今住んでるところから(来年から通う)職場まで、チャリで50分なんです。
50分なんて楽勝だろ音譜って、自転車で50分も走ったこと無いのに思って(笑)、そしたら家族全員に否定されたあせる

なので、引越をしなければならないのですが・・・。
お父上も、「(学生と社会人との)けじめをつけるために引越しなさい」「初期費用は全て出します」って言ってくれてるんだけどね(^_^;)

これまた家探すのが難しいのガーン
だって、不動産が、「今決めないと家賃上がりますよ」とか、本当のこと言ってるんだかどうかもわからないんだもの汗
って疑いだしたら、言ってること全て嘘に思えて来ちゃってかお汗

今日、不動産に行って来たんだけど、あんまり丁寧な人じゃなくてさあせる
あたしがうじうじしてるのもいかんのかも知れないけど、「今日、僕、○○円の物件決めて来たんですよ!」とか、自分の自慢話しだしたり・・・・どうでも良いよそんなこと得意げ
私は住む家が欲しいんじゃ!!!!

不動産の娘だけど、私は不動産のことよくわからないし(自転車50分も平気だと思っていたくらいなので汗)、何をどう信じればよいやら。
まぁ、兄ちゃんの言うことなら大丈夫だろってことで・・・

①駅から徒歩15分以内(自転車通勤とかバス通勤とかは考えず電車を基本にする)
②いつまで住むかわからないから、更新料無料という言葉に惑わされず、月の家賃で見る。
③1階は絶対に駄目。2階以上。
④5.5万円で中途半端な家に住むなら、1万円出して6.5万円で満足の行く家に住む。もしくは、全て諦めて、極端に低い4万円の家にする。「1ヶ月に1万円多く出して良い家に住めるなら良いじゃないか!!年間通しても10万円くらいの違いだよビックリマーク1ヶ月に1万円ってそこまで大きな差じゃないと思う。」by兄ちゃんのお嫁さん(年間10万円は大きいと思うんだけど・・・しょぼんでもじゃあ、それで何か買うのかって言ったら貯金なんだけどさ汗
⑤「6.5万円の家に住んで、私、生活出来るはてなマーク
「出来るビックリマーク大丈夫!!貯金も出来る!!」by兄ちゃんのお嫁さん

私の住むとこだと、6.5万円出せば、バストイレ別、システムキッチン2口コンロ、独立洗面台、(物件によっては)ウォークインクローゼットが完備なのですキラキラキラキラ
一番の問題は、このお金を出すだけこの家を利用するのか・・・つまり、そんなに家に帰って来れるのかってことなんですけどガーンガーン
「終電までには帰れるよ」と言ってはいたから・・・というか、私の会社は寝室が無いから(寝床があるアニメ制作会社があるのですビックリマーク笑)帰らないといけないんだけどさ・・・たぶん・・・・たぶん・・・・・・・
いや、むしろ、家に帰してくれ・・・・叫び寝れなくて良いから、お風呂に入らせてくれ!!!!!!お風呂入りに家に帰してくださいっっっっ叫び叫び叫び叫び叫び


いろんな条件しぼって、8日までにいろいろプリントアウトして、8日に兄ちゃんと不動産へ行くことになりました。
この日に家を決める!!!!予定!!!!
1月に兄ちゃんの赤ちゃんが生まれる予定なので、この日に決めなきゃいけない・・・・


今日行った不動産で、就職する会社名言ったら、「去年もその会社の人来ましたビックリマーク」って言ってて、その人がいくらくらいの家に住んだのか質問したんです。
そしたら、4万円ってっっっっっっ叫び叫び
「男だからってのもありますよ」とは言ってたんだけど・・・・良いのかな、良いのかな・・・・・大丈夫なのかな私・・・・・・得意げ得意げ
その人がアニメーターなことを望む・・・ショック!
私の会社は、アニメーターは最初、手取り10万くらいなんで(これでもかなり多い方!!)、だったら4万円でも納得出来る・・・むっ
私はアニメーターじゃないから・・社員さんだから、ちゃんとしたお給料貰えますキラキラキラキラ



いろいろ、働きだしたらどんなお金かかるのかとか調べてます。
市民税とかよくわかりません得意げ
私は一定額控除されるんですよね!?(言葉の使い方あってますはてなマーク
でもこれは、2年目からなんですよね・・・・市民税も2年目からなんですよね・・・はてなマークはてなマーク
2年目からはボーナスも出る(らしい)ので、良かった・・・・・あんま期待してないけどねビックリマークべーっだ!流れ星
基本的に、アニメ業界にお金の期待も信頼もしていないですかお汗
最低限生きていけるだけの額を貰えれば・・・・ってその程度(笑)


やることがいっぱいです得意げ
目先の大行事としては、
・卒制(来れ終わらせないと卒業出来ない!)
・レポート(単位は取れてるけど、学芸員の資格も取ってるから、これは1単位でも落としたら資格取れないんでしっかりしなきゃ!!)
・家探し
です。
頭パンクしちゃいそうですしょぼん
頑張ります!!!!!!
サルバドール・ダリは私が1番最初に好きになった画家です。

絵を描いたきっかけ 』でも触れたように、私は絵にあまり興味が無かったんですガーン
養護学校に行って、「私の人生はがい者として生きる道しか無いんだ」と諦めていたので、高校進学もする気は無く、「でも養護学校の高等部に行くのはちょっとな~~」と言う感じでした汗
3の時の担任が、小児麻痺を患っている59歳の先生でした。
だから、親近感があったと言うか・・・。


私の行っていた養護学校はちょっと変な養護学校でして・・・
よくよく考えると納得出来ないとこもあるんですけどガーン
重複学級普通学級があります。
重複学級は、病気+知的障がいの子のクラスです。
私は普通学級で、この普通学級がちょっと変で汗
私のように病気の人間もいるんですが、中には病気を持っていない人もいました。というか、私と筋ジストロフィー持ちの男の子以外は、ほぼ全員病気
ではなく年齢的な”精神”の子でした。
中には肥満+精神で来ている子とか、喘息+精神の子とか。
当初私は、私と同じように病気を持った子がいて、病気の話を出来ることを期待していたんです。
しかし、この養護学校では病気のことが禁句というか・・・・何故なら普通学級では”病気の無い子”いるからです叫び
一応「自立させる」
という名目らしいのですが、噂によると、病院の資金集めとかなんとか・・・(精神の子は病院に入院させることが養護学校に通う必須条件だったので)
宮崎がフリースクール等の設備がちゃんと整ってないからってのにも原因あったんですけどかおあせる
私や筋ジスの子なんかは、”普通の学校に通いたくても通えなかった”わけです。
方や一方、”普通の学校に行きたく無いから、養護学校の方が楽だから養護学校に来る”わけです。
ここで何が発生するかと言うと、こういう子の中には病気を羨ましがる子が出てくるわけですガーン
いつも人が隣にいて心配してもらって・・・そういう子に憧れる子がいるんです。
これはまだ、普通学校に通っている時にも、病気の正体をわからない子どもが、私を「羨む」ってことはあったので(たとえば、「あちゃちゃんはいつも体育見学出来ていいよね」とか)良いんですけど。
”いじめ”が発生するんですね汗
この学校に、肥満や喘息、精神で来ている子って、普通の学校ではいじめられていたり、友達がいなくて言葉を発する機会が無かったり、そういう子なんです。
養護学校に来ると、自分より”下”の人間がいるんですよ。
重複学級の生徒はその良い的になるんです。
彼らは素直だから、その子たちがいじめてもそれに気付けないんです。一生懸命に対応するんです。
今まで自分がされてきたことを、養護学校で出来るんですよね。
普通の学校ではいじめられてた人間が、養護学校に来ていじめをする側に立つんです。
私の行っていた養護学校にはこの図がありました。
もちろん、私がいじめの対象になったことはありません。
普通学級にいる精神の子が、重複学級にいる病気の子をいじめるんです。
この養護学校では、”いかに重い病気を持っているか”が、その人の優劣決め手でした。
私にはそう感じられました。気持ちが悪かったです。私が思うに、養護教員にも問題はあったんだろうけど・・・・
宮崎なんで、そう病院も多く無いんで、病気を背負ってる子は言わずとも自ずとわかるんです汗ネットワークがあるから
病気を持つ同士であれば、「病気発見したの同じ先生だ!」「飲んでる薬同じだ!」なんてことも、しばしば。笑
病気の子との繋がりが無かったわけではなかったんですけど、先天性の病気の子って(私の周りは)知的障がいを持っていたり、じゃなくても、入院生活が長かったりで学校に通えなくて勉強が遅れていたり・・・障がいを持っている人間はほとんど重複学級にいたので、学校ではあまり関わりが無かったんですあせる



