今日は、兄夫婦がお見舞いに来てくれました。
点滴のおちが悪くて、3時間くらいかかっちゃって、来たときは点滴してたので、奥さんが「どうしたの?」と心配してました(^▽^;)親知らず抜くだけの入院だったので。
結局、明日も含め、抗生剤を6回投与しました。
歯のお医者さんがとても丁寧に対応してくれたので、病棟は古くて、汚くて、設備の整ってないとこでしたが;;良かったです。
あと、看護婦さんが皆さん優しかった。
腎の看護婦さんはこんなに優しくないような・・・??(笑)
そんなことはないですね(´∀`)えへへ笑
1つだけ、昨日の日記にも書いたけど、この病棟に来る腎の先生だけが私は嫌いです!!
何であんなに偉そうなの??
まだ大した処置も出来ないくせに!!!←
でかい態度取りたいなら、取れるほどの技術を持ってから取りなさい!!!(゙ `-´)/
お前なんかより、あたしの方が病気と戦ってる暦長いんだぞ!!!こっちは20年なんだぞ、若造よっっ!!!(笑)
でも、この病院の腎の先生のほとんどは好きです。
教授に看てもらうと、教授の隣に3人くらいの若いお医者さんがつくんですね。
その人たちに、教授が言うんです。
「君たちも覚えておいた方が良いよ。
俺たちなんかがね、子どものときから病気と闘ってる人間には敵わないから。
何十年も医者やっててそう思う。俺はただ救うための手伝いしてるだけなんだって。
いつになっても、患者さんから学んでばっかりだよ。
大人の人も凄いなって思うけど、子どもって本当に強い。
戦うのが病気だけじゃなくて、学校とか、他にもいろいろあるから、小さいときから強くなんなきゃいけなかったってのはわかるんだけど、俺からするとやっぱり関心するよ。とてもそうはなれない。」
って。
この病院と出会えて良かったなって思いますo(^-^)o
名前も知らん若造医師よ、患者にでかい態度とってないで、それをしたいならまずはこの教授に逆らいなさい!!!!ヽ(゜▽、゜)ノ
「俺はそうは思わん。病気してる人間なんて弱者だ!!俺が命を救ってやってるんだ!!!」と言えるもんなら言ってみろ!!(笑)
☆今回はここまで☆→”明日”って言う字は、明るい日って書くんだよ。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
出来るだけ、学校行事には参加しました。というか、学校は楽しかったし、友達はたくさんいたので、参加したかったんです。
たぶん、養護学校に行く話は、3年生くらいのときから出だしたと思うのですが、「友達と別れたくない」と拒否しました。
なので、小学校の遠足は2年生くらいまで皆と同じように学校から歩いて参加して、3年生くらいからは私だけ現地集合してました。
幼なじみに言われるのですが、
「いつもあちゃ1人だけいろんなことに耐えてて、自分は何もしてあげられないって、何も出来ない自分が子どもながらにもどかしかったよ」
って。
本当に良い子たちなんです。゚(T^T)゚。
どんなに嫌なことがあっても、学校に通えたのは、この子たち、私の強力な味方がいたからでした。
4年生、ついに食事制限と朝昼晩の薬の服用が始まりました。に加えて、脱水症状を起こさないように「水分もしっかり取ること」と言うことで、毎日水筒を持って行っていました。(腎臓病=水分制限なので、とてもびっくりされます;)
学校の給食も皆と同じものが食べれなくなってしまい、少しの間(もしかしたら数回だけ)お弁当だったのですが、「皆と同じじゃないから嫌だ」と結局長くは保たなかったです(;^_^A
牛乳だけ禁止にして、あとは量を減らして皆と同じ給食を食べました。
『
病気と共に①』でも、私が生まれつきであったことが幸運だったと言いましたが。
その理由については度々触れていますが、一番はこれだと思います。
最初から治る見込みも待機できる見込みも一切無く、毎日毎日少しずつ、あるいは急激に悪くなって行くしかありませんでした。
”移植するしか生きる道がない”私には最初から”絶望”しかありませんでした。
でも、これが良かったんです。
