場で見なくても、TV中継、あるいはモータースポーツ誌(といっても、いまやオートスポーツ誌とレーシングオン誌しかないが)、さらにはwebが、いろいろな状況・情報を伝えてくれる。


だがしかし、直接自分の五感で接したレースは、残り方がまったく違う。やはり、すごく鮮烈な印象となる。


私にとっての名シーンは、1988年ル・マン24時間レースとポルシェ962C⑰号車だ。ずてに世界選手権シリーズから手を引いていたポルシェAGだったが、ル・マンだけは別格と、シェル・ダンロップ・カラーの962C3台を送り込んできた。もちろん、チームを率いたのは名将ノルベルト・ジンガー。


先にお断りしておくと、この年のル・マンは、TWRジャガーXJR-9が悲願の優勝を果たし、ポルシェは善戦及ばず2位に敗れたレースである。TWRジャガーにしてみれば、3対1の圧倒的優位から屈辱的な逆転負けを喫した前年の例があっただけに、どうしても負けられない1戦だった。


結果、TWRはIMSAチームまで動員。5台の多勢でポルシェ包囲網を築き上げたが、この1レースのためだけに作られた1台のポルシェ962C、すなわち962-010号車により、あやうくズタズタされかかるところだった。予選ブーストで950馬力。前年のコースレコードを一気に6秒も短縮する⑰号車だったが、序盤のリフューエルミスで失った分の時間は、勝負の明暗を分ける差として最後まで962-010にのしかかっていた。


敗れてなお強し。962C史上、最強・最速のモデルとして作られたが、ついにル・マンの王位を守り続けることは叶わなかった。 forever 962-010!




La Sarthe, my back pages-kenji

La Sarthe, my back pages-kenji


年末年始の時期になると、この人のことを思い出す。高橋健二さんだ。早いもので、もう5年になる。2005年の1月1日にお亡くなりになった。享年58歳、まだお若かった。


それほど面識のない間柄のうちは、無口な方という印象を持っていたが、密着取材で顔を覚えてもらってからは、気軽にいろいろなことを話してくださるようになった。こちらにしてみれば、雲の上の存在だっただけに、うれしかった。


振り返って覚えているのは、240Zの時代からだ。健二さんの名を一躍高めたのは、ゼッケン84の丸善テクニカサニー、いわゆる東名サニー。健二さんのドライビングスタイルは、我々通常のドライバーの延長線上にあって分かりやすかった。ニュートラルに近い弱アンダーをベストとし、タイヤのグリップ力をロスなく引き出すスタイルだからだ。


ADVANカラーのF2、GCはシビレるほどカッコよかった。そして国光さんとコンビを組んだアドバンポルシェ962。3速がない状態で引き継いだにもかかわらず、ラップタイムが落ちなかったこと、ガス欠を耐えセルの力でゴールラインを横切ったこと……、機械をいたわりながら高い戦闘力を繰り出すことにかけてはピカ一、職人芸の人だった。


今でも、時おり肩肘の張らないレースやスピードイベントに出ているが、レーシングスーツは健二さんから頂いたアドバン時代のものを着続けている。10何年も前、富士フレッシュマンレースに出ることになり「スーツがない」と言ったら、「俺のでよければ」と言って下さったものだ。


この時、新品のレーシンググローブも頂いたが、これは使わずに大事にとっておいた。何年も経ってから、健二さんとチームメイトだったS.ヨハンソンにサインを入れてもらったが、健二さのグローブにヨハンソンさんのサインなら、これ以上の組み合わせはないだろう。


全日本F2時代「ミスター・ケンジの作ったタイヤならOKだ」と、1周目からためらうことなく全開で攻めたヨハンソンさんの信頼ぶりを形にしたものだと思っている。


3年前のル・マンで健二さんの訃報を伝えたとき「本当か!」と気色ばんだ強い口調で、3度も真偽を確かめてきたヨハンソンさんの硬い表情が、いまも鮮やかに思い浮かぶ。


ハンガーに吊し、部屋でこのスーツを眺めていると、いろいろな思い出が蘇ってくる。人を亡くすというのは、本当につらい……。


アッキーのLa Sarthe-ドーヴィル海岸


ル・マンの取材は、今年で22回目となった。振り返れば、あっという間だったような気もする。グループCカー時代、ポルシェの全盛期からジャガー、ベンツの台頭、NA3.5リッター時代を経てGTカー規定への移行、暫定措置だったはずのLM-Pクラスが主導権を握り、アウディFSI、TDIとエンジンデバイスの変遷。


それこそ数えきれないほどの名場面、ドラマにも出逢ってきたが、今ではそれよりも、1923年から続く自動車史、モータースポーツ史の歴史的なページめくりに立ち会えた、という感慨のほうが深い。老若男女を問わず、自動車やモータースポーツをその他の文化・芸術と同じ感覚で捉え、理解を示す地元ル・マン、フランスの人々がいる。うらやましい、と思う以外に言葉はなかった。


それこそル・マンに行き始めた頃は、そのうち日本も、と思っていたが、残念ながら自動車に対する考え方は根本から異なり、自動車やモータースポーツが広く文化として捉えられることはないだろう、と今では思うようになっている。モータースポーツの広め方を、フジTVが歪めた影響は大きい。


写真はドーヴィル海岸。映画「男と女」の舞台である。ル・マンに行きがてら、2回ほど立ち寄ってランチを楽しんだ。ジャン・ルイ・トランティニャンとアヌーク・エメが歩き、フォードムスタングがパワースラロームで遊ぶ映像がオーバーラップした。主人公はレーシングドライバーであり、ラリードライバー。ヨーロッパ進出を目論むフォード社が、フェラーリにしっぺ返しを食らった直後の反抗時期である。


クロード・ルルーシュの映像美、なんど見ても引き込まれる。モンレリーを走るフォードGTとラリームスタングの姿すら、ひとつのドラマに見えてくる。こんなシチュエーションで映画が撮れる、ヨーロッパの文化レベルがうらやましい……。