前回からの続きです。
エゴ野望に気づきながら、
まだ手放したくないという心の声を感じる。
もうやめたい、と思うのに、
そんなの嫌だ!と抵抗したい気持ちがある。
聖霊に助けを求めました。
自分でやめることはできないけれど、
聖霊にお願いすることだけはできます。
助けたいと思う時、相手を助けが必要な弱い存在だと、判断している。
教えたいと思う時、相手を教えが必要な存在だと、判断している。
でも本当は、私も兄弟も、
完全で、傷つくことがない、すべてを知る神の子。
神の子を違うように見たい!
つまり、「私が判断したい!」という願望が
よりはっきりくっきりと見えました。
すると、ゲイリー・レナードさんの
「イエスとブッダが共に生きた生涯」のある箇所を読むように導かれました。
パーサ:
これから話したいのは、大勢のコースの生徒たちの進歩を妨げているものについてよ。
おそらくいちばん進歩を遅らせているものね。
それは自分の機能ではないことを引き受けようとすること。
はっきりいえば、兄弟を正そうとすることよ。
それは聖霊の仕事なの。
聖霊はそうやってみんなを我が家へ導くけど、
人より目上のように振舞って、他人に何をすべきかを伝えるのは「コース」の生徒のやることじゃないわ。(p248 イエスとブッダが共に生きた生涯 ゲイリー・R・レナード著 ナチュラルスピリット)
ここを読んだ時、ずばりと書いてあって、アタタタ・・・・と思いました。
助けたいとか、教えたいという気持ちのなかに、
確かに、兄弟の間違いを正したい
という気持ちが、ありました。。。
ぶっちゃけ、私はコースを十数年学んできて、
私の方が知っていると思いたい気持ちも、
やはり・・・あったのでした。
(ああ、これ書くの、めっちゃ恥ずかしい……)
でも、学んできた長さなど、本当は関係ないんですよね。
私たちはひとつの心だから。
それに、一人一人を聖霊がそれぞれのカリキュラムで導いていますしね。
また、本には同じページにT9.Ⅲ「誤りの訂正」が長々と引用されていました。
じっくり読み込みました。
こんな時だからこそ、心に矢が投げ込まれたように、ビシビシ響きました。
特にここらへんが・・・
兄弟のエゴの誤りを指摘するなら、あなたは自分のエゴを通して見ているに違いない。
聖霊は彼の誤りを知覚しないからである。
少しでも誤りに反応するなら、あなたは聖霊に耳を傾けていない。
聖霊はただ誤りを無視したのだから、あなたが誤りに注意を向けるなら、
あなたは聖霊の声を聞いていないことになる。
聖霊の声を聞いていないのなら、あなたはエゴに耳を傾け、
あなたが誤りを知覚している兄弟と同様、あなた自身もほとんど意味をなしていない。
兄弟が狂気の振舞をするとき、あなたは彼のなかの正気を知覚することでのみ、彼を癒せる。
あなたは自分自身でさえ訂正することができない。
そんなあなたが他者を訂正できるのだろうか。
しかし、あなたは自分自身を真に見ることができるので、他者のことも真に見ることができる。
兄弟を変えることは、あなたに任されていない。
あなたに任されているのは、彼をありのまま受け入れることである。
兄弟を正そうとする試みは、あなたが自分で正せると信じていることを意味する。
これはエゴの傲慢に過ぎない。
訂正とは、傲慢さを知らない神に属するものである。
聖霊の言葉が刺さること、刺さること・・・・
パーサ:
誤りを訂正することじゃなくて、それを見すごすことがあなたたちの機能だというのがわかるでしょ。
誤りを実在させてはだめ。
繰り返すけど、兄弟がしていなかったことを赦すのよ。
はいっ!そうでした、パーサ!!
兄弟をジャッジして、
我が家へ帰るのを遅らせたくない
と思ったのでした。
プロジェクトだけではなく、日々できるだけ、
兄弟の真の姿を見たい、と思っていましたが、
同時に気づかぬところで、エゴの思いが混じっていたのですね。
でも、気づかないと、選び替えることができないので、
気づいてよかった~。
まだまだこれからも、こんなヘンテコに気づいて、
恥っ!汗!となりながら、歩むことでしょう~
これの繰り返しですね。
さて、気づいて大汗をかいて赦した甲斐があって、
ちょっと見方が変化してきました。
オレが神だ!というヘンテコ想念の訂正を聖霊に祈った後、
ふっと湧いてきた思い、
兄弟は、みんな本当はすべてを知っている。
本当は真実を知っている。
これが、じわじわとしみ込んできました。
そうすると、
病気や、エゴの思いの囚われて苦しんでいるように見える兄弟を目にしても
全部わかっている完全な神の子なんだ。。
と、以前よりも信頼、安心していられるようになりました。
なんだか、より軽やかに見えてきました。
愛への障壁は、取り消されてみて、わかるんですね。
「判断したい」という願望は
めちゃくちゃ目を曇らせているんだな~~。
「判断したい」という気持ちは、
私が知っている→→私が神!
と言っているのと同じこと。
それを心に刻んで、
もう自分で判断することをやめたい、やめます。
聖霊に助けてくださいと祈ったのでした。
それにしても、パーサの言葉は、何度も戻ってきては思い出したいところです。
(もう一回書いちゃう)
パーサ:
誤りを訂正することじゃなくて、それを見すごすことがあなたたちの機能だというのがわかるでしょ。
誤りを実在させてはだめ。
繰り返すけど、兄弟がしていなかったことを赦すのよ。
(T9.Ⅲ.6:4)
兄弟を変えることは、あなたに任されていない。
あなたに任されているのは、彼をありのまま受け入れることである。
奇跡のコースは、障壁が取り去られるほどに
幸せを感じるようになるので、
嬉しいトレーニング。
(途中はハードなこともあるけど)
そして、兄弟との出会いがないと、
投影になかなか気づけないので、
出逢ってくださった兄弟、
神の使者のみなさまに
感謝です
ありがとうございました
御心がなされますように。
私たちの心が癒されますように。
私たちが神が創造されたままであることに感謝します。