堀江直樹の無限上達への道のり -21ページ目

「マンネリの恐怖」

 

 

 

最近、友人がシェアしていた記事をみて面白いなと思い書いていました。

 

 


「人は「死」を意識すると、本当にパフォーマンスが向上する:研究結果」
http://wired.jp/2016/11/08/death-performance/

 

 

 

バスケットボールのプレーをしている最中に死を意識するアンケートを実施したところ、

 

 

 

パフォーマンスが40%向上したということです。

 

 

 

今、自分の寿命が残り数時間しかないとわかったらどのような時間を過ごすでしょうか?

 

 

死と向きあうということは自分の今のあり方や一瞬を大事にする心とつながるなぁと感じます。

 

 

 

日本人の古来からの感覚には「わびさび」「諸行無常」

 

 

 

常であることはない、「有難い」という単語もそうですが、

 

 

 

常に死と同居する考えがあったように感じます。

 

 

 

おそらくこの論文が書かれたのは海外ですから、死生観に関して日本とは異なる部分もあるかなと感じます。

 

 

 

キリスト教的な価値観と仏教的な価値観ではおそらく死への捉え方が変わると思うので心の反応の仕方も変化してくることが考えられるわけです。

 

 

 

しかし、どんな解析があるにせよ、死は明確に意識しやすいピリオドですから、

 

 

 

集中を作る優れた道具になるなと感じます。

 

 

 

けど、おそらくこの研究を実践で活用するときに問題として出てきそうなのは、

 

 

 

例えば毎回死を意識するアンケートを導入して効果が出るのか?

 

 

 

人間はマンネリする生き物ですから、外的な刺激に対して慣れてくるものがあります。

 

 

 

そうなったときに、ただ画一的にこれをやればいいとはなりにくいはず。

 

 

 

そこは指導者なり、道具に扱う人が工夫が必要そうですね。

 

 

 

これは私のイメージの範囲なので、実際に検証を重ねないとなんとも言えないことですが、

 

 

 

恐ろしいなと思うのは「死」をもマンネリ化しそうな人間の脳の構造かなと。

 

 

 

前回の記事でも書きましたが、私たちは大前提として脳というフィルターを通して世界を見ています。

 

 

 

脳は過去記憶を引っ張り出してそこから判断する機能がありますから、(そうでないと安定した自己を認識できない)

 

 

 

どうしてもマンネリ化しやすい構造を持っています。

 

 

 

つい、あるものを当たり前に思ってしまう。

 

 

 

気付かないうちに形骸化していく日常に恐怖を覚えます。

 

 

 

脳の機能の外から脳を活用して世界を見ること。

 

 

 

あることが当然でない世界からあることを観れたときに有難さがよくわかる。。

 

 

 

常に生死も感じながら、有り難く生きたいなと感じる記事でした。

 

 

 

本日もお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

ご意見ご感想

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「あなたは毎日どんな情報を食べていますか?」

 

 

 

ものごとの概念を分けるとしたら内と外に分けることができます

 

 

 

内を自分とするなら、自分以外は外であり、

 

 

 

内を組織とするならその外はそれ以外となります。

 

 

 

この内と外を分ける境界線の引き方によって取り入れる情報が変わってきます。

 

 

 

ある意味、このセンスによって人生全てが決まるといっても過言ではないと考えています。

 

 

 

内と外が決まるから、その外を取り入れて内は進化することができるわけです。

 

 

 

人は無意識のフィルターがあり、それを「観点」といいます。

 

 

 

その大前提によって、世界をみて境界線を引くことができる。

 

 

 

そして、境界線の引き方に無意識のくせがあり、

 

 

 

取り入れる外にもくせが出てくるわけです。

 

 

 

例えば普通の医療従事者であれば、

 

 

 

自分と関係ある分野の医療的な情報には関心が行きやすいかもしれません。

 

 

 

だけど、その大前提は

 

 

 

「自分が医療従事者であり、このような分野のこれこれに興味がある」

 

 

というものがあるからで、それによって外となるものを決め取り入れようとします。

 

 

 

自分の中に自分がダメだ、相手がダメだ、社会がダメだと考えを蓄積する人も、

 

 

 

その境界線の引き方に特徴があり、常に否定をする情報を食べているから。

 

 

 

何をみても結論が自己否定にいってしまう、そんな人もいるかもしれません。

 

 

 

やっかいなことはこれらを成り立たせる大前提は「人間の脳」に仕組みがあるということ。

 

 

 

私たちは人間の脳を通して考えますから、脳がキャッチする情報を素材にして考えるわけです。

 

