手紙を書きに
京都は舞鶴に住む祖母 が、わたしの本を読みたがっているという。
87歳だかでスイスのマッターホルン登頂に成功したスーパーばあさんは、
ここのところ病気をして、身体が弱り気味。
さすがに93歳ともなると、しばらく床に伏せっていたら、
以前のように矍鑠と活動できるようになるまでには、時間がかかるのだ。
それでも精神はスーパーばあさんのままの彼女は、
動かない身体で無理に行動しようとするから、危なかしくてかなん、と母はぼやいていた。
くだらない代物でも、本があれば、多少はおとなしくベッドにいてくれるんではないか。
いかしわたしの本というのは、若い女性向けのもので、
おまけに恥ずかしいほど少女漫画チックな装丁が施されている。
今はとうにお婆さんだが、かつては教員だった祖母のこと。
「これは漫画ちゃうんかいな」
などと平然と言い放ちそうだ。
何十年もカローラに乗り続けている伯父も同じく教員だったのだが、彼などは
「こんなん文学ちゃう。おまえは何のために夏目漱石を読んだんや」
等々、身もフタもないことを言いそうだ。
それを母に話したら、
「良い良い。偉そうに言うたかてあの人ら本なんかよう出されへんのやし。出したもん勝ちや」
などとトンチンカンなことを言って取り合わない。
もうどうにでもなれ、ってことで、小包にして送ってあげることにした。
少なくとも確実なのは、祖母はあの本にとっての最高齢の読者になるということだ。
しかし小包を送るのに、裸で本だけを送りつけるのはいくらなんでも無礼である。
というわけで、手紙を書いて添えることにした。
祖母に手紙を書くなど、考えてみれば10年以上ぶりかも知れない。
いや、下手すりゃ小学生以来かも。
さて、何を書いたらいいものか。
超高齢であるから、字は大きく、濃く。
わたしも大人であるから「おばあちゃん、おげんきですか?」って書き出しもちょっと。
そうだ大人たるもの、時候の挨拶を忘れてはならない。
「風薫る季節となりました。いかがお過ごしでしょうか」うーん。なんだか照れ臭い。
あれこれ考えながら窓の外に目をやると、窓際のベンヤミンが風に揺れ、
その向こうの世界には、5月の午後の陽射しがあかるく満ちている。
とりあえず、お散歩でもしながら考えよう。
珈琲いれて公園にでも行こうか。途中でいちじくのケーキ買って。
とキシダに提案したら、
「公園はやだ。だってこの天気。日差しがまぶしすぎて、本が読めないよ」
うーん、確かに…
思案していると、さらにキシダが云った。
「でも、喫茶店ならいいよ」
肩掛けバッグに便箋と封筒、万年筆、それに本の包みを持って家を出る。
路地裏を縫って歩き、牛込神楽坂あたりにキイトスカフェはある。
日曜の夕方は、ほぼ満席。
あかるい窓際の丸テーブルはぜんぶ埋まってる。残念。
壁の本棚や、店のあちこちに積まれた古本や古雑誌から、2、3冊選んで席へ持っていく。
きょうは、雑誌を読むのはほどほどにして、お手紙を書かなければ。
林檎のバターケーキとマンデリンで休息がすんだら、
雑誌を脇にどけて、珈琲のお代わりを頼んで、さて便箋とペンを取り出す。
「こんにちは。いま、近所の喫茶店でこのお手紙を書いています。」
低くクラシックが流れていて、珈琲の匂いと人々のざわめきがふわふわと漂う空間では、
なんの気負いもなく、わたしは便箋にペンを走らせることができた。
書き終えて、向かいのキシダをみると、’60年代新宿を特集した雑誌を読みふけっている。
わたしが読みたくて本棚からもってきたのに、これじゃわたしが読めないじゃん。
しかたないから、べつの本を開く。
「おなか空いたね」
やがてどちらからともなく言い出し、立ち上がる。
今晩は外食でなく、家で料理をして食べるつもり。
夕暮れ前の路地を、来たときとちがう道をわざと選んで歩く。
もうすぐ路地裏に、夕餉の匂いが満ちるころ。
わたしは小包を投函するため、立ち止まった。