まぁ、こんな感じの学校だったんで、小児麻痺を患った担任がとても自分の近くに感じられて、信頼してましたにひひ
この先生が、やる気の無かった私に、ある工業高校を進めてくれました。

「お前は何をしたいんだ?」

「パソコンを導線から作りたい」

この
会話が始まりだったんですけど(笑)
工業高校の中にある美術系の科だったんで、「パソコン導線から作るんじゃね!?」みたいな担任の軽いノリで・・・w
推薦試験がデッサンで、私はデッサンが得意な方だったんで運良く合格し、通学までの間、パソコンを導線から作ることを夢見ていましたキラキラキラキラ
しかし、最初に持たされたのは、”はんだごて”ではなくほっっっっっっそい”筆”だったんですガーンガーン
学科の用品を購入したときに、「はんだごて無いな、おかしいな」とは思っていたんですよしょぼん
「何でアクリル絵の具あるのはてなマーク」って。
完全に勘違いですあせるあせる

私の周りが、絵の上手な人集まっていて、美術家の話してたり、「ついてけない~~」って思いながら日々の生活を送っていました汗
でも、先生にはわりと注目されていて、描く絵はいつも選ばれていましたあせる

6月頃に、先生と面談があったんです。
私は学科担任にはっきりと、「私、絵を描きたいわけじゃないんです。そもそもパソコンを導線から作るつもりでこの学校に来たわけだし。皆、美術家の話して、私ついてけないし、デッサンする気も無いし、正直この科でやってく自信無いです。と言いました。
でも、その担任の先生は、折れませんでしたにひひ汗
「俺はお前はこの科が合ってると思う。絵を描く才能もある。デッサンも、お前には絶対に合ってるから良いから、もうちょっと頑張ってみろ!!」と。

B1パネル(畳より一回り小さいくらい?に絵を描きました
初めて、絵の具でちゃんと絵を描きましたアート

私の絵を見ていた副担任の先生が突然声をかけてきました。

「あちゃさん、サルバドール・ダリって知ってる?」

この副担任の先生は、私の描く絵、描く絵、好みだったらしく、見るたびにコメントをくれていた人です。
サルバドール・ダリなんて、このときの私はもちろん知りません汗
副担任の先生が、大きなダリの画集とダリを特集したDVDをかしてくれました。
もう、のめり込んだ、のめり込んだ
にひひ汗
面白くて仕方なかったです。

そして同時に、とても恥ずかしかったです。

画家って、絵を描ける人間って、皆生まれ持った才能だと思っていたんです。
画家だけじゃないです。芸能人もそうです。
皆、なるべくしてそうなったんだ、そう思っていました。
自分にはそういう才能が無いから何しても無理だ
やる前から私は諦めていました。
ダリと出会って、ダリの絵を見て、どうしてこんな絵を描いたんだろうと”彼の絵”を追求して行くうちに、”彼の半生”見えてきました。
もちろん、本当に生まれ持った才能の人はいますよ。
でも、何が才能かって言ったら、出来上がった素晴らしい絵ではないんです。
そこに辿り着くために惜しむこと無く描いて来た、数々の絵たちなんです。
努力を惜しむこと無く出来る人が才能を持った人なのだと思います。
絵を描ける人は、描いてます。描かずに絵を描ける人間はいないです。
このサルバドール・ダリと言う男も、努力の天才と言われるように、彼の作品は間違いなく努力の賜物でした。
自分の人生から逃げずに、まっすぐに絵に叩き込んでいました。だから、絵と彼の生涯とを比べた時に繋がるんです。とても信念のある人です。

私の高校時代のアイドル(笑)は、このサルバドール・ダリ、サグラダ・ファミリアで有名なアントニ・ガウディ
、全世界の人が知ってるであろう画家レオナルド・ダ・ヴィンチです。
彼らの生涯、生き方、考え方が知りたくて、色々調べました。
とても苦労している人たちです。でも、それに負けずに生きて描いています
「凄いな、強いな」と思いました。

この人たちのようになりたいと思いました。
「この人たちは才能があったから」じゃないんと思います。
そのくらいに、強い想いがあり、だからそうせずにはいられなかったんです。そうしていくことが彼らの生きていく方法だったんじゃないかな、と。

時代は現代になりましが、私は宮崎駿さんも才能のある人だとは思いません。
よくわからないものを「才能」って呼んで、そこにある個人の努力を度外視してる感じが嫌だからなのかも知れませんが・・・
宮崎さんもやはり、”生きていくためにそうせずにはいられない”人なんだと思います。

本当は生きている人間皆がそうなんだと私は思います。
でも、そういう生き方は辛いから、楽な方へ楽な方へ、足を進めてしまうのです。
それで納得して生きていけるなら、そっちのほうが良いと思いますが、そうは出来ない人間がいるんですよね。
それは、自分の生死を問うほどに。
不器用で、辛い生き方だと思います。


もしも私が、ダリに出会わなければ、きっといろんなことを見落として、いろんなことを諦めていたのではないかなと思います。
今の私の考え方の原点は、間違いなく、この男、サルバドール・ダリにあるのです。
高校の時ほど、ダリに対する思い入れは無いのですが(あのときが情熱的すぎて汗笑)、時々は立ち止まって、この原点に帰りたいと思います。
私、超スポーツ少女だったんで、小さい頃絵を描くことはあまりありませんでした

父が絵を描ける人なので、その影響か、描けば何か評価はされてましたけど、絵に対して興味なかったんでどうでもよかったと言うか

そんなことより、グラウンドに出て走り回りたかったと言うか
なので、幼なじみは「あのあちゃが絵信じられないと言います
誰よりも、アニメも漫画も見てなかったし、だから、私がこれらにハマりだしたころ、母が「あのあちゃがまさかこうなるとは・・・」と言っていました
どーゆー意味かしら


そんな私が、絵に興味を持ち出したきっかけ
それは、小学校5年の時、腹膜透析手術の入院中でした。
子どもだったから余計に、だったんでしょうが、2週間くらいベットにくくられて寝たきりだったんです。
身体を動かさないように固定されていて、動くところって、手と首だけで・・・・
それで、びっくりするくらい何も出来なかったんですけど・・・
私の行っていたクリニックが、長期で入院する子どものために、読み聞かせとかしてくれたり、遊んでくれる先生?を呼んでくれるんです
婦長さんのアイデアもあったと思うんですけど、そこで絵を描いてみようってことになりました。
でも描きたい絵も大してないし・・・その当時、326って人が描いたキャラクターが小学生に大人気で、その326の絵をひたすら模写しました。
寝たきりなんで、先生にノートを持ってもらって描くんです。
自分でも、思ったよりも上手く描けて、先生も、周りの看護婦さんも、お医者さんもびっくりしていたのを覚えてます
「普段から絵を描くんですか」って質問に、「いえ、そんなに・・・」と母は困っていましただって、普段描いてないですもん
でも、すぐに飽きちゃって(笑)これは今でも変わらないんだけど・・・
使い捨てカメラを数個買ってきてもらって、暇なときはそれで無駄に写真撮って遊んでました。

そんなある日、病室の窓から見える夕焼けが、もうびっくりするくらい奇麗だったんです今でも鮮明に思い出せるくらい奇麗で。
「これを残さねば」と思って、カメラを探したんですけど、いつも手の届く範囲にあるカメラがその日に限ってなくて
どうやら、母が帰る時に近くに置くの忘れて帰っちゃったみたいなんですね

「もう何で

って(笑)