「我慢させても、いずれ近いうちに透析しなきゃいけない」
「我慢させたって、この身体だけで生きられるのは、1、2年あるいは数ヶ月の違いなんだから、無理に我慢させることはない」
お医者さんもそう諦められるのです。
なので、”想像してるより”も運動制限は無かったし、食事制限もありませんでした。
これについては、むしろ、治る見込みのある腎臓病の人の方が遥かにきついと思います。
あたしにゃ耐えられん!!!(笑)
残酷な子で、小児科にも関わらず、食事制限があるであろう子を横目に、お菓子をいっぱい抱えて、お菓子をぼりぼり食べ、診察室でもぼりぼり食べてました(^▽^;)
お医者さんからは毎回「あちゃちゃんは今日もお菓子でいっぱいですね~~」と言われていたのを覚えてます。
母は、周りを気にして「ちょっと、あんまり出さないで!食べれない子もいるんだから!!」とあたふたしてましたが、食べたかったんだもの、仕方ない(笑)
あたしがあまりに普通(行動は異常ですがw)なので、他の保護者の方に「どこが悪いんですか?」とよく聞かれました。
母が内容を言うと、「こんなに元気そうなのに・・・」と悲しい顔を向けられました。
「今はきついけど、自分の子どもは治るって言われてるからまだましだ」と。
これはどこに行っても、病気を言うとそういう顔をされます。
「私はただ、お菓子を楽しく食べてるだけなのに、何でそんな顔するの?」と。
そういう保護者の顔には「なんでかな?」と疑問でした。
「あなたの未熟な価値観だけで、勝手に私を不幸な人間にしないでよ」
そう思ったのかも知れません。
自分が治らない病気であることは理解していたし、特に治る病気に対して羨ましさもありませんでした。
”目に見える病気だったら”と思うことはあるものの、”もっと簡単な病気なら良かったのに”と言う想いも大して無かったです。
”皆と違う私”という点で辛い想いはあれど、その的が病気に繋がることはありませんでした。
4年生のときの先生は転勤して来た人で、1、2位を争うほどの最悪な先生でした。
中学校からおりてきた人らしく(噂では何か問題を起こしたらしい)、また、自分の実力を過大評価してる人でした。
私は普通の市立の小学校ではあったのですが、その土地がわりと新しく、学校も出来てまだ20年経たないくらいの新しいとこで、お金持ちが非常に多かったです。
医者や弁護士、社長の娘息子など。
なので、PTAが非常に強く、教師は保護者の言いなり、と言った学校でした。
学校の先生は体育以外は常にスーツなのは当たり前だし、シューズも裸足で履くことを禁じられていました。
廊下などで学校の先生に会ったら、一旦立ち止まってきちんと会釈をしなければなりませんでした。
シューズも引出しも、全学年全て”黄色”に統一されていました。
今思うと、ちょっと気持ち悪いかなぁとも思いますが、私はこの小学校が大好きで、何より育ちの良い子が多いので、変な自慢や妬みがありません。(これはこの後にこのありがたみを知ることに・・・)”子どもの中では”皆が平等でした。
なのですが。
担任(男40歳)はこの小学校に転勤してくるなり、
「この学校の教師は保護者の顔色ばかり伺って、おかしい!!僕は保護者に媚びたりはしません!!この学校を変えてやる!!」
と保護者の前で断言したのです。
でかい口は叩くもんじゃないです。
一気に保護者からの反感を買いました。そして、こいつがこれを言えるほど腕の立つ奴で無いことがすぐに証明されます。
最初から、私はこの人のことが好きではありませんでした。
力量のある人間だと思えなかったのです。
理由はこの一言でした。
私には病気があるので、事前に3者面談をします。
そのとき、この先生は私に、
「きつかったら自分で言えると、今僕と約束してくれますか?」
と言いました。
もうこの一言で、この人の人柄も力量もすぐにわかります。
だって、遊びたい盛りの子どもですよ??
あんたはどんだけ落ち着いて素晴らしい幼少期を送ってきたんだ、と。
というか、そんな子ども時代楽しくないだろう(笑)子どもなんてやんちゃやってなんぼじゃないか!!
