奇跡講座の学びの進捗を測る一つ、というかほぼ唯一の方法が平安の度合いだと「奇跡の原理」の101ページでケネス・ワプニック博士は述べています。

 

「進歩はただ、自分が感じる平安の度合いで測るのみです。・・・例えば五週間前とか五年前だったら我慢できなかったような状況でも、今は平気でいられるとか、あるいは、一緒にいるとたちまち憎悪や恐れを感じてしまうような誰かの前で、突然その人と一緒にいても心安らかでいられる事に気づいたとか、そういったことが、あなたが上手くやっているという事を示すものです」(引用終わり)

 

これはなにも、無感覚になるとか、根性で平静を保つような話ではもちろんなく、ハートの奥底でつながる神への確信、関係性が深い平安を生むのだと思います。

自然と生じる平安さです。

 

でも、これがなかなか難しく感じてしまいます。

 

たとえば、、、

・自分は神の子であるという事

・自分はそれを証明する為に何かをする必要はないという事

・自分は何もする必要もなく、何も欠けていないという事。

・何一つ間違いもなく、罪などないという事。

・自分は神と離れたことなどなく、神の愛のうちに今もしっかりと留まっているという事。

 

簡単に書いてはいますが、この一つ一つを心から納得するのは容易ではないでしょう。

 

・お前は罪深い人間だ!

・お前は何かを成して、自分の存在価値を証明しなければいけない!できないならクズだ!

・お前は不足している、まだまだ足りない、失敗者、落伍者だ!

・お前は神から離れ、個として生きているのだ。 神の怒りはお前に罰を与えるぞ!

 

これらの言葉が、僕たちの顕在、潜在意識に多く刻まれて、僕たちを後ろからナイフで突きつけるように「平安」の場所から追い払おうとしているようです。

 

インナーチャイルドの観点からは、それらは自我の特性として「中毒性の恥」=「shame」として学びましたが、まさしく飴と鞭を自在に操る自我の強固なとして、これらの言葉は僕たちに突き刺さってきます。

 

そして、見渡せばこれらの自我の言葉に溢れた環境、社会、世界、宇宙に僕たちは身を置くのですが、それらは自分の心では到底抱えられない、消化できない、癒せない、そんな自分の中の自我の声を外の世界や環境に投影という形で創造したにすぎない事を学んでいます。

 

奇跡講座を学び、聖霊に委ねながら心に平安を浸透させていく一方で、ナイフのようにとがった言葉が僕の心の中を背後から突き付けているのを日々感じ、、、

平安を保つことの難しさ、平安の居心地の悪さを実感させられます。