仕方ないから、近くにあったノートと鉛筆でその夕焼けを描きました。

が、全然描けないんです


震えるくらいに奇麗で、目で見てその夕陽のグラデーションとか、もう何もかも全て理解出来るのに、描けないんです
目で見て感じて、頭で理解して・・・なのに手では描けないんです・・・



これが不思議で不思議で。



とにかく、不思議。



「326は描けたのに、何でこの夕陽は描けないんだろう



これが、私が絵に興味を持ったきっかけです



CLAMPって漫画家を知っていますか

私、その時はCLAMPって知らなくて、カードキャプターさくらもほとんど知らなくて・・・

326の絵を描いた時に上手かったからだと思うんですけど、母が入院中に、そのCLAMPさんの、カードキャプターさくらの画集を買ってきてくれました(この買ってきてくれた画集がカードキャプターであるということに気付くのは数年後なんですがまったく知らずに楽しんでた
CLAMPさんはとても表現豊かな漫画家さんなんで、
この画集が汚れるくらい、模写をしました。
たぶん、ほぼ全てのページを模写したんじゃないかなぁ・・
そのくらい、理解しているのに描けないっていうのが不思議だったんです

元々、漫画絵とかアニメ絵に対して魅力を感じない人間で、今でも写実的なもののほうが好きです。
でもこれが、美術に進むにあたって良かったんですよね
私はアニメーターでは無いんですけど、アニメーターを目指さなかった理由の1つはこれですどうも1本線で絵を描くってのが・・・う~~~~ん

私の表現したいものは、鉛筆のこんなちっさな範囲じゃ無理なんだよう

ってよく言ってます

絵の具なんて使ってしまった日にゃあ、最後の方は手で描いてますから笑笑
絵の具が落ちない、落ちない
紙と自分との間に生まれるちょっとした道具(鉛筆とか筆とか)もストレスに感じてしまうんです。
時々は、音すらも、ストレスで・・・
たぶん・・・いや、たぶんでなく、私は相当神経質です
しかもそこかってとこで。変人なんです


影から物を捉えるのが好きです


美術に進んで、絵を描くって、考えることなんだなって思います。
そこにはたくさんの、いろんな感情の物語があるんです。
生きている間に経験するおおよそのことは言葉には出来ないんです。言葉に出来るものなんてほんのわずか。
だから、絵に出会えて良かったなって思います。
どうにも飽き性で、「描こう~~~」って気分が乗った時に、ささっと描いて、描いたらすぐに「もういいや~~~」ってなっちゃうんで、自分の実力がどこにあるのかまだいまいちわからないんですけど
実力の全てを発揮出来るくらい、忍耐力のある人間になりたいと思います



結構前に描いたやつなんですが・・・。


木炭 CMに出てた歌手がとても魅力的な顔をしていたので。変な顔描くのが好き。人の顔っておかしいんだもの。(良い意味で)面白いところがたくさんある。ずっと見てしまう

お!
クレヨン 最近の中では1番のお気に入り。これ描いた時には「よっしゃ」って一人でガッツポーズした笑 でも、とてもわかりにくいので、なかなか人には理解されません勢いなんです手が動くままに描いた感じが良いんですけどね・・・

目玉焼き

油性色鉛筆 この画材はねっちょりした感覚があって描きやすい。これは影から影からちまちま・・・どこに辿り着くかもわからないまま描いていきました。

瓦礫

今日退院しました(^^)
今日は3年前に通っていた3年制のデザイン専門学校の友達と同窓会でした!
私は色々考えた結果デザインでは無くアニメ業界へ行くことにしましたが、皆社会人3年目でたくさんの知識を持っていた。
凄いなぁ・・・
私はプロダクトデザインをずっと専攻してきていたので、久々に商品の成型法とか素材名とか聞けて楽しかったですが、もうだいぶ忘れてたわ(^_^;)
口々に、「社畜」「転職したい」「辛い」「ブラック」と言ってました。
クリエイター業界はそうなんですよね^^;
私も来年から、アニメ映画監督目指して頑張ろう。
皆が、「テレビに名前出るときには連絡してよ!チェックするから!!」と言ってくれました(^^)
テレビにはわりとすぐに(1年以内?)名前出るんだろうけど、私が目指してるのはテレビに名前が出ることじゃないから、劇場をちゃんと任されるようになったら連絡することにしよう。
映画館のスクリーンで自分の名前を見たい(^o^)
「私の会社でも、それのおもちゃとか作ってるんだけど、あちゃの行く会社は何か関係してるの?」
って聞かれたんだけど、とにかく日本国民全員が知ってる作品なんで、私の行く会社がどのくらいの範囲まで版権管理してるかわからないし・・・たぶん、大手おもちゃ製作会社までなんじゃないかと(ーー;)
世の中の仕組みは良くわからん。
ただ、日本のアニメは、やっぱり日本人の手だから生み出せるものなんです。
だから、アニメで人件費問題が出てくるわけで。



お医者さんにわがままを言って、今朝血液検査をしてもらいました。
クレアチニン、やっぱり1.0でした。
先生は気にしてませんでしたが、私としてはやっぱり"0."ってついてないと安心出来ないです。
0.86~0.97と1.0じゃ大して変わらないのかも知れないけども。
歯のこともあったし、クレアチニンのこともあって、今日はお酒飲まなかったです。
飲む気になれなかった(><)
今の私にとっては、アニメを作ろうって思えるのだってこの身体あってこそですから。
あと10年はもってもらわないと困る!!!T^T
受診は2月になったんで、それまでちょっぴり不安な毎日かも知れないです。
明日になったら、「考えてても仕方ない、絵描こぉぉぉ~~♪♪」ってなってるのかも知れませんが(笑)

2月の時には、"0."って数値になっていてもらいたいです。
良い気持ちで、社会人生活をスタートさせたい。
0.9が基本の私は、どのくらいが許容範囲なのでしょうか・・・



iPhoneからの投稿
今日は、兄夫婦がお見舞いに来てくれました。
点滴のおちが悪くて、3時間くらいかかっちゃって、来たときは点滴してたので、奥さんが「どうしたの?」と心配してました(^▽^;)親知らず抜くだけの入院だったので。
結局、明日も含め、抗生剤を6回投与しました。
歯のお医者さんがとても丁寧に対応してくれたので、病棟は古くて、汚くて、設備の整ってないとこでしたが;;良かったです。
あと、看護婦さんが皆さん優しかった。
腎の看護婦さんはこんなに優しくないような・・・??(笑)
そんなことはないですね(´∀`)えへへ笑

1つだけ、昨日の日記にも書いたけど、この病棟に来る腎の先生だけが私は嫌いです!!
何であんなに偉そうなの??
まだ大した処置も出来ないくせに!!!←
でかい態度取りたいなら、取れるほどの技術を持ってから取りなさい!!!(゙ `-´)/
お前なんかより、あたしの方が病気と戦ってる暦長いんだぞ!!!こっちは20年なんだぞ、若造よっっ!!!(笑)
でも、この病院の腎の先生のほとんどは好きです。
教授に看てもらうと、教授の隣に3人くらいの若いお医者さんがつくんですね。
その人たちに、教授が言うんです。
「君たちも覚えておいた方が良いよ。
俺たちなんかがね、子どものときから病気と闘ってる人間には敵わないから。
何十年も医者やっててそう思う。俺はただ救うための手伝いしてるだけなんだって。
いつになっても、患者さんから学んでばっかりだよ。
大人の人も凄いなって思うけど、子どもって本当に強い。
戦うのが病気だけじゃなくて、学校とか、他にもいろいろあるから、小さいときから強くなんなきゃいけなかったってのはわかるんだけど、俺からするとやっぱり関心するよ。とてもそうはなれない。」
って。
この病院と出会えて良かったなって思いますo(^-^)o
名前も知らん若造医師よ、患者にでかい態度とってないで、それをしたいならまずはこの教授に逆らいなさい!!!!ヽ(゜▽、゜)ノ
「俺はそうは思わん。病気してる人間なんて弱者だ!!俺が命を救ってやってるんだ!!!」と言えるもんなら言ってみろ!!(笑)




