前回からの続きです。

 

さて、もう一つ気づいた野望はコレ

 

教えたい願望」

 

これ、自分では全然気づいてはいませんでした。

この↑「教えたい」というのは、

いわゆるこの世界で普通に理解されている
「教える」意味で書いています。

奇跡のコースでの「教える」ことは、それとは全然違うんですよね。

奇跡のコースでは、教えることを、こう書いています。

教えることは手本を示すこと。
自分が聖霊の思考体系を真実だと信じていることを手本として示すこと。
教えることは学ぶことであり、教える者と学ぶ者は同じ。


とはいえ、この世界的な意味での教えることをしてはいけない
ということではないと思います。

私自身も、コース自体を解説して、

教えてくれる教師の方々には、
これまで大変お世話になって助けられてきました。

 

聖霊と共に、愛を分かち合う一つの形として

コースを教える場合もあると思います。

今回のプロジェクトでは、聖霊に押されるように、

純粋に分かち合いたい気持ちから始めましたが、

いろいろ話しているうちに、
自分が知っていることを伝えたい、教えたい
という気持ちが、ムクムクと湧いてきて、

どことなく違和感を覚え始めたのです。


なにか変・・・真顔

うっすら感じるエゴの香り~ドクロ


前回に書いた「助けたい願望」に近いものを感じました。

その違和感の正体がなにかは、
ある出来事を通して見えてきました。

 

 



それは、頼んでもいないのにアドバイスをされるという出来事でした。
まあ、世間ではよくあることですよね~。

問題は、私がそれに反応したこと。
妙にカチンと感じたのです。

そういえば、私は前から同じような状況でイラッとしがちだな、
と思い出して、心を見つめてみました。

 

そうしたら、出てきました、エゴの野望メラメラ

 

聖霊の祭壇で、ノートに気持ちを書いていきました。

最初は、感じていることを正直に言葉にしていきます。

 

頼んでいないのにアドバイスなんていらんわ。

偉そうにアドバイスするなんて、あんたは何様?

 

とブラックなえりぃ全開で出していきますグラサン

祭壇で出したブラックえりぃは、聖霊が取り消してくれていくので、

すると、だんだん、その下にあった気持ちに気づいていきます。

これが、なかなかエグイ。

 

でも、この時は、気持ちを吐き出す私と、

それを受け止める私と両方いるような感じで、
むしろ見ないように隠しておいた気持ちを、

聖霊と共にじっくり聞いてあげるような感じなのです。

すると出てきたのは、

 

アドバイスするのは、私の方!

私の方が上なのよ!

 

なんて気持ち。

それが出てくると、気づいてしまうんですよね~。

 

神より私の方が上なのよ!

私の方が神に教えるのよっ!

 

と主張していることだということに。

そして、それが「教えたい」に感じた違和感の正体でした。

私が教えたい。
私こそが教える側だ。

それはつまり・・・・

 

オレの方が神より偉い!

オレが神だ!

 

という野望だったと気づいたのでしたびっくり

 

とはいえ、ここまでくると、

隠し持っていたものがコレだったのかい!?と

むしろ、スッキリします。

 

( ̄▽ ̄)アハハハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ 。。。

 

 

そんな思いを聖霊に捧げ、祈りました。

 

 

その後、こんな考えがふっと湧いてきました。

ここにいる兄弟は、みんな本当はすべてを知っている。
本当は真実を知っている。



なんだ・・・

すべてを知っている兄弟に
私が教えるとか、全然いらんかったわ・・・滝汗
と腑に落ちたのでした。

 

教えたいという思いのなかにあった、

私はわかっている、私が相手を判断できる、

なぜなら私が神だから、

というエゴ野望が光にかえっていった感じがしました。

 

 

 


この気づき以降、ちょっと見方、感じ方が変化しました。

もうすでに完全な神の子なら、
ただ、そのまま、あるがままでいいのだ、
と思えてきました。

軽くなって、完全性をより感じられるようになってきました。


これまでは兄弟の光を、聖性、キリストを見せてほしいと
何度も祈ってきましたが、

まだまだ相手をジャッジしたかったのですねウインク

 

 

 

それにしても、オレが神!という秘かに抱えていた思いは、

表に出して聖霊に捧げてしまうと、

全然、罪がないものだと見えてきます。

 

T18.Ⅷ「小さき園」を思い出します。

 

エゴとは、太陽にとっての微々たる一すじの陽光のようなもの、

あるいは、大海の面(おもて)のかすかな漣(さざなみ)のようなもの

 

この漣が、自分は大海だと豪語している笑い泣き

 

そう見えると、なんとも微笑ましい飛び出すハート

 

そして、真実以外はすべて幻想なので、

私の抱えていた愛以外の考えも、

そんな野望も持っていたいた私もいない。

 

ずっと真実だけ、愛だけがあるキラキラ

どんな変な幻想が見えたとしても、

私たちの真実は決して変わったことはないし、変わることはない。

それが何より救いです。

 

私たちは愛なので、奇跡衝動があり、

この世界では、愛したい、つながりたい、表現したい、

分かち合いたい等々の愛を拡張したい衝動は自然だと思うのですが、

それがエゴによって歪曲されるんですね。

 

すべての真の楽しみは神の意志を行うことから生じる

(T1.Ⅶ.4)

 

自分が神になるというエゴの野望より、神の子であることが幸せですドキドキ

 



ところがですね~、

なかなかすぐにスッキリとはなりませんでした。


「助けたい」「教えたい」願望を手放すことに、
ちぇっ、つまんない、とがっかりしている気持ちもまだ感じました・・・アセアセ

続く・・・。