アッシェンバッハの彼岸から -52ページ目

日曜日を消費する

わたしはにちようび、ということばが大好きだ。

きっとわたしだけじゃない、世の中の人の大半が、きっと好きな言葉だろうな。にちようび。

父は土曜日まで仕事をしていた。団塊世代のお父さんたちはきっとみんなそうだったのじゃないかな。

にちようび、という言葉は朝寝坊のあったかいふとんの匂いがする。

平日とちがって穏やかな表情の両親。

高くなったお日様の、しろっぽくなくて、あたたかな光のいろ。

どこかの公園の芝生の手触り、匂い。

にちようび、という言葉の響きから思い起こすものはたくさんあって、

それのいずれもがとても穏やかな感触。


でも、考えたらおかしな話だ。

そもそも、月曜から土曜までのお父さんを管理統制して、

日曜日にだけ束の間の自由を与えたのは、どこかの偉い人たち。

家族や、自分の時間なんていうのは、そもそも誰もが持つのが当たり前の権利であるはずなのに。


でも、働くのは大人の義務だから、そこまで仕方ないこと。

わたしが首を傾げるのは、その先。

こんどは人々は、自分に与えられた土曜日曜に、何をすべきかわからなくなっている。

月曜から金曜までの行動を社会によって定められているせいなのか。

とりあえず、とテレビをつければ、今注目のスポットやら流行の場所やらレストランやらを紹介し、

新しいクルマや電化製品やゲームソフトを買わせようと必死になっている。

大きな映画館では、あとに何も残らない娯楽映画を大量に垂れ流し。

流行歌はどれも似たり寄ったり。アメリカの誰かが歌ってヒットした歌を真似て、少しずつ手を変えたようなものが驚くべき速度でつぎつぎに消費され忘れられていく。

休日のテーマパークやショッピングモールには人があふれ、子供たちは泣き叫び、道路は渋滞する。

誰の顔もどことなく苛立っていてむなしく、悲しげに見えるのは、気のせいだろうか?


みんな、1週間のほとんどの時間を仕事で拘束されてるんだから、そうそう暇でもないはず。

なのになぜ、疲れるばかりで楽しくもない場所へ、みんなして集まるのか。

なぜ、限られた時間を、ゲームやテレビなぞにただただ費やすのか。

必要でもないものにお金を落として、それで急場しのぎ的に満たされた気持ちになっても、

来週の日曜日にはまた同じ顔をして、

同じような顔をした人たちばかりの人ごみを歩きまわっているのではないのか。

まるでちいさな子供のように、手近なものに飛びついて、

すぐに飽きて放り出すということを、いつまで繰り返すつもりなのだろう。

みんなあたかも毎週1回、永遠に続くものみたいに、無為に日曜日を消費しつづけている。

永遠につづくものなんて、この世にはなにひとつないのに。


ところで日曜の夜といえば、うちのキシダの叫び声が響き渡るのが、いつも21時頃。

「あああーーっ!!今日も大河ドラマ観るの忘れたぁぁぁぁ!!ちくしょー」

…ほとんど毎週毎週、観るの忘れてるみたいですけど…

いくら大河ドラマでも永遠には続かないよ?