☆今回はここまで☆→”明日”って言う字は、明るい日って書くんだよ。




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出来るだけ、学校行事には参加しました。というか、学校は楽しかったし、友達はたくさんいたので、参加したかったんです。
たぶん、養護学校に行く話は、3年生くらいのときから出だしたと思うのですが、「友達と別れたくない」と拒否しました。
なので、小学校の遠足は2年生くらいまで皆と同じように学校から歩いて参加して、3年生くらいからは私だけ現地集合してました。

幼なじみに言われるのですが、
「いつもあちゃ1人だけいろんなことに耐えてて、自分は何もしてあげられないって、何も出来ない自分が子どもながらにもどかしかったよ」
って。
本当に良い子たちなんです。゚(T^T)゚。
どんなに嫌なことがあっても、学校に通えたのは、この子たち、私の強力な味方がいたからでした。



4年生、ついに食事制限と朝昼晩の薬の服用が始まりました。に加えて、脱水症状を起こさないように「水分もしっかり取ること」と言うことで、毎日水筒を持って行っていました。(腎臓病=水分制限なので、とてもびっくりされます;)
学校の給食も皆と同じものが食べれなくなってしまい、少しの間(もしかしたら数回だけ)お弁当だったのですが、「皆と同じじゃないから嫌だ」と結局長くは保たなかったです(;^_^A
牛乳だけ禁止にして、あとは量を減らして皆と同じ給食を食べました。
病気と共に①』でも、私が生まれつきであったことが幸運だったと言いましたが。
その理由については度々触れていますが、一番はこれだと思います。
最初から治る見込みも待機できる見込みも一切無く、毎日毎日少しずつ、あるいは急激に悪くなって行くしかありませんでした。
”移植するしか生きる道がない”私には最初から”絶望”しかありませんでした。
でも、これが良かったんです。
「我慢させても、いずれ近いうちに透析しなきゃいけない」
「我慢させたって、この身体だけで生きられるのは、1、2年あるいは数ヶ月の違いなんだから、無理に我慢させることはない」
お医者さんもそう諦められるのです。
なので、”想像してるより”も運動制限は無かったし、食事制限もありませんでした。
これについては、むしろ、治る見込みのある腎臓病の人の方が遥かにきついと思います。
あたしにゃ耐えられん!!!(笑)

残酷な子で、小児科にも関わらず、食事制限があるであろう子を横目に、お菓子をいっぱい抱えて、お菓子をぼりぼり食べ、診察室でもぼりぼり食べてました(^▽^;)
お医者さんからは毎回「あちゃちゃんは今日もお菓子でいっぱいですね~~」と言われていたのを覚えてます。
母は、周りを気にして「ちょっと、あんまり出さないで!食べれない子もいるんだから!!」とあたふたしてましたが、食べたかったんだもの、仕方ない(笑)
あたしがあまりに普通(行動は異常ですがw)なので、他の保護者の方に「どこが悪いんですか?」とよく聞かれました。
母が内容を言うと、「こんなに元気そうなのに・・・」と悲しい顔を向けられました。
「今はきついけど、自分の子どもは治るって言われてるからまだましだ」と。
これはどこに行っても、病気を言うとそういう顔をされます。
「私はただ、お菓子を楽しく食べてるだけなのに、何でそんな顔するの?」と。
そういう保護者の顔には「なんでかな?」と疑問でした。

「あなたの未熟な価値観だけで、勝手に私を不幸な人間にしないでよ」

そう思ったのかも知れません。
自分が治らない病気であることは理解していたし、特に治る病気に対して羨ましさもありませんでした。
”目に見える病気だったら”と思うことはあるものの、”もっと簡単な病気なら良かったのに”と言う想いも大して無かったです。
”皆と違う私”という点で辛い想いはあれど、その的が病気に繋がることはありませんでした。

4年生のときの先生は転勤して来た人で、1、2位を争うほどの最悪な先生でした。
中学校からおりてきた人らしく(噂では何か問題を起こしたらしい)、また、自分の実力を過大評価してる人でした。
私は普通の市立の小学校ではあったのですが、その土地がわりと新しく、学校も出来てまだ20年経たないくらいの新しいとこで、お金持ちが非常に多かったです。
医者や弁護士、社長の娘息子など。
なので、PTAが非常に強く、教師は保護者の言いなり、と言った学校でした。
学校の先生は体育以外は常にスーツなのは当たり前だし、シューズも裸足で履くことを禁じられていました。
廊下などで学校の先生に会ったら、一旦立ち止まってきちんと会釈をしなければなりませんでした。
シューズも引出しも、全学年全て”黄色”に統一されていました。
今思うと、ちょっと気持ち悪いかなぁとも思いますが、私はこの小学校が大好きで、何より育ちの良い子が多いので、変な自慢や妬みがありません。(これはこの後にこのありがたみを知ることに・・・)”子どもの中では”皆が平等でした。
なのですが。
担任(男40歳)はこの小学校に転勤してくるなり、
「この学校の教師は保護者の顔色ばかり伺って、おかしい!!僕は保護者に媚びたりはしません!!この学校を変えてやる!!」
と保護者の前で断言したのです。
でかい口は叩くもんじゃないです。
一気に保護者からの反感を買いました。そして、こいつがこれを言えるほど腕の立つ奴で無いことがすぐに証明されます。
最初から、私はこの人のことが好きではありませんでした。
力量のある人間だと思えなかったのです。
理由はこの一言でした。
私には病気があるので、事前に3者面談をします。
そのとき、この先生は私に、

「きつかったら自分で言えると、今僕と約束してくれますか?」

と言いました。
もうこの一言で、この人の人柄も力量もすぐにわかります。
だって、遊びたい盛りの子どもですよ??
あんたはどんだけ落ち着いて素晴らしい幼少期を送ってきたんだ、と。
というか、そんな子ども時代楽しくないだろう(笑)子どもなんてやんちゃやってなんぼじゃないか!!
責任転嫁、ですよね。
それも、40歳の良い大人が、10歳に満たない子どもに対して。
今なら「あんたのその脳みそが何のためについてるか教えてやろうか???物事を観察するためだよ、考えるためだよ!!!」と言ってやりたい。
帰りの車の中で母に、

「お母さん、大変残念ですが、あいつは駄目です。大した人間じゃない。」

と言いました。
ため息をついていた。

すぐに問題は起こりました。体育の時です。
そのときにはもう身体もきつくて、だけどやっぱり大好きな体育はしたいって気持ちがあって・・・葛藤です。
母には、「皆と同じペースで走ったり、激しいことは参加したら駄目」と言われていました。
体育が始まってすぐ、ウォーミングアップにグランドを3周走れとの指示がありました。
1番前の人から、次々に走り出します。
参加はしたい、でも、でも・・・
私は、先生は止めるだろうと思っていました。
”自分から「出来ない」と言うのは”嫌でした。
あたかも、今髪の毛解けちゃってと、髪の毛を結ぶフリをしてとぼとぼ歩いていたら、先生がとても大声で、「おい!!!何さぼってるんだ!!!さっさと走れ!!!!」と言ってきました。
怖さとかじゃないです。「このおっさんは何言ってるんだ?」と驚きました。
さぼってるって何???、と。
でも、参加して良いなら・・・と、私はグラウンド3周を走りきったのです。
その日、私が家に帰るなり、顔色は真っ青だし寝たきりで動かないので、母が理由を聞き、この体育のことが判明。
あまりにも様子がおかしいので、次の日病院で検査をすると数値が一気に悪くなっていたそうです。
そのことを、先生との連絡帳に書いたときだったと思います。(もしかしたら、このことじゃなく別のときだったかも;)
その日の夜、先生から電話が掛かってきました。
偶然私が電話を取り、母に変わるように”いつもの感じ”で言われました。
だけど、電話をしている母の様子がおかしいです。
1分もたってないと思います。
母が青ざめて戻ってきました。
先生の方から電話を切ったそうです。