責任転嫁、ですよね。
それも、40歳の良い大人が、10歳に満たない子どもに対して。
今なら「あんたのその脳みそが何のためについてるか教えてやろうか???物事を観察するためだよ、考えるためだよ!!!」と言ってやりたい。
帰りの車の中で母に、
「お母さん、大変残念ですが、あいつは駄目です。大した人間じゃない。」
と言いました。
ため息をついていた。
すぐに問題は起こりました。体育の時です。
そのときにはもう身体もきつくて、だけどやっぱり大好きな体育はしたいって気持ちがあって・・・葛藤です。
母には、「皆と同じペースで走ったり、激しいことは参加したら駄目」と言われていました。
体育が始まってすぐ、ウォーミングアップにグランドを3周走れとの指示がありました。
1番前の人から、次々に走り出します。
参加はしたい、でも、でも・・・
私は、先生は止めるだろうと思っていました。
”自分から「出来ない」と言うのは”嫌でした。
あたかも、今髪の毛解けちゃってと、髪の毛を結ぶフリをしてとぼとぼ歩いていたら、先生がとても大声で、「おい!!!何さぼってるんだ!!!さっさと走れ!!!!」と言ってきました。
怖さとかじゃないです。「このおっさんは何言ってるんだ?」と驚きました。
さぼってるって何???、と。
でも、参加して良いなら・・・と、私はグラウンド3周を走りきったのです。
その日、私が家に帰るなり、顔色は真っ青だし寝たきりで動かないので、母が理由を聞き、この体育のことが判明。
あまりにも様子がおかしいので、次の日病院で検査をすると数値が一気に悪くなっていたそうです。
そのことを、先生との連絡帳に書いたときだったと思います。(もしかしたら、このことじゃなく別のときだったかも;)
その日の夜、先生から電話が掛かってきました。
偶然私が電話を取り、母に変わるように”いつもの感じ”で言われました。
だけど、電話をしている母の様子がおかしいです。
1分もたってないと思います。
母が青ざめて戻ってきました。
先生の方から電話を切ったそうです。
「連絡帳読みました。
僕は教師だけど、人間です!!!!!
教師を馬鹿にするのもいい加減にしてください!!!!!!!!
連絡帳はもう結構です!!!!!」
ガシャンッッッ
と母に怒鳴って。母は固まっていました。
まだ1学期始まって間もない頃の話です。
「いい加減」と言う言葉はもっと耐えた人間が言う言葉では・・・??
いや、そんなことはどうでも良いんだけど。
もう意味不明でした。
もちろん、教頭、校長に言いに行きますよ。
だって、そのくらいの内容ですもん。走らせたことについても、それにより結果が悪くなったことも、怒鳴りの電話も。
グラウンドを走らせたことについては、「あのときあちゃさんは、僕と、きつかったら言うと約束しました。僕はその言葉を信じてました。」です。
阿呆かって。
何度も言うようだが、相手は子どもだぞ。
このときの教頭先生がとても良い人だったんです。
母が教頭先生に
「私は何かおかしいことをしてますか?怒鳴られる内容ですか?」と聞きました。
教頭先生は、「いえ、お母さん。おかしくなんてちっともありません。子どもを心配してるだけじゃないですか。むしろ僕は感謝してます。これはもっと上(教育委員会)に言ってもおかしくない内容なのに、お母さんは僕たちのところに来てくれました。僕たちのことをまだ見捨ててないんだと思い、安心しました。
どんなことがあっても、子どもを育てるはずの教師が、一時の感情で感情的になってはいけません。しかもその内容が、自分の教師としての責任です。責めるべきは、あちゃさんなんてもってのほかで、お母さんではなく自分自身でなくてはならないはずです。
これは僕の責任でもあります。
お母さん、もう一度、僕とこの教師にチャンスをください。」
と言われたそうです。
でも、この人が改善する感じはあまり無かったです。
何よりも、教頭先生が良い人だったから、学校に通えたようなもんです。
クラスの皆に私の病気を言わなくてはなりません。
”私のいないところで”そういう”約束”でした。
でも、こいつは、その約束を破り、私がいる中で言いました。
理由は、「ルールは破るためにある」とか何かそんな、よくわからない理由だったように思います。
