『県史 京都府の歴史』に沿って、「現体制を守る」という意味での右翼に幕府を、「現体制を解体して新しい体制を作る」という意味で、左翼に反幕尊攘派を拝する構図で整理すると明治維新の流れがわかりやすい。
(京都にて「時代祭」2023年10月撮影。以下同様)
そしてこうやって整理すると、孝明天皇と薩摩藩が右翼と左翼で立場を変えたのが明治維新に大きな影響を与えた、ということでしょうか。
以下時系列で整理。
1858年「右翼の井伊直弼」が開国を促すも「左翼の孝明天皇」が拒否
1861年「右翼の孝明天皇と幕府」が公武合体路線を歩む(家茂&和宮の婚儀)
→公武合体論者かつ攘夷論者だった孝明天皇が公武合体論を優先
1862年「左翼の水戸浪士」が老中安藤信正襲撃(坂下門外の変1862)
1862年「右翼の薩摩藩」が左翼尊攘派を襲撃(伏見寺田屋事件)
1862年「右翼の会津藩」が京都守護職
1863年「右翼の孝明天皇・薩摩藩」が「左翼の公家と長州藩」を追放
1864年「右翼の孝明天皇・会津藩」が「左翼の長州藩」を京都にて撃破
1866年「右翼の薩摩藩」が左翼に転向→「左翼の薩摩藩」
1866年「右翼の孝明天皇」が「左翼の岩倉・西郷・大久保」によって毒殺
→「右翼の孝明天皇」から「左翼の明治天皇」へ
1868年「左翼の薩長連合」が王政復古
1868年「右翼の会津藩」戊辰戦争で逆賊扱い
このように、明治維新は、薩摩藩の転向、孝明天皇の毒殺、がきっかけになったように思いますが、時代の流れはいかんともしがたかったでしょうから、この二つがなかったとしても、別のカタチで維新の世になったのかもしれません。