「連絡帳読みました。
僕は教師だけど、人間です!!!!!
教師を馬鹿にするのもいい加減にしてください!!!!!!!!
連絡帳はもう結構です!!!!!」


ガシャンッッッ


と母に怒鳴って。母は固まっていました。
まだ1学期始まって間もない頃の話です。
「いい加減」と言う言葉はもっと耐えた人間が言う言葉では・・・??
いや、そんなことはどうでも良いんだけど。
もう意味不明でした。

もちろん、教頭、校長に言いに行きますよ。
だって、そのくらいの内容ですもん。走らせたことについても、それにより結果が悪くなったことも、怒鳴りの電話も。
グラウンドを走らせたことについては、「あのときあちゃさんは、僕と、きつかったら言うと約束しました。僕はその言葉を信じてました。」です。
阿呆かって。
何度も言うようだが、相手は子どもだぞ。
このときの教頭先生がとても良い人だったんです。
母が教頭先生に
「私は何かおかしいことをしてますか?怒鳴られる内容ですか?」と聞きました。
教頭先生は、「いえ、お母さん。おかしくなんてちっともありません。子どもを心配してるだけじゃないですか。むしろ僕は感謝してます。これはもっと上(教育委員会)に言ってもおかしくない内容なのに、お母さんは僕たちのところに来てくれました。僕たちのことをまだ見捨ててないんだと思い、安心しました。
どんなことがあっても、子どもを育てるはずの教師が、一時の感情で感情的になってはいけません。しかもその内容が、自分の教師としての責任です。責めるべきは、あちゃさんなんてもってのほかで、お母さんではなく自分自身でなくてはならないはずです。
これは僕の責任でもあります。
お母さん、もう一度、僕とこの教師にチャンスをください。」
と言われたそうです。
でも、この人が改善する感じはあまり無かったです。
何よりも、教頭先生が良い人だったから、学校に通えたようなもんです。

クラスの皆に私の病気を言わなくてはなりません。
”私のいないところで”そういう”約束”でした。
でも、こいつは、その約束を破り、私がいる中で言いました。
理由は、「ルールは破るためにある」とか何かそんな、よくわからない理由だったように思います。
教室では耐えて耐えて耐えて泣きませんでしたが、その日、学校に迎えに来た母を見るなり、泣いてしまいました。
これもあり、運動会に参加出来ないことを皆に伝える時は、「あちゃさん、保健室に行っててください」と私を保健室に促し、皆にそれを伝えました。
最初からそうすれば良いのに。

病気の子を持つ親はとても神経質です。
それは、病気のことだけでなく、何もかもです。
でも、教頭先生はそういう母を、「一生懸命なんだ」と親身に温かく受け入れてくれていました。(たぶんおおよその人間はそうなんだと思いますが。)

私は、勉強が出来ない方ではありませんでした。
学校にあまり通えてないわりには、クラスの中でも出来る方だったと思います。
”だからこそ”、少しずつ勉強についていけなくなりだした頃に、”学校が終わってから数分でも良いから、勉強を教えて欲しい”と母が担任にお願いしました。
すると、
「あちゃさんは勉強は出来ています。毎日学校に来てても勉強が出来ない子どもがいます。その中であちゃさんだけに勉強を教えているのは不公平です。」
まぁ、ここまでは納得出来なくはありません。
「お母さん、病気と勉強、どっちが大切なんですか?
どっちもを選ぶなら、病気の子が通う学校だってあるんだから、そういうとこに行った方があちゃさんのためにも良いのでは無いですか?そちらの方がお母さんも安心なのでは無いですか?」
母は、「あちゃに死ねって言ってるのか!!病気か勉強だったら、病気を選ぶに決まってるじゃない!!!」と言い、それについては私も激しく同意でした。
これについては、教頭先生は、激怒でした。
「お母さんが言ってるのは、これからのことを見越してじゃないですか!今、勉強が出来てるからこそ、今後どうなるかわからないわけだから、そこを延ばすのが教師の勤めでしょう。
病気か勉強??何だそれは!!どっちもだよ!!!
いち教師が、養護学校へ促すなんて・・・
あちゃさんはまだまだ普通の学校へ通えますよ。
大丈夫ですよ、お母さん。
勉強は僕が教えます。」
私は、「この学校には友達もいるし、友達とは別れたくない。ここに通いたい。」と言いました。



10月、運動会の時期です。
とっても憂鬱です。
運動会には参加出来ないだろうと諦めていたのですが、教頭先生のはからいで、「少しでも出来ることがあるなら」と試しにお医者さんに聞いてみました。
すると、綱引きくらいなら参加しても良いとのことでした。
絶対に参加出来ないと思っていたので、これは嬉しくて嬉しくて。
教頭先生も、一緒に喜んでくれました。
だけど、担任だけが良い顔をしません。
「うん」と言わないのです。
何でだったのか・・・「途中で倒れたら」とか「あちゃさんだけに構ってられない」とかそんなだったと思います。
そんなんでもめていたある日、校舎裏にある人気の無い、プレハブ小屋に先生に呼ばれました。

このときが、こいつのピークでした。
これから後は、ただただ小さくなっているだけの存在です。

内容を簡潔に言うとこうです。
「運動会参加は諦めてくれ」
「僕がこういうことするとまたお母さんに話して、僕を悪者にするんででしょう?大変なんだよね。」
「学校でも立場が無いんだよ」

私、友達に対してはおおらかだし、友達と口喧嘩もしたこと無いくらいで。
ですが、”教師”に対してだけは違うんです。
物事をずばずば言います。反抗的な態度も取るし、時には強い口調で言い返します。
それは、大人だからです。大人は子どもを育てる存在だからです。
その大人が間違ってると思えば、とことん言及します。

このとき、先生と口論になりました。
40歳vs10歳(笑)
その歳の差、30歳。

口論になった末、先生から出た言葉です。


「あちゃさんは病気だから、1人じゃ何も出来ないでしょう?」


もう、ただただびっくりでした。
こんなこと言う人間がいるのか、と。
「机だって1人じゃ運べないじゃないか」とか何とか言ってたけど、そんなのどうでも良くって。
呆れ笑いすら出るかってくらい呆れた。
わりと最初の方から、教師だとか思ってなかったんですけど(笑)完全にプツンと何かが切れた瞬間でした。
もう倫理観とかどうでも良くなった。

「お前、今言った言葉忘れんなよ!!!!
今に思い知らせてやる!!!!!
絶対に後悔させてやる!!!!!」

そう怒鳴り、プレハブ小屋を後にしました。

1人じゃ何も出来ないだって??
出来るところを見せてやる。

教室に戻るまでの道のりで、色々考えました。
ただただ、この男を苦しめてやりたかった。
自分の心が汚れてるとかどうでも良い。人にどう見られても良い。
この半年、自分が苦しめられた、倍、いや何十倍と、こいつを苦しめたかった。
そうしなきゃこの怒りはおさまらない。

教育委員会に言うか?
でも私のために一生懸命になってくれている教頭先生を苦しめたくはありませんでした。
それに、これをするのなら、この教師面した男から教員免許を取り上げるくらいのことをしなければ意味が無いと思いました。ただ、私や、私の親が恥をかくだけだ、と。
それは嫌でした。

こいつは、私が病気だからこう言ってるんじゃないんです。
”病気”なのに”弱者”じゃないから気に入らないんです。
想像していた病気の人間じゃないんです。
”病気”なのに、友達がいて、クラスの中心人物で、勉強もできて、運動神経も良くて、活発で。
もしも、わたしが車いすに乗っていれば、もしくは、目に見える病気であればこいつの態度は違ったと思います。
病気と言うもの以外で、付け入る隙が無かったんです。弱みがありませんでした。
病気以外は完璧だった。
だから、私と言う存在が気に入らなかったんです。
そのことも、やつの態度を見ていてわかっていました。

でも私は、病気だからってそんなこと思われてたまるか、と思いました。
40年間健康に生きて、病気の1つもしたこと無い人間に何がわかる、と。
こんなやつより、10歳の私のほうがよっぽど頑張ってる。
だから、ここで引き下がることは無いんだ。
私は間違ってない。戦ってかなきゃいけない。

名案を思いつきました。

「自分がいなくなれば良いんだ」

私には兄が2人います。
なので、いろんな保護者が私の存在を知っていました。もちろん病気のことも。
そして、病気だから、学校中の先生が私を知っていることも理解していました。