教室では耐えて耐えて耐えて泣きませんでしたが、その日、学校に迎えに来た母を見るなり、泣いてしまいました。
これもあり、運動会に参加出来ないことを皆に伝える時は、「あちゃさん、保健室に行っててください」と私を保健室に促し、皆にそれを伝えました。
最初からそうすれば良いのに。
病気の子を持つ親はとても神経質です。
それは、病気のことだけでなく、何もかもです。
でも、教頭先生はそういう母を、「一生懸命なんだ」と親身に温かく受け入れてくれていました。(たぶんおおよその人間はそうなんだと思いますが。)
私は、勉強が出来ない方ではありませんでした。
学校にあまり通えてないわりには、クラスの中でも出来る方だったと思います。
”だからこそ”、少しずつ勉強についていけなくなりだした頃に、”学校が終わってから数分でも良いから、勉強を教えて欲しい”と母が担任にお願いしました。
すると、
「あちゃさんは勉強は出来ています。毎日学校に来てても勉強が出来ない子どもがいます。その中であちゃさんだけに勉強を教えているのは不公平です。」
まぁ、ここまでは納得出来なくはありません。
「お母さん、病気と勉強、どっちが大切なんですか?
どっちもを選ぶなら、病気の子が通う学校だってあるんだから、そういうとこに行った方があちゃさんのためにも良いのでは無いですか?そちらの方がお母さんも安心なのでは無いですか?」
母は、「あちゃに死ねって言ってるのか!!病気か勉強だったら、病気を選ぶに決まってるじゃない!!!」と言い、それについては私も激しく同意でした。
これについては、教頭先生は、激怒でした。
「お母さんが言ってるのは、これからのことを見越してじゃないですか!今、勉強が出来てるからこそ、今後どうなるかわからないわけだから、そこを延ばすのが教師の勤めでしょう。
病気か勉強??何だそれは!!どっちもだよ!!!
いち教師が、養護学校へ促すなんて・・・
あちゃさんはまだまだ普通の学校へ通えますよ。
大丈夫ですよ、お母さん。
勉強は僕が教えます。」
私は、「この学校には友達もいるし、友達とは別れたくない。ここに通いたい。」と言いました。
10月、運動会の時期です。
とっても憂鬱です。
運動会には参加出来ないだろうと諦めていたのですが、教頭先生のはからいで、「少しでも出来ることがあるなら」と試しにお医者さんに聞いてみました。
すると、綱引きくらいなら参加しても良いとのことでした。
絶対に参加出来ないと思っていたので、これは嬉しくて嬉しくて。
教頭先生も、一緒に喜んでくれました。
だけど、担任だけが良い顔をしません。
「うん」と言わないのです。
何でだったのか・・・「途中で倒れたら」とか「あちゃさんだけに構ってられない」とかそんなだったと思います。
そんなんでもめていたある日、校舎裏にある人気の無い、プレハブ小屋に先生に呼ばれました。
このときが、こいつのピークでした。
これから後は、ただただ小さくなっているだけの存在です。
内容を簡潔に言うとこうです。
「運動会参加は諦めてくれ」
「僕がこういうことするとまたお母さんに話して、僕を悪者にするんででしょう?大変なんだよね。」
「学校でも立場が無いんだよ」
私、友達に対してはおおらかだし、友達と口喧嘩もしたこと無いくらいで。
ですが、”教師”に対してだけは違うんです。
物事をずばずば言います。反抗的な態度も取るし、時には強い口調で言い返します。
それは、大人だからです。大人は子どもを育てる存在だからです。
その大人が間違ってると思えば、とことん言及します。
このとき、先生と口論になりました。
40歳vs10歳(笑)
その歳の差、30歳。
口論になった末、先生から出た言葉です。
「あちゃさんは病気だから、1人じゃ何も出来ないでしょう?」
もう、ただただびっくりでした。
こんなこと言う人間がいるのか、と。
「机だって1人じゃ運べないじゃないか」とか何とか言ってたけど、そんなのどうでも良くって。
呆れ笑いすら出るかってくらい呆れた。
わりと最初の方から、教師だとか思ってなかったんですけど(笑)完全にプツンと何かが切れた瞬間でした。
もう倫理観とかどうでも良くなった。
「お前、今言った言葉忘れんなよ!!!!