 

 

私たちは「脳の観点に固定」された状態にあるということができます。

 

 

 

そうすると、脳の取った情報で脳が考えるなら、

 

 

 

考えの材料がそれなわけですから、そもそもの大前提が把握しにくいわけですね。

 

 

 

これはあいうえおの「あ」がなぜ「あ」なのかとうことは説明が難しいことと似ています。

 

 

 

ですから、私たちは

 

 

 

・自分がどんな情報を取っているのか

 

 

・その情報に対してどんな反応をしているのか

 

 

 

の認識をしにくい構造をもっているのです。

 

 

 

 

さて、内と外の話に戻すと、脳という言葉が出てきましたが、

 

 

 

この脳にも内と外という概念を規定することができます。

 

 

 

脳の外という概念を規定できたとき、

 

 

 

脳の仕組みからも自由になって、境界線を引くことが可能になります。

 

 

 

最近の僕はこの境界線を引き方をすごく意識しています。

 

 

 

自分の命を燃やしながら人生を送りたいし、仲間ともそれを共有したい

 

 

 

そう考えたときに、常に今までの自分にない外を取り入れ感動を味わいたいし、

 

 

 

進化し続けたいと考え、行動しています。

 

 

 

 

そのためには大前提のアイデンティティが変化しないと変わらないなと感じています。

 

 

 

 

当たり前にやってしまう境界線の引き方を変える。

 

 

 

つまり、情報を取る質を変え、自らが発信する考え、感情、言葉、表情、行動を変化させる。

 

 

 

研修の仕事を通してですが、

 

 

 

一瞬一瞬の所作や言葉なんかも意識しながら日々を過ごしています。

 

 

 

 

皆さんは毎日、どんな情報を食べますか?

 

 

 

本日もお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

ご意見ご感想

perspective496@gmail.com

「変化を感じる主体は何か?」

 

 

 

今日は久々に体のことに関するブログを。

 

 

 

昨日、施術がてら人の体を触っていたときに感じたこと。

 

 

 

自分が施術するときに

 

 

 

「リズム」や「動き」が回復することを指標に行う。

 

 

 

 

このリズムは呼吸、蠕動運動、頭蓋仙骨リズム、チャクラ、生命のエネルギー的なリズム、

 

 

 

様々なレベルのリズムがあると思っているし、

 

 

 

それらを感知し回復することを狙いにしている。

 

 

 

宝石とかパワーストーンにも振動の周波数があるという。(時計も水晶の振動を基準に動くものとかがある)

 

 

 

触れることは振動の出会いであり、

 

 

 

振動が出会うことはそこで何かしらの干渉や変化が生まれることを意味する。

 

 

 

たまにそのリズムが止まっているように感じる人がいる。

 

 

 

そこで、触れながらその人たちのリズムが出てくるまで待つ。

 

 

 

そんなイメージ体系をもっていたけど、

 

 

 

何やらその感覚の押し付けになっている感じがして、

 

 

 

うまく行くときもあるけど、うまくいききらないそんな感覚がありました。

 

 

 

そこで大前提のチェンジをしてみました。

 

 

 

「動きが止まっている人を動かそう」または「動きが出るまで待とう」

 

 

ではなく

 

 

 

「もっと繊細な動きがあるのでは」

 

 

 

と思って、自分の大前提の動きを感知するチャンネルを変えてみたんです。

 

 

 

 

自分の大前提に相手を合わせるのではなく、大前提のないところから観る。

 

 

 

そうしたときにちょっと手応えがありました。

 

 

 

「調和」という言葉を僕はよく使いますが

 

 

 

今までは「相手を自分に調和させていた」んだなぁと痛感しました。

 

 

 

 

きっと、施術が上手で調和がうまい人は自然にやるんでしょうね。

 

 

 

だけど、そうやってみると動きが止まっている人は今まで固い人ってイメージもありましたけど、

 

 

 

すごく心が繊細な人なのかもなって思ったり。

 

 

 

さて、冒頭の問いにつながりますが、

 

 

 

「変化を感じる主体がなんなのか?」

 

 

 

 

変化の主体を何とするかで、感知できる領域が変わるなと感じます。

 

 

 

この体の感覚を感じるものは何と何が出会って感じるんでしょうね。

 

 

 

触る主体に触れながら自分のリズムも感じられる。

 

 

 

触れなくても自分のリズムを感じられる。

 

 

 

その主体とはなんなのか。

 

 

その自由度が増すことで様々なことを感知し、応用することが可能となりそうです。