「これを利用しよう」

しばらくの間、友達と会えないのは悲しいけど、これが一番の策だと思いました。
思いついたとき、笑いが止まりませんでした。

私の思いついた案は、不登校になることです。
こうすれば、こいつはクラスの子たちだけでなく、保護者、学校の先生からも白い目で見られます。こいつの居場所が無くなります。

「これ以上に良い方法はない。」

そう確信しました。
そして、決心しました。
”絶対に泣かない”
こんなクソみたいな人間の前で涙を見せることは無い。弱いとこを見せたら負けだ。
こんなやつに負けるもんか!!!
なので、しばらくの間、トイレに入り1人で泣きました。
この涙を最後にしよう。
この後からは強い私でいよう。
今日のことは、私だけの胸の中に閉まっておこう。

誰にも、何も言いませんでした。
このことだけでなく、私が不登校になる理由は十分にあったので、説明する理由もいりませんでいた。

結局、運動会は私から引き下がるという形で参加しませんでした。
”もう二度と出来ない”と思うと悲しくもありましたが、私には野望があったので、どうでも良かったです。
競技が始まっても、体操服で母のいるところにいるので、他の保護者の方にたくさん質問をされました。
”これから自分が生きて行く道は、こういうことがたくさん待ち受けているんだろうな”
ぼんやりとそう思いました。


3学期が始まって1週間もしないうちに、学校に行くのをやめました。
自分で決めた通り、不登校になったのです。

そして、長かった髪の毛を「この中にはいっぱい嫌な思い出があるから」とばっさりカットしました。初のショートカットです。
カットしに行った美容院、そのとき着ていた服まで明確に覚えています。
「この髪が伸びる頃には、きっと今より良い日々を過ごせる」
そう願掛けをしました。

やつが苦しんでいる姿を想像すると、すっきりとしました。
そして、実際、私の予想通り苦しんでいました。
私が学校に行かなくなって数週間が過ぎた頃、最近私の姿を見ないなと思った教頭先生が担任に聞いたそうです。
「今思えば、僕のことを避けていた」そう言ってました。
最初は、言葉を濁したそうです。
追求すると、私が学校に来ていないことを渋々打ち明け、それを聞いた教頭先生は、廊下で他の人が通って行く中で、そいつを怒鳴りました。

学校に行かなくなってから、毎日のように友達が入れ替わりで4人くらいその日あったことを教えに来てくれました。子どもたちで話し合って来てくれたそうです。
1日のうちで1番幸せなときです。
時々、担任が来ます。
玄関口で「あちゃさん、会ってもらえないですか?少しでも顔を見せてもらえないですか?」と、か細い声で言います。
とっても醜かったです。
私は顔も出さずに、「何しに来たんだよ、さっさと帰れ」と無愛想に言います。
不登校になってから、担任とは2度しか顔を合わせてないです。

近所で教育学部に通っているお姉さんがいました。
勉強はその人に、家庭教師という形で教えて貰いました。
1日がとても長いので、花や植物をたくさん育て、それをたま~~に学校に植えに行きます。
種から目が出る瞬間がとっても好きで、本当にたくさんの植物を育てました。
びわの種って、お店で買ったびわでも簡単に発芽するんですよ。
びわが好きなんで、いくつ発芽させ、いくつ植えに行ったかわかりません。
あまりにも多かったんで、学校だけでなく、近所の庭にまで植えに行ってました(笑)
時々は、邪魔になった枝を切って、それを水につけ、根を出してみたり、付け木に挑戦してみたり。
近所で面白い花や木があったら(だいたいが面白いんだけど笑)、「ちょっとちょうだいっ」と貰い、また根を出させてみたり。
花から種になり、その種をまくと、また同じ花が咲くのがとっても不思議でした。
どの部分から根が出るのだろうと色々実験したり。
もっとちゃんと育てたいなと思って、植物図鑑とにらめっこしていました。
そんな私を見て教頭先生は、「これが本来のあちゃさんの姿なんだろうな」と言っていました。



そんなときに、親戚のおじさんが自殺しました。(『病気と共に③』参照)
これが関係していたわけではないと思うのですが、それから1週間もしないうちに高熱を出してしまったのです。
インフルエンザじゃないのに、40度も。
3年生くらいから、平熱が37度を超えることが当たり前で、1週間に1度(しかも休日)は38度になるのが普通でした。
でも、友達と遊んでた(笑)身体きついんだけど、遊んでるときは楽しいんです。
病院の待合室で待っているときに、ひきつけを起こしてしまい、そのまま緊急入院。
入院中、初めて金縛りに合いました。
夢におじさんが出て来て、そのおじさんは娘さんと一緒です。
最初、2人部屋を1人で使ってたんですけど、2日くらいしてネフローゼの女の子が来ました。
「治る」と言われていた子だったので、治ってれば良いけど。
招かれざる客も来ました。
担任です。
話すこともせず、何しに来たのかと思えば、4年生の終わりに作る冊子に1人1人コメントをのせるからそれが欲しい、と。
そっぽ向いて、私も何も話さないし、担任も何も話さないし・・・たまたま事情を知ってる同室の子のお父さんがお見舞いに来ており、担任に、
「あんたさぁ、何も話すこと無いんだったら、出て行きなよ。あちゃちゃんだって、あんたの顔なんて見たら余計身体悪くなるだろうが。」
と言い、担任を追い出してくれました。
母が来てから、「何だあいつ!!!鉄パイプがあったら後ろから殴ってやりたかった!!!!あんなんが教師で良いのか!!!!」と興奮していました。
私は、担任のお望み通り、コメントを書いてやりました。
マイメロディーのメモ用紙に、
「この1年は最悪でした。
その理由は○○先生(担任)です。
こんなやつ、教師になる資格無いと思います。
さっさと辞めて欲しいです。」
と(笑)
もちろん使われることはありませんでしたが(;^_^A

時々、保健室に通っていました。
保健室は嫌いだったけど、保健室の先生と教頭先生は好きだったのです。
友達が、授業さぼって会いに来てくれたりしました。
思えば、以前から学級は崩壊気味でした。
私が不登校になる前から、私が熱があり保健室に良く行くためか、保健室には”私のクラスの生徒だけが”10人、20人といるのが当たり前だったんです。
私が保健室にいる間、担任は、出入り禁止となっていました。
でも1度だけ、「こうでもしないとあちゃさんは会ってくれないから」と、裏口から入って来たことがあります。
私はびっくりして、ずっと下を向いています。
髪を切った私を面と向かって、見られたくありませんでした。
こいつのせいで傷ついてると、こいつに「弱い」と思われたくなかった。
「最近、どうしてましたか?」
「何か話してくれないかなぁ」
話す気なんてさらさら無いです。
だったら、私の前に土下座しろよ、と。
それでも許さないけど。
教頭先生が来て、「出て行きなさい」と言い、ここでも担任は追い出されました。
緊張が解けて、泣かないって決めてたのに、自分でもびっくりするくらい涙が溢れて止まらなかったです。人前でこんなに泣くかってくらいわんわん泣いた。
ちょうど迎えに来た母はびっくりしていました。


4年生が終わる頃、担任から手紙を貰いました。
読まずに燃やそうと思いましたが、やつの惨めな姿を拝んでやろうと見ました。
何が書いてあったかは覚えてないですが、上っ面ですね。
お望み通り、お返しの手紙を書いてあげることにしました。
「私とお母さんの前で土下座しろ」
「お前のことなんか教師と思えないし、そのへんのおっさんくらいにしか思ってない。」
「これから学校が始まって、お前と会っても、私は会釈はしない」
「だって、道ばたにいる”知らない”おじさんに、わざわざ会釈しに行く馬鹿はいないでしょう?」
「お前なんて、あたしにとってはその程度の小さい存在だ」
書いてたら止まらなくて、5枚くらいになったと思います。