今に思い知らせてやる!!!!!
絶対に後悔させてやる!!!!!」
そう怒鳴り、プレハブ小屋を後にしました。
1人じゃ何も出来ないだって??
出来るところを見せてやる。
教室に戻るまでの道のりで、色々考えました。
ただただ、この男を苦しめてやりたかった。
自分の心が汚れてるとかどうでも良い。人にどう見られても良い。
この半年、自分が苦しめられた、倍、いや何十倍と、こいつを苦しめたかった。
そうしなきゃこの怒りはおさまらない。
教育委員会に言うか?
でも私のために一生懸命になってくれている教頭先生を苦しめたくはありませんでした。
それに、これをするのなら、この教師面した男から教員免許を取り上げるくらいのことをしなければ意味が無いと思いました。ただ、私や、私の親が恥をかくだけだ、と。
それは嫌でした。
こいつは、私が病気だからこう言ってるんじゃないんです。
”病気”なのに”弱者”じゃないから気に入らないんです。
想像していた病気の人間じゃないんです。
”病気”なのに、友達がいて、クラスの中心人物で、勉強もできて、運動神経も良くて、活発で。
もしも、わたしが車いすに乗っていれば、もしくは、目に見える病気であればこいつの態度は違ったと思います。
病気と言うもの以外で、付け入る隙が無かったんです。弱みがありませんでした。
病気以外は完璧だった。
だから、私と言う存在が気に入らなかったんです。
そのことも、やつの態度を見ていてわかっていました。
でも私は、病気だからってそんなこと思われてたまるか、と思いました。
40年間健康に生きて、病気の1つもしたこと無い人間に何がわかる、と。
こんなやつより、10歳の私のほうがよっぽど頑張ってる。
だから、ここで引き下がることは無いんだ。
私は間違ってない。戦ってかなきゃいけない。
名案を思いつきました。
「自分がいなくなれば良いんだ」
私には兄が2人います。
なので、いろんな保護者が私の存在を知っていました。もちろん病気のことも。
そして、病気だから、学校中の先生が私を知っていることも理解していました。
「これを利用しよう」
しばらくの間、友達と会えないのは悲しいけど、これが一番の策だと思いました。
思いついたとき、笑いが止まりませんでした。
私の思いついた案は、不登校になることです。
こうすれば、こいつはクラスの子たちだけでなく、保護者、学校の先生からも白い目で見られます。こいつの居場所が無くなります。
「これ以上に良い方法はない。」
そう確信しました。
そして、決心しました。
”絶対に泣かない”
こんなクソみたいな人間の前で涙を見せることは無い。弱いとこを見せたら負けだ。
こんなやつに負けるもんか!!!
