アッシェンバッハの彼岸から -103ページ目

消極的理念?

(BGM:これも普遍的で、きわめて饒舌なのです)
Sergey Rachmaninov, Bernard Haitink, Concertgebouw Orchestra Amsterdam, Philharmonia Orchestra of London, Vladimir Ashkenazy
Rachmaninov: Piano Concerto No.1/Rhapsody on a Theme of Paganini



わたしは邪道なので、新聞は夕刊のほうが好きだし、

いつも一番最初に読む(そして時間なくてそこしか読まないこと多々)のは、

一番後ろの「夕刊文化」面である。

何のための日経だよ、といつも同居人キシダに云われるのだが、

この面にはいつも、必ず1箇所は胸を打たれる記述を発見することができるのだ。

考えたら朝刊も同じく、一番うしろの文化面から読むなあ。

きのうはクリムトの絵と、岡本かの子の詩が対比されていて興味を惹かれた。


で、今日も帰宅して「夕刊文化」を見たのだ。

そしたら、素敵なことが載ってるではないですか。

詩人、長田弘さん(失礼ながら、彼の詩を読んだことはありません)による、戦時中の言葉について。

その中に、言葉をつうじて浮かび上がる日常というものについてが書かれている。

「慮る、という態度が重んじられなくなっている。万事に即断即効、近道が求められ、

言葉もとっさの言葉ばかりだ。しかし両義的なゆたかさをなくすと、

言葉は一義的で狭量になる」(日経新聞 1月16日夕刊より)

ああ、まさにその通りではないですか。

戦争中だって目の前には日常があり、人々は本を読んでいた、だそうな。

どんなにつらい日々にあっても、人々は日常の中で読書という習慣を大切にしていたのですね。


「日常を失うとき、人はすべてを失う。日常を支えるのは、平穏をあなどる勇ましい理念ではない」

ネットもケータイも便利だけれど、日常の習慣というものを、どんどん人は忘れていってしまう。

わたしがきのう、つたない言葉で書こうとしたのはこのことだったのだ。

世の中、こうも上手に的確な言葉をつないで素晴らしいご意見を言える人がいるものだ、

ということに感服する。ああ、もっとたくさん、言葉を知らなくては。

たくさんたくさん本を読まなければ。

精進せねば。どのくらいかかるんだろうか。

どのくらいかかろうとも、わたしはたくさん本を読もう。

どんなに時代が変わろうと、これだけはわたしの習慣として。

そもそも言葉というもの自体、狭義のものなのだ。

だからこそ、多くの言葉を知る必要がある。


大作映画ばかり観て脳味噌がヨレヨレに疲れたとき、

必ず観たくなるのが小津安二郎の映画たち。

わずか40~50年ほど前に撮られた小津映画に出てくる言葉たちは、

日本語には違いないのだけれど、今では決して使わなくなったような言い回しが多々あるし、

また日本人独特の謙譲や旧い習慣などが色濃く残る。

一緒に観ているキシダ(25歳・アパシーな現代っ子)などは、

「え?ロハってどういう意味?」とか、

「いい奥さんなのにねぇ。人前であんなにけなさなくても」だなんて云う。

すでに今では時代錯誤になってしまったような社会習慣も、中にはある。

それでも、これらの言葉や習慣が、戦後のたった半世紀そこらの間に

こうまで消えてしまったことに、せつなさを覚える。


「こんな小難しい言い回し、今の若い読者は理解できないぞ」

「もっとわかりやすく!」

「もっと刺激的な幕開けにしないと売れないぞ」


不本意な改稿を強いられるたび、

わたしは小津映画や文学作品の中に救いを求める。
救いが我が家の本棚にぎっしりと詰まっていることは仕合せだ。

歩いて5分のところに、そんな本棚がぎっしり詰まったレンガ造りの大きなお城があることも仕合せだ。

ちょくちょく、「貸し出し期限が過ぎてます!早く返却してください!」と電話やらハガキが来るけれど・・・


さて今夜はなにを読もう。もう夜中の2時だけど・・・