4年生が終わったとき、母と私が校長室に呼ばれました。
それまでも何回か校長先生とは会ってはいましたが。
校長先生は、私に質問をしてきました。

「あちゃちゃん、”明日”って言う字はどうやって書くか知ってる?」

「”明日”って言う字は、明るい日って書くんだよ。きっとあちゃちゃんの未来は明るいことがたく
さんあります。僕はそう信じてます。この1年間本当に良く頑張ったね。」

この1年間があまりにも大変すぎて、そう言われて、涙が出ました。
”やっと終わった”と。
それから、最後に校長先生に、「本当に申し訳ありませんでした」と土下座されました。
嫌いな校長先生ではありませんでしたが(わりと好きな方)、「この人は、何のために謝ってるのかな?」と疑問。
「教育委員会には言わないのに」そう思いました。

この年、校長先生は移動になってしまいました。
それからしばらくは、毎年年賀状を送ってくれていましたし、良い校長先生だと思います。
きっと、心から謝ってくれたんだと、そう思っています。


3年生のときの担任も、卒業なわけでもないのに「頑張ったね」って花束をくれ、抱きしめてくれました。
先生は、泣いていました。



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今回はここまで!!
本当に、どうしようもないやつだったんです。
今の教育現場で、こんなことが行われていないことを願うばかり。
病気だからって、障がい者だからって、弱くならなくて良いんですよ。
ただ、人よりも、命を見つめて頑張って生きてるだけじゃないですか。
こういうクソみたいなやつに負けること無いんです。
立ち向かって行って良いんです。
そこで理解して貰えなかったら、”その程度のやつ”なんです。
そう思います。


次回は、私が小学校5年生のお話です。
やっぱり小学校生活を2回でまとめるなんて出来なかった・・・





ここまで読んでいただきありがとうございましたヾ( ´ー`)
(前回→今回)
採血
クレアチニン  0.95→1.01
ヘモグロビン 11.1→11.2

採尿
蛋白 ー
潜血 ー



私、このくらいしか見てないんだけど、皆さんはどうなんでしょう??
血中濃度は、もう薬はこれ以上下がらないので、最近は関係なくて、薬飲んでから採血してます。
自己紹介のとこにも書いてるのですが、現在薬は、

朝、ネオーラル2錠、ブレディニン4錠
夜、ネオーラル1錠

です!
あとは、アレルギーの薬アレジオンを毎晩飲んでるくらいです。
今、腎の知らない先生が来て、いきなり「今は常食なんだけど、明日から塩分制限のある腎臓食にしてもいいですか?」と言ってきた。
「塩分控えめにって言うのは、大人で移植した人には皆に言ってることなんで」って。

おっっっっまえのような若造に言われても説得力ないわ、どあほう!!!!

「塩分控えめってのは血圧も下がるし、身体にとっても良いことなんですよ」って言うから、「私、これ以上血圧下がったら困るんですけど・・・」って言いました。
「塩分控えめにしてすぐすぐ血圧下がることはないと思うんで」ってさぁ・・・・・それは下がるってことか???
「血圧のために塩分取ることもあるかもしれないけど」
って意味わからん。もっと自分の意見を持って話せ!!!!

日常生活ではどうしたらいいの???
ていうか、なんでいきなり今????
その前にいろいろ説明することがあるんじゃないのか?????
医者なんだから、日本語ちゃんと話せよ。

「移植してしばらくたってるし、塩分控えめにしたほうが腎臓も長持ちするんで」って、塩分制限はしばらくたってるからの指示なの???それとも検査結果で塩分高く出たとか???
ていうか、お前は誰だ???←
誰の指示であたしのとこに来てる人なんだ????
患者の今までの経過もしらないで、自分の個人的見解で来てるならやめてよね。
若い医者は変なプライド持ってるやつがいるから全てを信用することは出来ないんだよね。

塩分取りすぎないようにするのと、「塩分制限」になるのとではかなり違うと思うんだけど。
腎臓食にするほどに制限しなきゃならないのかしら?


私、料理得意で、基本的に自炊派なんです。
だから外食に行くこともほとんどありません。
宮崎出身なんで、ついつい味は濃いめになっちゃうんだけど。
それでも、ヘルシーな食べ物が好きだから、そのへんにいる人よりはるかに良い食生活を送っているとは思いますが。


とにかく、説明が不十分なのにいきなり「腎臓食」だの「塩分制限」だの言い出すから、意味が分からなくて、腎の看護婦さんに文句のメールを送った。返信くると良いけど。
医者の名前も記載したかったけど、ネーム小さすぎて見えなかったよ・・・
あの医者、私は嫌いだ!!!というか、ベテラン以外、私は全員嫌いだ!!!!
抜歯終わりました!!
15:30に手術室に入り、色々準備をして、15:58から鎮静剤の投与を開始しだしました。
父も手術室前まで来て、普段入れない場所になんだか楽しそうにしていました(笑)
記憶は•••痛い記憶はあります。麻酔の注射と歯を抜くときかなぁ•••それが痛かったんだと思います。
「普通に痛いじゃん!」って思ったのは覚えてるのですが、「普通に痛かった」という感じではありません。
全部で1時間くらいだったようです。
目が覚めて時計を見たときは、16:05くらいでした。
このままずっと記憶あるのーーー???と思っていたのですが、すぎてみると10分くらいだった感じです。痛いときだけ目覚める、みたいな;;

いやぁ、とっても疲れた•••

今はあごとべろが変な感じです。

抜いた歯は、持ってかえることにしました(笑)

今日ちゃんとご飯食べられるのかなぁ。一応お粥なんだけど。
そして、今週の土曜日は飲みなんだけど、お酒は飲まないな。


抗生剤投与のため、明日1日は安静をとって、土曜日に退院します。
今回は、病気のことと言うよりも、私の忘れられない思い出や、家族に起こったことを書いていこうと思います。



☆今回はここまで☆→後10年頑張って生きてくれていたら、私が理解してあげれたのに


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小学校3、4年生、運動制限が始まった以外にも大きなことが2つ起こりました。

1つは、気付いたら家庭が崩壊していました。

もう1つは、親戚のおじさんです。


1つめ、家庭崩壊。
今は違いますが、父は元自衛隊隊員だったこともあり、兄2人に対しては非常に厳しい人で、両親とも兄2人に対して「うちには病気の子がいるんだから、他の家庭とは違うんだから、あんたたち(兄2人)はしっかりしなさい」と言うのが口癖でした。

6歳離れた1番上の兄が中学校に入って1年もたたないうちに、だんだんと素行が悪くなってきました。
ようするに、不良です。しかも、警察沙汰になるほどの。
そういう時代っていうのもあったと思います。
鉄バットで学校のガラス割ったり•••
1回、学校中の全ガラスが一夜にして割られるという事件が起こりました。
それは兄たちがやったものではないのですが、それの犯人に名前をあげられるほど、悪かったです。
でも、だからか、女子にはモテていて、私がお散歩してると「○○(私の名字)先輩の妹さんですよね?!お兄さんによろしくお願いします!!」とよく声をかけられていました^^;
バレンタインのときも、チョコレートを2袋分くらい、どっさり貰ってきていました。
が、私の兄はわりと”チキン”なんです。
夜、一人でランニングに行くのを怖がったり、虫が大の苦手で、大人になった今でも14歳下の妹(私の8歳下の妹)に「俺は虫が嫌いなんだ!!」と取ってもらったり••••
ちょっと頭がおかしくてw最近も「晩飯買いにいったら、犬があまりのも可愛くて衝動買いしてしまった」と。犬ってそういう感じで買うもの?って感じですよ^^;
それを言ったら、「トマト買いに行って犬買った人もいるからね!!俺は晩飯買いに行ってだったから。」と、どういう理屈だ?と言うことを、真顔で平然と口にします。
もう、意味がわかりません。
•••ちょっと話がそれてしまいましたが、兄は”チキン”なんです。
バレンタインでそんな多くのお菓子を貰っても、「知らない人間が作ったものなんて何入ってるかわからないから怖い」と、その全てを母に託していました(笑)
結果、私と母とで食べました♪♪

