最近、コロナねたが続いていますが、

その時の体験で書いておきたいことがいくつかありまして、

今日はその1つ。

 

肉体を自分だと思っていると、欠如感を必ず抱えているものだと思うんです。

 

何か不愉快に感じる出来事があると、欠如感をはっきり感じますが、

普段の生活の中では、さりげないので欠如感と気づかずに

自動的に欠如感を埋める行動をとるんですよね。

 

例えば、お腹がすいていないのにお菓子をなんとなく食べるとか、

大して飲みたくないのにお茶を飲むとか、

スマホやテレビやインターネットに手をのばすとか。

 

もちろん、同じことをしていても喜びから動いているときもありますが、

なんとなく満たされない感じ、なんとなく退屈な感じ・・・を

なにかの行動で埋めようとするときは、欠如感から動いているんですよね。

行動すると、一応満たされたように感じます。

 

これまでも、そこを見て赦そうと試みたことは何度もありましたが、

欠如感のごまかしが、あまりに無意識的で、

日常に溶け込みすぎていて、

なかなかできずにいました。

 

欠如感を赦せばそこに愛があるのがわかるから、

愛から逃げていた、今ここにある愛を拒否していたってことですね。

 

コロナにかかっている最中、この欠如感のごまかし、埋め合わせ行動ができなくなりました。

 

 

熱が出ているとき、ただ寝ているより気が紛れるかと思い、

録画してあった映画やドラマを見て、

最初はそんな状況でも楽しめていたのですが、

どういうわけか、途中から全然喜びを見出せなくなったんです。

食欲はないし、味覚障害で食べることにも喜びも見えない。

その他にも、家の中でできる、何かしらの快楽、

欠如感の慰めになるようなものに対して、

一切、まったく喜びを感じられなくなりました。

 

それと同時に、これまで欠如感を埋めるためにやっていたことは、

本当の喜びではなかった、と本当に認めざるを得なくなりました。

うすうすはわかっていたけど、見たくなかったんですね。

 

本当の喜びを、外側にある何かが与えることはできない。


降参するように、これを認めました。

 

そして、本当の喜びはなにか?というと、答えはテキストにあります。

 

 

すべての真の楽しみは神の意志を行うことから生じる。

あなたは自分が真に意志すること(神の意志)を実行しない限り幸せになれない。

 

 

本当の喜びは、神の意志を行うこと。

 

それしかないビックリマークビックリマーク

もう、本当にごまかさずにそうしたい、と思ったのでした。

 

神の意志とは、私にとっては、普段から出会う人すべての聖性、光、キリストを見たいと、

見せてほしいという祈りを持ち、聖霊と共にあり委ねることです。

 

身体が回復し、仕事へ戻ったときのこと。

頭も回らず、ただただ聖霊に委ねていました。

 

仕事の時はずっと、本当の仕事は相手の光を見ることだと思ってきたので、

仕事に入ると最近は自然にそのモードになっています。

 

私はコールセンターで働いているので、一対一で話を聞き、対応するのですが、

最初のお客さんに対応しているとき、

話しながら、今ここで私たちの真実を知りたいと思いました。

 

すると、なんてことのない対話でしたが、

あたたかく、力強い、一体性を感じて、圧倒されて、

泣きそうになりました。

相手との一体感。今ここにある、相手も私も包むあたたかさ。

 

ああ、これが本当に私の喜びだ~~ラブラブラブラブ

 

と思ったのです。

これまでも仕事中に、一体性や光を感じてはきたのですが、

これこそが真に私が望むものだと思ったのです。

今ここで神の愛、私たちの真実を知ること、それが本当の喜び。

そこにもっと心を向けたいと思ったのでした。

 

そう思えるようになったことに感謝~~照れ

 

御心がなされますようにキラキラ

 

 

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