なので、しばらくの間、トイレに入り1人で泣きました。
この涙を最後にしよう。
この後からは強い私でいよう。
今日のことは、私だけの胸の中に閉まっておこう。
誰にも、何も言いませんでした。
このことだけでなく、私が不登校になる理由は十分にあったので、説明する理由もいりませんでいた。
結局、運動会は私から引き下がるという形で参加しませんでした。
”もう二度と出来ない”と思うと悲しくもありましたが、私には野望があったので、どうでも良かったです。
競技が始まっても、体操服で母のいるところにいるので、他の保護者の方にたくさん質問をされました。
”これから自分が生きて行く道は、こういうことがたくさん待ち受けているんだろうな”
ぼんやりとそう思いました。
3学期が始まって1週間もしないうちに、学校に行くのをやめました。
自分で決めた通り、不登校になったのです。
そして、長かった髪の毛を「この中にはいっぱい嫌な思い出があるから」とばっさりカットしました。初のショートカットです。
カットしに行った美容院、そのとき着ていた服まで明確に覚えています。
「この髪が伸びる頃には、きっと今より良い日々を過ごせる」
そう願掛けをしました。
やつが苦しんでいる姿を想像すると、すっきりとしました。
そして、実際、私の予想通り苦しんでいました。
私が学校に行かなくなって数週間が過ぎた頃、最近私の姿を見ないなと思った教頭先生が担任に聞いたそうです。
「今思えば、僕のことを避けていた」そう言ってました。
最初は、言葉を濁したそうです。
追求すると、私が学校に来ていないことを渋々打ち明け、それを聞いた教頭先生は、廊下で他の人が通って行く中で、そいつを怒鳴りました。
学校に行かなくなってから、毎日のように友達が入れ替わりで4人くらいその日あったことを教えに来てくれました。子どもたちで話し合って来てくれたそうです。
1日のうちで1番幸せなときです。
時々、担任が来ます。
玄関口で「あちゃさん、会ってもらえないですか?少しでも顔を見せてもらえないですか?」と、か細い声で言います。
とっても醜かったです。
私は顔も出さずに、「何しに来たんだよ、さっさと帰れ」と無愛想に言います。
不登校になってから、担任とは2度しか顔を合わせてないです。
近所で教育学部に通っているお姉さんがいました。
勉強はその人に、家庭教師という形で教えて貰いました。
1日がとても長いので、花や植物をたくさん育て、それをたま~~に学校に植えに行きます。
種から目が出る瞬間がとっても好きで、本当にたくさんの植物を育てました。
びわの種って、お店で買ったびわでも簡単に発芽するんですよ。
びわが好きなんで、いくつ発芽させ、いくつ植えに行ったかわかりません。
あまりにも多かったんで、学校だけでなく、近所の庭にまで植えに行ってました(笑)
時々は、邪魔になった枝を切って、それを水につけ、根を出してみたり、付け木に挑戦してみたり。
近所で面白い花や木があったら(だいたいが面白いんだけど笑)、「ちょっとちょうだいっ」と貰い、また根を出させてみたり。
花から種になり、その種をまくと、また同じ花が咲くのがとっても不思議でした。
どの部分から根が出るのだろうと色々実験したり。
もっとちゃんと育てたいなと思って、植物図鑑とにらめっこしていました。
そんな私を見て教頭先生は、「これが本来のあちゃさんの姿なんだろうな」と言っていました。
そんなときに、親戚のおじさんが自殺しました。(『
病気と共に③』参照)
これが関係していたわけではないと思うのですが、それから1週間もしないうちに高熱を出してしまったのです。
インフルエンザじゃないのに、40度も。
3年生くらいから、平熱が37度を超えることが当たり前で、1週間に1度(しかも休日)は38度になるのが普通でした。
でも、友達と遊んでた(笑)身体きついんだけど、遊んでるときは楽しいんです。
病院の待合室で待っているときに、ひきつけを起こしてしまい、そのまま緊急入院。
入院中、初めて金縛りに合いました。
夢におじさんが出て来て、そのおじさんは娘さんと一緒です。
最初、2人部屋を1人で使ってたんですけど、2日くらいしてネフローゼの女の子が来ました。
「治る」と言われていた子だったので、治ってれば良いけど。
招かれざる客も来ました。
担任です。
話すこともせず、何しに来たのかと思えば、4年生の終わりに作る冊子に1人1人コメントをのせるからそれが欲しい、と。
そっぽ向いて、私も何も話さないし、担任も何も話さないし・・・たまたま事情を知ってる同室の子のお父さんがお見舞いに来ており、担任に、