私が小学校3年生、兄が中学校3年生のときのことです。
私は体調が悪く学校を休んで家にいました。
その日は兄の高校の受験日だったのですが、朝、母が起こしに行っても起きないのです。
母が必死に、「起きてよ!」と、「高校受験行ってよ!」と言いますが動こうとしません。
「あなたがちゃんとしてくれなきゃ•••あの子(私)運動制限も始まって、これからもっと大変になるし、お金もかかってくるし、あなたたちがしっかりしてくれなきゃお母さん困るのよ。」

いつもと同じ言葉でした。いつも言ってる言葉でした。

でもそのときは兄の態度が違いました。

「お母さんたちは、いっつもあちゃのことばかり。
何しても、あちゃ、あちゃ、あちゃ、あちゃって。
いい加減にしてくれよ。

俺も、弟も、あいつのために生まれてきたんじゃないんだよ。」

初めてです。私の病気が発見されて5年。兄が初めて文句を言いました。
10歳から5年間、ずっと胸にしまってきた言葉でした。

母は、泣きながら、
「気付けなくて、ごめんね」
と言っていました。

でも、しばらくして、
「でもね、これだけはわかってね。
今、あちゃは本当に大変な状態なの。学校に通うことだって、病気の状態だけじゃなく、周りの理解とか、あなたたちが思っている以上に辛い思いをしているの。でも、家では笑ってるのよ。
あなたたちのことが見えなくなるくらい、お父さんもお母さんも必死なの。
今はまだ理解出来ないかれないかも知れないけど、将来あなたに好きな人が出来て結婚して子供が出来て、その子どもがあちゃのような病気を持っていたら、あなたもお母さんたちのように必死になると思う。今は”そんなの良い訳だ”って思ってくれても構わない。
そういうお母さんのこともわかって欲しい。」

結局、兄は高校受験をさぼってしまいました。行きませんでした。
兄は私立の高校へ行き、父とはそれから10年くらい口も聞いていませんでした。
「あんなやつ息子じゃない」と、父は兄の学費を出しませんでした。
昼間は私がいつどうなる状況かわからないので、母が働くことなんて出来ないです。
兄の学費を払うため、朝、新聞配達をして、学費代をためていました。

母はそのときのことを、
「でも、あのときそう言ってもらえて良かった」
と言っています。
兄弟に病気を持つ子がいると、両親はどうしてもその子に構ってしまいます。
養護学校で出会った家族の中に、何人も親の愛情不足で兄弟、姉妹が精神病(一時的な)になったという人がいました。
我が家はそうまではならなかったので、まだ良かったのかもしれません。

養護学校に行くことは私は不本意だったけど、病気の子を持つ親がたくさんいるので、母は非常に楽そうでした。
私にはわからない、病気の子を持つ苦労を親同士でたくさん話せて、むしろそれが笑い話のようになって、楽しそうでした。
そういう意味では養護学校へ行ったことは良かったのかも、とも思います。




そして、もう1つ。
これはわたしが小学校4年生の冬だったと思います。

親戚に、昔、心臓病で娘さんを亡くしたおじさんがいました。
そこは、2人兄弟で、上が心臓病を持った子、下は男の子でした。
私が生まれたのは、その娘さんが亡くなって間もなくしてで、しかも私も生まれつきの病気でした。
だから、他の子ども以上に私のことを可愛がってくれていました。

田舎なので、親戚との関わりとか面倒くさいこともあるのですが(うわさ話など)、そんな中でも、人に嫌な思いをさせず、物事をやんわりとかわせる優しいおじさんで、私はそのおじさんが親戚の中で一番好きでした。親戚の集まりがあると、いつもそのおじさんの膝の上、もしくはそばにずっといました。おじさんも、真っ先に私を呼んでくれました。
私は詳しいことはわかりませんが、交通事故をきっかけに(保険関係??)そのおじさんが親戚中から阻害される、ということがあったようです。
我が家はあまりそういうことに興味が無い、関心が無い家庭なので、別にどうこうは無かったのですが。
いろんなほとぼりが冷めた頃、そのおじさんが元気が無いと、親戚中が集まって大きな旅館で食事会をしました。
「あちゃ、ここに来い」と、いつものようにおじさんの席の前に座りました。
「真ん中なんて俺は嫌だよ」よ、1番端の席に座りました。
皆は、元気そうなおじさんを見て安心していましたが、私はそうは思いませんでした。
明らかにおかしかったです、おじさんの様子が。
親戚中の人の態度も、おじさんの笑顔も、私には上っ面に見えた。
皆でカラオケをするということになったのですが、普段はおしとやかなおじさんが、あたかも”楽しそうに”自分から進んで歌いました。
笑ってます。笑顔です。
歌い終わって、皆に背を向けて座ろうとしているおじさんの顔を私は見てしまいました。
何と表現したら良いか。
全ての闇を一挙に背負っている、そんな感じです。
「死んでしまう」
そう直感的に思いました。
まだ「自殺」って言葉を明確に理解している年齢ではなかったと思います。
「いけない方法で死のうとしてる」と思いました。
でも、死のうとしている人間に直接「死のうとしてるでしょ?」と言って良いものか。
私は”いけない”と思いました。
何て言おう、何て言おう。

私は、
「生きてれば何か良いことあるよ?」
と言いました。

これで、わかってくれると思った。
おじさんは、困ったように笑って、

「そうだねぇ•••••



でももう疲れたよ」

そう言いました。
幸せそうな顔をしていた。
「無理だ」と思いました。
「もうこの人には、何を言っても伝わらない」
次の日です、おじさんは死んでしまいました。自殺です。
一人ぼっちで、裏山で。
発見されたのは3日後でした。
電話がかかってきたとき、母が私にそれを伝える前に、私の方から「おじさん死んだんでしょ?」と言いました。
私は、そうなることを知っていました。
でも、止めることは出来なかったです。この人はこうなる運命だった。
これがこの人の寿命だったんです。


それは、お葬式の日、本当に心からそう思いました。
皆が、
「あのときはあんなに元気だったのに」
「可哀想に」
「何で何もしてあげられなかったんだろう」
と口々に言います。
大人が気付けない存在だとは、まだ10歳そこらの私にはわからなくて、おかしな人たちだと思いました。
「元気だった??全然元気そうじゃなかったじゃん。全て自己満足で、気付こうとしなかったんだろう!そもそも、おじさんをここまで追いつめたのは、あんたたちじゃないか!あんたらが殺したのも同然だ!!おじさんに触るな!!!」
と怒りが込み上げてきた。
棺桶に入っている、苦しそうなおじさんの顔を見て、心から「死んだのは正解だったよ。ここはおじさんの生きやすい場所じゃない。」と思いました。
自殺を良いものだと言ってるわけではないです。もちろん反対です。でも、こういうこともある、ということです。

このときには、まだ私も人の死を経験していなかったので、おじさんの悲しみとか苦しみとかをわかることが出来ませんでしたが、きっと、変わっていくことが嫌になってしまったんだと思います。
娘さんが亡くなって、最初の頃は皆が娘さんの思い出話をするのですが、時間が経つにつれてそれが少なくなっていき、いずれ娘さんの話自体が無くなっていきます。
「忘れられた」と、2度も娘の死を経験した感じだったんでしょう。
おじさんにとっては、きっとそういう人間皆が敵でした。
口数の少ない人だったので、全て一人で背負って、一人で悲しんでいたのではないかと。
今ならそれが理解出来ます。
後10年頑張って生きてくれていたら、私が理解してあげれたのに、と今は思います。
一人で苦しむことなんて無かったのに。
1つだけ、良かったと思えることがあるのなら、それはたった一人でしたが、私だけがおじさんに気付いてあげれたことでした。
死んでいく前に、ちょっとだけでもその私を思い出してくれたのなら、良いなと思います。少しは、幸せだったかな、と。

おじさんのところに行ったとき、よく田舎道を散歩に出かけました。
手をつないで歩いて、おじさんはまっすぐに前を見つめています。
娘さんのことを思い出せる時間だったのかな。
それだけじゃない。
私を膝の上に座らせてるとき、私が隣にいるとき、「生きていたら」と思っていたのかも知れません。



いろんな生き方、いろんな死に方があるけど、これは、私が見た一番納得のいく死でした。
不器用な人でした。


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