ボクは、なぜこうなのか。


イイワケと嫌悪。



「未完成」であることに、自分自身が納得していない。


自分に対してのみならず、他人にすら求めてしまう。



不安定なことの「当たり前」を理解できていないのか。


まだまだ、不十分なのか。



確かめようとすればするほど、ボクの思考は果てしなく混濁する。




言葉や文字、知識は何の役にも立たない。


ブログを書いているのは、指が表面をなぞるようなもの。



目の前にある、日常すら曖昧でしかない。



ボクは、本当にだれ?


周りを忙しくなく動く物体が、果たして「ヒト」なのかどうかすら・・・。



今日も、「気づけ!気づけ!」と自分に言い聞かせている。

最高の快楽は、ココロとカラダを同時に満たす行為。


「愛のあるセックス」などは、その典型なのだろう。。。



人の欲求とは、すなわち「快楽」の追求であり、


そのことを満たすことに、日々夢中になる。




「欲」を失った時点で、人は「生きていく」ことをやめざるをえない。


「欲」は、唯一、人を人として「存在」させている。



と、ここまで書いてふと思う。




「ココロ」が「欲」に勝ることがあるのか。


たとえば、「プラトニックラブ」や「母性愛」など。



否、結果として感情の高ぶりは、肉体的な「快楽」へとつながっている。




だからどうした、というわけじゃない。


それでいい。


そのことを隠そうとする行為が苦手なだけ。


塗りたくたくった分厚い表面には、笑うことさえ躊躇われる。



ボクには、それが分からない。


分からないから、それが知りたいのか。



知りたいことでイッパイだ。


あきらめてないだけ、ボクは意外とまともなんだ、と気づく。



一人で納得した午後・・・。

人は、「疑う」


生きているとは、疑うこと。



なぜ?


自分を信じていないから。


自分が「不安」だから。



もともと、「生きる」とはバランスを失っている状態。


肉体的にも精神的にも、それは奇跡に近い状態。


それが、「生」



疑うことで、バランスしようとしているだけ。


そんな「人」の集まり、関係に嫌悪感を感じてばかりいた。


「正しい」ことなんて、なにもない、って。




それでも、必死に「疑惑」と戦おうとする人がいる。


ううん、ほとんど全ての人は、疑うと同時に、それを払拭し、

信じようと努めている。


流されないように、しっかりと踏みとどまろうとする。


時に、簡単に流されてもしまうが、それでも留まろうと

強く願う。


こんな感情の集まりに、「恋」や「信頼」や「仲間」が生まれる。



ニセモノと、一蹴する前に、そんな葛藤を自分の中に

探してみたい、と思うこともある。


誰かの受け売りなのかもしれない。


それでも、それを受け入れることができるのも、「人」だからこそ、か。




そうそう、ボクも「人」だった・・・。