親がクリスチャンの家庭だったので、幼い時から祈る事は習慣づけられていました。
食べる前、寝る前だけでなく、何か問題を抱えたり、神様に相談したいときにはいつも祈っていました。
クリスチャンを辞めてからは祈る事も全く無くなっていたのですが、奇跡講座を読み始めてからまたこの”祈り”が習慣化してきたのはうれしい変化です。
東洋の瞑想、西洋の祈り。
どちらも同じように自分の真の自己、神との繋がりを強化するためにとても有効な方法だと感じます。
祈りが合っている人もいれば、瞑想が合っている人もいるでしょう。
クリスチャンだった時の祈りは、自分は弱く、罪深く、汚れている一人の人間として神に祈っていましたので、非常に自分自身を弱々しく、そして神との広大な距離を感じていたかもしれません。
そこが一般的に広まる神仏への祈りの盲点かもしれません。
しかし、自分には神が必要だ!という熱烈なベースがそこには横たわっていて、神を希求するストレートな方向性は祈りの素晴らしさだと感じています。
一方で東洋的な瞑想を経験した時は、自分自身の内に入り、その神聖さに触れていくかのようでした。
自分の心、ハートの奥深くに潜っていく。
しかし、時にそれは自己の神聖さに触れるというよりも、自我の外側の膜を触れただけでなかなか核心に迫れないようなもどかしさも感じる事がありました。
それは自己を意識するものの、「神」という存在を祈りほどはダイレクトに意識しない(強調されない)のが、一般的な瞑想の限界点でもあるようにも少し感じます。
その為に、自己と自我の違いが見分けづらく混沌とすることもあるのかもしれません。
自我としっかりと対面する事は重要ですが、やみくもにただ自我を潜り続けても、それだけで自己には到達できず自我の迷路に迷うこともあるでしょう。。
巧妙な自我は神聖さを纏う事が多々あります。
身体や宇宙がまるで神、神秘であるかのように見えるのと同様に、、、。
あくまで自己、神を目標に潜り続けた時に初めて自己、神に到達するのだという事が体験を通して解りました。
奇跡講座にも同じように、神を目指す事で初めて神に触れる事ができるとはっきりと書かれていて、全くその通りだと実感させられました。
複雑に見える世界の中で、シンプルに神を追い求める事、それを真摯に継続する事が本当に困難であって、奇跡講座が伝えている方法自体は困難ではなく実にシンプルです。
そんなこんなの少しばかりの経験を経ながら、最近は様々な祈りを通して更に自分と神との一体感を深めています。思い出しています。
「どうか私たちの愛で、私と世界を満たしてください」
「どうか私たちの神聖さで、私と世界を照らしてください」
※世界というものは私自身が投影し作ったものですので、世界を照らし、満たすという事は私自身を照らし、満たす事に他ないのですが。
今まではそんな風に祈る事が出来ませんでした。
どうか”あなたの”愛で、私を満たしてくださいと祈る事はできても、”私たちの”とまでは口が裂けても言えませんでした。
だって、自分と神との間には広大な差があり、横に並ぶなど考えにも及べなかったからです。
でも、奇跡講座を通してしっかりと神の愛、神と神の子という関係性が自分に浸透してくるにつれて、自然にそれを”私たちの”と表現できるようになりました。
それが、私たちの自然なあり方であり、自然な姿、そして自然なパワーなのだなぁと今は感じています。
そしてその姿を遠い未来や次元の置物のように置くのではなく、今この瞬間に、この場に反映させていく事に意味がある、聖霊と共にそれが出来る事を奇跡講座は勧めてくれます。
祈りや瞑想とは、自分が神の子であることを思い出すための、そして忘れない為の大切なコミュニケーションツールです。