「あんたさぁ、何も話すこと無いんだったら、出て行きなよ。あちゃちゃんだって、あんたの顔なんて見たら余計身体悪くなるだろうが。」
と言い、担任を追い出してくれました。
母が来てから、「何だあいつ!!!鉄パイプがあったら後ろから殴ってやりたかった!!!!あんなんが教師で良いのか!!!!」と興奮していました。
私は、担任のお望み通り、コメントを書いてやりました。
マイメロディーのメモ用紙に、
「この1年は最悪でした。
その理由は○○先生(担任)です。
こんなやつ、教師になる資格無いと思います。
さっさと辞めて欲しいです。」
と(笑)
もちろん使われることはありませんでしたが(;^_^A
時々、保健室に通っていました。
保健室は嫌いだったけど、保健室の先生と教頭先生は好きだったのです。
友達が、授業さぼって会いに来てくれたりしました。
思えば、以前から学級は崩壊気味でした。
私が不登校になる前から、私が熱があり保健室に良く行くためか、保健室には”私のクラスの生徒だけが”10人、20人といるのが当たり前だったんです。
私が保健室にいる間、担任は、出入り禁止となっていました。
でも1度だけ、「こうでもしないとあちゃさんは会ってくれないから」と、裏口から入って来たことがあります。
私はびっくりして、ずっと下を向いています。
髪を切った私を面と向かって、見られたくありませんでした。
こいつのせいで傷ついてると、こいつに「弱い」と思われたくなかった。
「最近、どうしてましたか?」
「何か話してくれないかなぁ」
話す気なんてさらさら無いです。
だったら、私の前に土下座しろよ、と。
それでも許さないけど。
教頭先生が来て、「出て行きなさい」と言い、ここでも担任は追い出されました。
緊張が解けて、泣かないって決めてたのに、自分でもびっくりするくらい涙が溢れて止まらなかったです。人前でこんなに泣くかってくらいわんわん泣いた。
ちょうど迎えに来た母はびっくりしていました。
4年生が終わる頃、担任から手紙を貰いました。
読まずに燃やそうと思いましたが、やつの惨めな姿を拝んでやろうと見ました。
何が書いてあったかは覚えてないですが、上っ面ですね。
お望み通り、お返しの手紙を書いてあげることにしました。
「私とお母さんの前で土下座しろ」
「お前のことなんか教師と思えないし、そのへんのおっさんくらいにしか思ってない。」
「これから学校が始まって、お前と会っても、私は会釈はしない」
「だって、道ばたにいる”知らない”おじさんに、わざわざ会釈しに行く馬鹿はいないでしょう?」
「お前なんて、あたしにとってはその程度の小さい存在だ」
書いてたら止まらなくて、5枚くらいになったと思います。
4年生が終わったとき、母と私が校長室に呼ばれました。
それまでも何回か校長先生とは会ってはいましたが。
校長先生は、私に質問をしてきました。
「あちゃちゃん、”明日”って言う字はどうやって書くか知ってる?」
「”明日”って言う字は、明るい日って書くんだよ。きっとあちゃちゃんの未来は明るいことがたく
さんあります。僕はそう信じてます。この1年間本当に良く頑張ったね。」
この1年間があまりにも大変すぎて、そう言われて、涙が出ました。
”やっと終わった”と。
それから、最後に校長先生に、「本当に申し訳ありませんでした」と土下座されました。
嫌いな校長先生ではありませんでしたが(わりと好きな方)、「この人は、何のために謝ってるのかな?」と疑問。
「教育委員会には言わないのに」そう思いました。
この年、校長先生は移動になってしまいました。
それからしばらくは、毎年年賀状を送ってくれていましたし、良い校長先生だと思います。
きっと、心から謝ってくれたんだと、そう思っています。
3年生のときの担任も、卒業なわけでもないのに「頑張ったね」って花束をくれ、抱きしめてくれました。
先生は、泣いていました。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今回はここまで!!
本当に、どうしようもないやつだったんです。
今の教育現場で、こんなことが行われていないことを願うばかり。
病気だからって、障がい者だからって、弱くならなくて良いんですよ。
ただ、人よりも、命を見つめて頑張って生きてるだけじゃないですか。
こういうクソみたいなやつに負けること無いんです。
立ち向かって行って良いんです。
そこで理解して貰えなかったら、”その程度のやつ”なんです。
そう思います。
次回は、私が小学校5年生のお話です。
やっぱり小学校生活を2回でまとめるなんて出来なかった・・・
ここまで読んでいただきありがとうございましたヾ( ´ー`)